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サイハテ

作者: 中条 眞

 ビルの隙間からの夕焼けが眩しい。老人は眩しさに、黒のスーツに合わせたハットを眼深に被った。

 老人は、車が走ることのない道路に突っ立っていた。杖を片手に、鞄もなにも持たずにただただ道路の中心に立っている。

 老人は、自分が何故この場所に立っているのかは分からなかった。だが、ここがどういう場所なのかは分かっていた。

 ――――老人は死んだ。つまり、ここは死後の世界。

 天国と言うものは、もっと美しい場所だと思っていたのだが。どうやら、それは生者の想像にすぎなかったらしい。

 老人は止まっていた足を動かし、当てもなく辺りを歩き始めた。

 無人の道を、老人はしっかりとした足取りで歩いた。死んだというのは確かなのに、変な気分だ。ぶらぶらと、足は止まることなく人がいない道を行く。

 そして、行き着いた場所はデパートの屋上だった。なぜここに来たのか、自分でもわからない。きっと高いところから、この世界を見たかったのだろう。と、老人は無意識による行動に納得した。

 そこには、一人の男がベンチに座っていた。

 ここにきて初めて出会う人に、老人は幻なんじゃないかと確かめるようにじっと見つめていた。すると、その視線に気付いた男が、軽く左手をあげて挨拶をしてきた。

 「よ、じいさん。やっと死んだか。待ってたぜ」

 男は片手に酒瓶を、首からは双眼鏡を垂らしていた。年は三十代ぐらいだろうか。服は黒の半ズボンに白のTシャツ。とてもラフなスタイルで、老人のスーツとは真逆のものだった。

 死んだか、という男の発言に、あぁやはり自分は死んだのか、と再認識をする。

 「……アンタも死んだのか?」

 「まぁな。つっても、俺はもう何十年も前の話さ。生きてたら、アンタより少し下か、同い年くらいだ」

 「ここは何処じゃ?」

 「天国、または地獄。というか、どちらでもないな。この前、人を殺した奴を見かけた。悪人だろうが善人だろうが、行きつく所は同じらしい」

 男は酒瓶を煽って、体をベンチの端に寄せた。どうやら、隣に座れと促しているらしい。老人はベンチの端に腰を下ろした。

 「さっき、ワシを待っていると言っておったが、ワシを知っているのか?」

 「あぁ、良く知ってるぜ。見てたからな、コレで」

 ニヤリと笑って、双眼鏡を差す男。

 「あんたの死ぬ瞬間を、コレで見てた。この双眼鏡は死んだ先輩から貰ったやつだ。スペアあるから後でやるよ」

 「死ぬ瞬間……。つまり、現世が見れると?」

 「そういうことだ。俺は人間観察が好きでね。あんたを見てたんだ。ここにいちゃあ、これぐらいしか楽しみが無いんだよ」

 男は酒を飲みながら、双眼鏡で辺りを見渡していた。だが、辺りと言っても、話の通り生きる者がいる世を見ているのだろう。

 「先輩ってのは、だいぶ昔に死んで、ここを去った奴のことだ。ちょうどアンタと同い年ぐらいだったな。寿命で死んだらしい」

 今もここにいたら、余裕で百五十は超えてるだろうよ。そう短く笑って、男は双眼鏡から手を離し、老人に向き直る。

 「その先輩は、俺にここのルールを教えてくれた」

 訝しげな顔で男を見ると、男はこう答えた。

 「ここには、天使もいなけりゃ、閻魔様もいねぇから、ルールなんてないと思ったか? まぁ、確かに法律とか規則だかの、めんどうなものはねぇ。あるのは一つだけだ」

 指を一本、老人の前に突き立てて、男は言う。

 「悔いがあるならなくすまで死ぬな、だ」

 男の言葉に、老人は首を捻った。それもそのはず、自分たちはすでに死んでいるのだ。なのに、死後の世界で何故死ぬのだろうか? 男が言うそのルールは、まるで死ぬことが当たり前のようだ。

 「意味がわからんぞ」

 「俺も最初は分からなかった。だが、ここで暮らしてしばらくした後、理解した。――――ここはな、死者にとっての第二の人生なんだ」

 黙る老人を気にせず、男は続けた。

 「死んだ奴等は、老いもしねぇし、空腹も知らねぇ。もちろん、喉の渇きもだ」

 半分以上も中身が残っている酒瓶を、男はぷらぷらと揺らせて見せた。

 「ここじゃ、俺たちはある意味不老不死なんだ」

 「だが、ルールは『死ぬな』とあるんじゃろう? ならば、死ねることもできるのじゃろう?」

 自分たちは既に死んでいるのに、話していて違和感が拭えない。

 「そうだ、ここでの俺達が行きつく先はまぎれもなく『死』だ。だが、俺たちは既に死んでいる。死者が死ぬなんて、意味不明だろ? だから、行為自体はれっきとした『死』だが、その先にあるものは真逆だ」

 「真逆……『生』か?」

 「その通り! 死んだものがもう一度、生きる。つまり、ここでの『死』は再生。新しい命に生まれ変わるんだ。生まれ変わる命は、本人も知らねえ。人間が虫になるかもしれねぇし、虫が人間に生まれ変わるかもしれねぇ。全ての命が、この世界を通る。そして主に人間が、生きていたころの悔いをなくして、生まれ変わるんだ。俺も、悔いがあるから、ここにいる。アンタも、あるだろ?」

 言われ、ぱっと頭に浮かんだのは、いつも陸上のことをこの老いぼれに楽しそうに話す孫の姿だった。

 老人が死んだ日、孫の敦史は大会だった。それなりに大きな大会で、いつも練習に時間を費やしていると、娘からよく聞いた。そして、見舞いに訪れた時も、話はいつも部活。本当に、走ることが大好きな子供だった。

 結果を聞く前に、死んでしまった。孫以外の家族に看取られながら。

 故に、その孫だけが、老人の唯一の気がかりなのだ。

 「その様子だと、あるみてぇだな。ほら、やるよ」

 首にかけていた双眼鏡を、投げて寄越す。上手くキャッチした後に、老人は頭を下げた。

 「気にすんな。結構ダブってんだよ。――――さて、使い方だが、頭にその悔いを思い浮かべてみろ。人に関係してるなら、その人物を思え。どんな場所でも、思い通りに見えるさ」

 老人は、ゆっくりと双眼鏡を持つ、骨ばった手を目元に持っていった。

 暫く視界は白に染まった。次第に白から形が表れ始め、それは人の影になった。そして、見えたのは、暗い面持ちで食卓に座っている、孫と娘夫婦の姿があった。

 老人は、その光景に息を飲んだ。

 皆、顔に明るさというものを感じさせない。特に、娘と孫の顔色は最悪だった。

 「……ワシが死んでから、どのくらいが経ったか知っているか?」

 「そうだな、一か月ぐらいじゃねぇのか? 死んですぐここへ来るわけじゃねぇからな」

 なら、今のこの状況は、葬式が終わった後のことなのだろう。

 愛する家族をこの様にさせているのは、他でもない自分だ。どうしようもできないことは分かるが、老人の心はやるせない思いでいっぱいだ。

 なんとも言えない脱力感に襲われ、老人は腕を下げた。

 「もういいのか?」

 「……あぁ」

 暗い面持ちで、杖を持つ手に力が込められている。それを横目で見た男は、何処からか取り出したグラスに酒を注いだ。

 老人は滅入る気分を紛らわすかのように、差しだされたグラスに口を付けた。懐かしい、日本酒の味だ。

 「うまいか?」

 「あぁ。てっきり、その瓶から見てウイスキーかと思ったんじゃが、普通の日本酒で安心したよ」

 一気に飲み干して、もう一杯とグラスを男に近づけた。すると、男は突然カラカラと笑いだし、瓶をグラスに傾ける。

 「ハハハ、そうか。あんたにはコレは日本酒になったか」

 「ん? 違うのか?」

 「いいや、あってるさ。ちなみに、昔他の奴に飲ませたときには、ビールになったぜ」

 意味が解らない、と眉を下げる。男は尚も笑い、酒を飲んだ。

 「まだ説明してなかったな。ここでの無生物、まぁ料理された食い物や小物、建物から全て、俺達の記憶からなっているんだ」

 「記憶……?」

 「そうだ。俺の中では、酒はウイスキーと決まっている。だから、この酒は俺の好物の味になる。あんたの中で、それは日本酒なんだろ? 人によって、好みや価値観は違う。だから、ここでの物体は形や味、色をその人間の記憶に合わせて変わるんだ」

 そこまで説明して、男は持っている酒瓶を老人に見せた。

 「俺はさっきからずっとこの酒を飲み続けている。だが、瓶の中には未だに半分以上も残っている。おかしいと思わなかったか?」

 言われてみると、確かに男と出会った時から、その酒が尽きるところなどなかった。

 「無くなりはしねぇよ。俺がそう望んでいるからな。俺がこの酒の存在を忘れねぇ限り、この酒はなくならねぇ。いいもんだろ? 望めば何でも出てくるぜ。金も、食料も、生物以外はいくらでもでてくる」

 「だが、金も食料も、ワシ等にはいらんものではないのか?」

 男は言った。老いも餓えもしないと。ならば、望まなくても構わないのではないのか。

 「そうさ。なにもいらねぇ。だけどな、ここにずっといるっていうのは、精神的にきついものがあるんだ。だから、普通の生活と同じことをするんだ。そうしなきゃ、何十年も俺の心はもってねぇよ」

 だから、俺は三食きっちり同じ時間に食うし、睡眠だってとる。たまには運動だってするし、くだらねぇことに時間を割くことだってある。

 男は坦々と続ける。

 「双眼鏡越しには人はたくさんいる。だが、ここには俺独りきりだ。誰かに会えたとしても、いつかは皆生き返っちまう。一人は、寂しくてたまんねぇ。悔いさえなけりゃ、こんなところすぐに出て行くさ。でも、俺は待たなきゃなんねぇ」

 「……誰か、聞いてもいいのか?」

 「もとより、説明するつもりだったぜ。話し相手がいると、なんでも話したくなっちまうんだ。――――俺はな、ここで家内が死ぬのを待っているんだ」

 待っている。その言葉に、老人は眉を僅かに潜めた。それを見かねた男が、すぐさま続けた。

 「おっと、勘違いすんなよ。さっさと死んでほしいなんて思ってねぇからな。むしろ、うんと長生きして、人生を楽しんでもらいてぇ」

 「今も、健在なのか」

 「あぁ。だが、もう八十過ぎのばあさんだ。寿命はもうすぐだと思うが、俺としては百まで生きてもらいたいね」

 その言葉に嘘偽りがないのを感じ、本当に妻の死を望んでないことが分かった。

 「俺が死んだのは、34歳の時。結婚したのは30の時だ。俺は事故に合い、ここへきた。それからあいつは、再婚もせずにずっとひとりきり。俺を想ってくれてるのか、それとも相手がいないからか。わからねぇが、俺はずっとあいつを想ってきた」

 この男は、死んだ時からずっと、二人でまた会えることを夢見てきたのだろう。たった独りで、生きる妻を、死後の世界で待っているのだ。

 「何人か、一緒に生まれ変わろう、と誘ってくれた奴もいた。気持ちは嬉しい。でも、俺は断った。約束したんだ。『死ぬ時は一緒』ってな。それが、俺の悔い。だから、俺はここで待って、皺くちゃのばあさんと手をつないで死ぬんだ」

 妻を語る彼の姿がとても眩しくて、老人は目を細めた。

 「なぁじいさん。あんたの悔いはどのぐらいだ? 俺のように、長期のものか?」

 問われ、老人は顎に手を当てて考えこんだ。

 悔い、その言葉に見合う自分の気持ちとは何だろうか。考え、やはりすぐに思いつくのは最愛の孫だ。だからといって、男のように孫をここで待つという考えはない。

 「生前、やりかけていた物や、したかったことはないのか?」

 「……大会」

 ぼそりと、自然に出てきた言葉に、自分で言ったにもかかわらず頷いた。

 「そうだ、敦史の大会を見る前に、ワシは死んだ」

 地区でやる、小さな大会だったが、孫にとっては初の晴れ舞台。日が近くなるにつれて、何度も見に来てとせがまれた。

 健康状態が暫く続いたため、外出を珍しく許されたのだが、娘夫婦と出かけようとした矢先に、悪化した。そして、そのまま敦史の活躍を見ることなくこの世を去ってしまった。

 狭い病室の中で、孫の土産話が唯一の楽しみだった。だからこそ、孫の一番の楽しみをこの眼で見たかったのだ。それが見れなかったことが、この老いぼれのただ一つの悔い。

 「大会か。なら、さっそく次の大会の日取りを調べようか」

 そう言い、男は双眼鏡を覗きこむ。そして、ゆっくりと口を開いた。

 「……俺はな、いつしか他人の悔いも、自分のことのように感じるようになった。一緒に見守ることも、俺のここでの生きがいのようなものなんだ」

 いや、生きがいとは言えないか。そう言って、男は苦笑した。

 「俺にも、お孫さんの晴れ舞台を、見させてもらってもいいかい?」

 似つかわしくない、少し丁寧な言い方に、老人に笑い皺ができる。

 「もちろん。ぜひ、一緒に見てくれ」



 そして、月日は流れ、老人が死んでから初めての夏が訪れた。

 死後の世界は、現世と同じく蝉の音と太陽の熱が鬱陶しかった。

 「暑いな。この蝉も死んだやつなのか……?」

 老人はネクタイを緩め、腕まくりをする。額から汗が吹き出し、ハンカチでぬぐった。

 死後、暫くたったおかげか、家族の様子は以前と変わらないぐらい回復していった。だが、祖父の話題は無意識に避けていることが窺える。垣間見せる家族の暗い表情に、老人は心を痛めた。

 「……あんたが気に病むことはないんだぜ。こればっかりは、仕方がないことだ」

 男の言葉に目を伏せる老人の瞳には、言い表せない悔恨の色がうかがえた。

 「後悔のしようがないことは分かっておる。だが、ワシはこの身が憎くてたまらん」

 「……俺も、死んだときそう思った。家内に対し、俺がしたことは最低なことだ。だが、これは生者が越えなくちゃならねぇ壁だ。大丈夫さ、時が経てば皆笑ってあんたの話をするようになるさ。俺の家内がそうだったからな」

 男はたまにこうして妻の話をする。その顔からは嬉しさが滲み出ており、老人の心も自然と明るくなるようなものだった。

 「アレは強い女でな。しばらくしたら、俺のことを笑いの種にしやがったんだ。俺の昔馴染みに会うたびに、事故の話になってな。それで、『あの人は馬鹿だから』って言って笑ってやがるんだ。ひでぇ話だろ?」

 くつくつと肩で笑う男。

 “俺を思い出して心を痛めるより、俺を想って笑ってほしい”。そう、男は老人に常々語った。いつかお前の家族もそうなる、という願いも込められているのだろうと、老人は思っている。

 男はこうも言った。「願えば、死者でもきっと届く」と。

 だから、老人は願う。双眼鏡越しに、家族の幸せを。そして、ここにこの男がいてくれることを、いつも感謝するのだ。

 夏の暑い太陽が沈み、時刻は夜を迎えた。時が経つのは早いもので、大会を明日に控え、敦史は早めに就寝するようだった。

 夕食を終えて、すぐに自室へとこもる敦史。

 プライベートを無断で覗いているようなものなので、自室に戻れば必ずやめるようにしていた。だが、この時ばかりは何を思ったのか、老人は敦史の様子を見続けた。

 「じいさん、覗きは犯罪だぜー。飯、先に食っちまうぞ」

 素麺の入った皿を、男と老人の間に置く。食事をするのも寝るのも、男は決してこのベンチからどかない。なにか思い入れがあるようだが、老人は聞く気はなかった。

 「人の事は言えんじゃろうが。む、今日は素麺か」

 「夏っぽいだろ? 流しそうめんでもよかったんだけどな。俺はやったことねぇから、出すのは無理だ」

 「出せる出せないと言っておると、まるで魔法のようじゃのう」

 「はは、そんな便利なもんだったら、退屈はしねぇな」

 ずず、と男は素麺を食べ始める。食べたいという欲求はないはずだが、うまそうな音は老人の食欲をそそった。男は素麺と一緒に、いつもの酒瓶を口にする。

 「……素麺にウイスキーは、合うのか?」

 「いや、この酒はあわねぇな」

 即答する男に、老人は呆れて溜息を吐く。

 「なら、そんなに飲むな。体に悪いぞ」

 「うっせーじいさんだな。いくら飲んでも酔わねぇし、不健康になるわけでもねぇよ。あんたももっと飲めよ」

 どうだ? と、ニヤリと笑い薦めてくる男に、老人は片手を振る。

 「いらん。ワシはそんなに飲まんからな。酒はほどほどにしとけよ」

 「はいはい」

 「――――ん? あれは……」

 もう止めてしまおうかと思った時、敦史が机から取り出したものに、老人は目を凝らした。

 敦史が勉強机から取り出したのは、手の平に十分収まる小さな鈴だった。

 赤い糸で縒り合わされたものの先に繋がれた、ちいさな銀色の鈴。所々錆びついており、鈍い光を放っていた。そのあまりにも懐かしいものに、老人は感嘆の声をもらした。

 「ほう、まさかまだ持っているとはのう」

 何が、と男が訊ねた。老人は双眼鏡をそのままに、説明をする。

 「あの鈴はな、敦史がまだ小学生だった時に、あげたお守りじゃ。アレはばあさんが作ったものでな、ワシの宝だったんじゃが、どうしても敦史が強請るもんで、仕方なくあげたんじゃ。ちなみに、ばあさんは敦史が生まれたすぐあとに他界しとる」

 「形見だったのか」

 「そんなもんじゃ。……しかし、今から十年ほど前だからのう。まさか、まだ持っていてくれるとは思っとらんかったわ」

 敦史は鈴を揺らし、その奇麗な音色に耳を傾けていた。

 「じゃあその鈴は、じいさんとばあさんの二人の形見になっちまったんだな。そういや、遺書は書いたのか?」

 「書いたさ。といっても、遺産など雀の涙ほどぐらいで、申し訳ないものだったがのう」

 苦笑を洩らした老人に、男はそういうもんだと笑って見せた。

 敦史は鈴を暫く見つめた後、一度強く握ってからスポーツバックにしまった。お守りとして、持っていてくれるのだろうか。

 その事に、僅かながら自然と緩む頬。「今日はもう終いだ」、そう呟き老人も少し遅い夕食を摂るのだった。




 「ちゃんと見とるか?」

 「あぁ、見てる見てる」

 「本当か? 本当に見てるか?」

 「だから見てるって。じいさん、少し落ち着け。血圧上がるぜ」

 「そんなもん、どうだっていいわい。まず、血なんて流れてるのか?」

 「あー……、わかんね」

 二人は双眼鏡を片手に、いつもより興奮気味に会話を進める。なにせ、今日は待ちに待った大会の日。天候は快晴で、文句の一つもない良き日だった。

 いつものベンチに腰掛け、男の隣には孫の出番を今か今かと、落ち着きのない様子で待つ老人がいる。

 男もまた、この日を楽しみに待っていた。だが、大会が終わると同時に起こるであろう出来事を想定し、沈む心を男は感じていた。

 老人に悟られないよう、男は明るい調子で言う。

 「さて、お待ちかねの敦史の出番だな。目ぇ凝らして、よーく見とけよじいさん」

 「もちろん、そのつもりじゃ」

 狭いレンズ越しに見る敦史の種目は短距離走。男の言うとおり、よく目を凝らして見なければ、あっという間に終わってしまうだろう。

 「さぁ、走るぞ。敦史、勝て! 勝つんだ!」

 「そんな、勝利を強制すんなよ。ああいう大会は、楽しむのが一番だぜ」

 そっと諭すと、老人はそうか、と納得したようだ。勝て、と連呼していたため掛け声を探す老人が微笑ましく、男は笑みを漏らす。

 「普通に、頑張れでいいんじゃねぇか? てか、その言葉をすぐに見つけることができないなんて、そうとうテンパってるな」

 「うるさいわい! さっさと敦史を応援しないか!」

 「はいはい」

 憤慨する老人は、もしかしたら敦史本人よりも緊張してるかもしれないな。そう思い、また笑いが込み上げてきた。

 「お、いよいよだな」

 そうこうしている間に、敦史が走者として位置についていた。老人の双眼鏡を持つ手に、力がこもる。うるさいぐらいに心臓も鳴っていた。

 「走るぞ」

 男の声と共に、発砲音が響き、走者全員が走り出した。

 「行けぇ、敦史! 頑張れぇ!」

 「一位になんなきゃ、じいさんが祟りに来るぞっ! 死ぬ気で走れ!」

 「どさくさにまぎれて、何を言うんじゃあ! 敦史ぃ、そんなことないから、思う存分走れぇ!」

 届くかもわからない声を、喉が潰れるほど叫ぶ。その間にも、敦史は風のように、コースを駆ける。次々とライバルたちを追い抜かし、そしてトップに躍り出た。

 「そのまま突っ走れぇ!」

 「あともう少し、頑張るんじゃあ!」

 パン、発砲音が響く。ゴールテープを胸で受けたのは――――まぎれもなく敦史だ。

 瞬間、老人は歓喜に立ち上がり、拳を掲げた。

 「よし! 敦史、よくやったっ! 見たか? 敦史は一位じゃ!」

 「見たぜ、じいさん! あんたの孫は勝ったんだぜ!」

 男もまた、老人と同じように勢いよく立ち上がり、二人で喜びを分かち合う。

 「はは、どうじゃ! ワシの孫は早いんじゃ! この町で一番早いんじゃ!」

 口を大きく開けて、声高らかに老人と男は笑う。嬉しさで、身を震わせて全身で喜んだ。

 もう一度、友の孫を見ようと、男は双眼鏡をのぞく。そこにいたのは、銀の鈴を空に掲げ、満面の笑みで喜ぶ少年の姿が。

 「おい、見ろよじいさん! あんたのお守りだぜ!」

 無理矢理手に持った双眼鏡を、老人の眼に当てて、男は叫ぶ。

 汗で貼りついた髪もそのままに、敦史は空に向かって笑みを見せる。その姿を見て、老人は目を大きく見開き、次いで顔をくしゃくしゃにして今にも泣きそうな顔で笑った。

 「見たか!? 敦史が勝ったのは、あんたの想いが届いたからだぜ! あの鈴を通して、あんたが敦史の勝利を願ったから、敦史は勝ったんだっ!」

 男は熱の入った声で、老人に訴えた。老人の瞳から、涙が一滴、皺だらけの頬を伝う。

 「それに、敦史はあんたのために走ったんだ! 空できっと見てるじいちゃんのために、敦史は全力で走ったんだ! あんたたちの心は、ちゃんと繋がってるんだよっ!」

 男の声も、歓喜に震える。それ以上に、心が震えた。この最高の瞬間に立ち会えたことを、老人に出会えたことを、男は胸中で誰にあてるわけでもなく感謝した。

 「……、そうか。敦史、そうか……っ!」

 何度も頷き、片手で目を覆い涙する。後から後から零れ落ちる滴は、まるで尽きることが無いように溢れ出た。

 以前男が言った言葉が、老人の脳を駆け抜ける。

 ――――俺を思い出して心を痛めるより、俺を想って笑ってほしい。

 今まさに、敦史は祖父を想い、笑っている。その事実だけで、老人の胸は暖かくなる。

 「敦史、よかった。本当に、よかった……」

 少年は、空を見上げて喜びに笑みを漏らす。今にも、銀の鈴の音と、少年の心の声が聞こえてきそうな感覚だった。

 男は、涙に震える老人の肩を優しく叩くと、現世にいる少年に向かって祝福の言葉を口にした。

 「一位おめでとう、敦史」

 「おめでとう、敦史」

 老人は精一杯の泣き笑いを顔に浮かべて、最愛の孫に言葉を贈った。老人の心は、今日の空のように澄み渡った。



 ここへ初めて来たときのように、夕日を浴びて老人と男はベンチに腰掛けている。

 男の右手には、いつもの酒瓶が。老人の左手には杖が握られていた。

 男は酒瓶を目の高さに持ち上げて、残り少ない中身をゆらゆらと揺らし、夕日に透かし見ている。

 長い沈黙の中、口火を切るのは男の方だ。

 「……このまままっすぐに行け。いいな、まっすぐだ」

 念を押して、酒瓶を持ったまま指を差した。その先にあるのは、夕日と屋上の柵。ただそれだけ。

 「あぁ、わかった」

 老人は静かに答えるが、まだ動く気配はない。

 また、二人の間に沈黙が流れる。風も吹かず、夏なのに蝉の鳴き声さえ聞こえない。完全なる静寂だ。

 暫く黙っていたが、今度は老人の方が口を開いた。

 「世話になった」

 ピクリと、僅かに男の肩が揺れたのを視界の端に捉えた。その一言を言うだけで、寂しさが一気に押し寄せてくる。

 「奥さんと、早く会えるといいな」

 今度は、短く笑う気配が隣からする。

 「アホか。縁起でもねぇこと言うんじゃねぇよ」

 「そうじゃったな。――――さて、そろそろ逝こうかのう」

 膝に手を当てて、ゆっくりと老人が立ち上がった。

 「じいさん」

 一歩、進んだところで呼びとめられる。老人は振り返らない。振り返ったら、迷いが生じると考えたからだ。

 「短い時間だったが、楽しかったぜ。あんたとの酒は、いつも上手かった」

 変わらないその声音。老人もまた、変わらぬ声で言う。

 「ワシも、最高に楽しかったぞ。だが、酒はほどほどにしとけと、前にも言ったぞ」

 「は、この酒が無くなるまで俺は飲み続けるぜ。まぁ、無くなるなんてありえねぇだろうけどな」

 「そうか。残念じゃな。――――それじゃあ、さらばじゃ」

 名残惜しいが、別れを告げる言葉を老人は言った。そして、男もまた口を開く。

 「またな、じいさん」

 「――――っ」

 またな、その言葉に、老人の肩が揺れる。

 きっと、男は笑っているだろう。男の顔を想像できて、そして男の言葉が嬉しくて、老人は夕日を見つめて微笑む。

 「あぁ。また一緒に、酒を飲もう」

 それを最後に、老人は歩を進めた。

 夕日が眩しくて、帽子を眼深に被りなおす。背をしゃんと伸ばし、屋上の端まで止まらずに歩いた。

 そして、柵を越え、夕日に輝く街を見渡す。

 恐怖はない。あるのは、満たされたこの心ひとつだけ。

 老人は穏やかな微笑を浮かべ、その足を一歩――――前に出した。


 飛び降りた老人を見届け、男は酒を煽る。

 「あ?」

 口に流れ込む、いつもとは違う量に疑問符を飛ばす。次いで、中身を見て舌打ちをした。

 「なんだよ、無くなってるじゃねぇか……。くそ」

 悪態を吐きながらも、男の表情は嬉しさに笑んでいた。だが、同時にその瞳からは、寂しさの色も混ざっている。

 「あのじいさんに毒されたか……」

 空になった瓶を暫し見つめ、男の笑みが深くなったところで、立ち上がり思いっきり左腕を振りかぶる。

 「おらっ!」

 投げられた瓶は太陽とは逆の方向へ飛び、紫がかった夜の帳へ消えてなくなった。

 隣に誰が座るわけでもないのに、男はベンチの端に座った。

 そして、男は双眼鏡を覗く。その先にいるのは、食卓で祝宴を上げる、夫婦と主役である子供。その部屋の奥には、料理を供えられ、にぎやかになった仏壇がある。そこに置かれた写真の中で微笑む友の姿。

 男は笑い、双眼鏡を首から垂らして、沈みゆく太陽を見た。ベンチに座る男以外、無人の屋上で、呟く。

 「また逢おうぜ、じいさん」

 独りは長く、友といる時間は短い。だがしかし、その濃い時は永遠の宝となる。

 そして、今日もまた男は現世を覗く。                               



                  

 

                                                END

このお話は、私が文芸部に所属したときに書いた初めての作品です。


もともとは原稿用紙15ページほどあったのですが、部活の都合で10ページにしたので、所々省きました。

省いたことにより設定などに不備があるかもしれませんが、それでも楽しんでもらえたら嬉しいです。

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