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王様ゲームのこっくりさん 5

 やって来たのは千秋さんの焼き鳥屋さんだった。まだ明るいため店自体は開いていないが、それでも「準備中」と書かれたのれんをくぐる。中で準備していた千秋さんがこちらに気付いた。いつも通りで、黒のシャツにジャージ姿である。

「あ、将……」

「こんにちは」

 千秋さんはしばらくぼんやりとした後、慌てて我に返るように店の準備作業に戻る。何か手伝うことがないかと聞くと、裏にあるダンボールを運んでくれ、と頼まれた。重い段ボール箱を持ってあちらこちら動いて数分、作業は終わり、店の準備もとりあえずは終わる。店の奥で休むことになった。

 硝子のコップに水を入れて出してくれた。働いた後の水はうまい。千秋さんも隣に座って水を飲んでいたが、コップの中が空になると、それをテーブルに置き、何もない空中をぼんやりと見つめるようになる。

「千秋さん?」

「……あぁ」

 千秋さんの顔を覗き見ると、彼女の顔はほんのりと赤く染まっていた。それを見た時、頭の中に突然もう一人の自分が現れ始める。この女性を今すぐ自分のものにするのだ、と。ぼんやりとこちらを見つめる彼女は普段とは違ってどこか抜けたような感じになっていた。

 よく分からない自分と葛藤していると、千秋さんが話しかけてくる。

「少し、時間があるんだ。……いいか?」

 千秋さんは空中を見つめながらそうつぶやいた。断る理由もなく、千秋さんの言葉にうなづいてしまう。すると、彼女はこちらの肩を少し乱暴につかむと、そのまま押し倒した。千秋さんの身体が上に添うように乗り、身体が密着する。

「千秋さん、急に、どうして」

「よく分からない……ただ、お前を見ると急に、な?」


 千秋さんはぶっきらぼうに、それでも優しく、唇を重ねてきた。彼女を抱き寄せ、さらに多くの愛を得ようとしてしまっていた。こちらが強く抱き寄せると彼女もまた、それに答えるように強く抱いてくる。いつしか足も絡み合い、畳の上で二人転がっていた。

「千秋さん……」

「将……」

 しばらくそうしていた。抱きしめる度に彼女の暖かさが直に伝わってくる。胸元に彼女の大きなそれがぎゅっと押し付けられていた。何度も何度もそうしてきたはずなのに、一回一回抱き合う事が特別な物になる。炭臭い匂いも汗臭い匂いもシャンプーの匂いも。

「将はもう、これだけじゃ物足りないのか?」

 ふとそんな事を聞いてきた。確かに「先」に行きたい気持ちはあるのだが。

「ずっとこうしていたいです」

「そうか。そうか……私もだよ」

 一回腕を緩め、今度は千秋さんの胸元に思い切り飛び込んだ。後から包み込むように彼女の腕が背中に回り、逃がさない様にしっかりと捕える。もうどうでもよかった。千秋さんにこうしてもらうだけで、今まで心の中にあった霧が晴れていく。

「仕事したくないって思ったの、これが初めてだな」

 そう言って彼女は頭を撫でてくれた。涙が出そうな程に嬉しかった。

「ずっと、こうしてくれるか?」

「はい……」

 優しく、暖かかった。こういうものが欲しかったんだ。


 その日は千秋さんの家に泊まることになった。百合姉たちには電話できっちりと許可をもらった。普段は嫌な声一つ出そうな物だったが、どうやらそうでもないらしい。嬉しいのか寂しいのかよく分からないが、結局俺は千秋さんの店の手伝いをしていた。

「手伝いのにーちゃん焼くのうまくなったな」

 そんなことを常連客の一人が言ってくれた。そんなことないですよ、と少し照れる。

「ぼけっとすんな、将。油断するとすぐ真っ黒になるからな」

「は、はい」

 慌てて業務に戻る。そうして、最後のお客さんの分の焼き鳥が焼きあがった。千秋さんがタレと塩コショウを担当し、それに味を付ける。お客さんが帰った後、時計を見た千秋さんは横目でこっそりとこちらを見つめてきた。

「……今、いいか?」

「な、何を」

 千秋さんは、椅子に残っている鞄をちらと見た後に言う。

「あれはお客さんの忘れものだ。飲んではいなかったからいつかは取りに戻って来る……そこで私とお前が『して』たら、どう思うかな?」

 悪魔のような微笑みを浮かべた彼女は、そのままカウンターに追い詰めるように近づいてきて、そして、両手で逃げ場をふさいだ。背中から転げる以外に逃げ道はない。

「私と将が付き合っている、と思われるのか、将が我慢できなくなったと思われるのか、それとも、私が我慢できなくなったと思われるのかな?」

 顔が近い。彼女の息がこちらの口元にかかる。彼女は迫ったままで、片手で腰を撫で上げてくる。そしてその手は、徐々にそこに近づいてきているのである。

「千秋さん、それって……」

「こう思うかも知れない。私が、将としたくてしたくてたまらないいやらしい女だって」

 そこに到達する一歩手前で彼女は手を止める。完全に支配されてしまっていた。彼女の目を見れば、する気はないのが一瞬で分かる。遊ばれている。そう考えると、頭の中にいるもう一人の自分が、このままだと満足できないぞ、と悪魔のようなささやきをしてくる。

 なんということだ。それに応えてしまった。千秋さんを店の中で押し倒してしまった。

「あ、将……っ!」

 その時、ガラっと店の戸が開く音がした。それと同時に、頭の中でぷつっと何かが切れたように意識が抜けていく。


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