8−2 勉強会
ノワールが指を空中に滑らすと、黒の墨が指先から流れるように、空中に文字が描かれた。それに驚いていると、見覚えのある式が描かれた。
どう見ても、化学式である。装飾のような花の模様を描いてはいるが、その中にはエタノールの燃焼式が記された。
ついで塩化ナトリウムの元素記号。その二つで化学反応式はないのでは? と突っ込みたくなったとき、ノワールがパチリと指を鳴らして炎を出した。その炎には魔法陣は必要ないのか? その疑問を口に出す前に、炎色反応により炎の色が黄色になる。
それ、受験で勉強したやつ。
グルナディーヌは「美しい図ですわね」とか言っているため、同じ感覚で話せそうにない。
どこから突っ込めば良いのだろう。化学式か? 指パッチンで炎が出たとこか?
実験はともかく、指先から黒の墨が出て魔法陣が描かれたり、指を鳴らしたりしただけで炎が出ることに驚きだ。
青藍もできるのだろうか。狐の守護神ならば、狐火だろう。
想像するだけで絵になる。かなり見たい。妄想して、現実に戻る。
あとで青藍のところに行かなければ。今日の頑張りを報告するためにも、真面目に勉強するのだ。
しかし、現状、できるか不安になる。
「指から黒い液体出すのって、どうやるんでしょう?」
「魔力を指から出すだけだよ」
出るのか? そんなものが指先から。
ランプに魔力を流すのも、どうやったのかわかっていないのに。石から弓矢を作ったように、想像すればいいのだろうか。
教科書に何かヒントはないか、じっくり読もうとして、花奏は目を眇めた。
載っているのは、やはり化学式である。エタノールと塩化ナトリウム。塩化カリウム、塩化銅。高校受験で勉強した、炎色反応の実験。
途中からは、化学式っぽく見せた意味不明な記号が描かれていた。その結合式などもあり、懐かしさを覚えつつ、けれど適当な内容に苦笑いしか出ない。
花奏は諦めて、ノワールが空中に絵を描いているのを眺めた。その絵は魔法陣なのかもしれないが、まるでレースを細かく編んだショールのように均等な模様が描かれて、魔法陣云々関係なく芸術作品のようだった。
「絵、うまーい。きれーい。細かーい。素敵ですねー」
「魔法陣ですわ!」
すかさずグルナディーヌに怒られて、すぐに口を閉じる。ノワールはフッとブランドロワのような笑みを浮かべ、音楽を奏でるように描き続けた。魔法陣を描くのが好きみたいだ。ノワールのチャームは絵の具とパレットである。絵が得意なのだろう。
二人が魔法陣を描く練習を横目に、花奏は教科書を最初からパラパラめくった。
何度見ても、魔法の教科書ではなく、中学生向けの化学の教科書だ。
例えば今の状況がスチル、もしくはイベントの風景だとして、イラストレーターが適当に中学の教科書の内容を描いたように思える。
そしてページをめくっていて、気付いた。最初のページは化学式などが載っていたが、その後はすべて真っ白だ。
乙女ゲー。適当すぎないか? ベータ版レベルで、手を抜きすぎではないか?
これでは勉強などできない。これだけを覚えれば良いというならば問題ないが、これで魔法を出せと言われたら詰む。
しかも気になるのが、グルナディーヌとノワールは、教科書を見ながら魔法陣を描いているということだ。
「グルナちゃん、今、何ページ開いてるの?」
「二十八ページですわね」
花奏の教科書に、二十八ページはない。白紙だからだ。ノワールも白紙のページを開いている。それでも、何かを読んで指で追ったり、なぞったりしている。
花奏には見えない、彼らには見えるものがあるのだ。彼らには一体何が見えているのだろう。
「何を描かれているんですか?」
途中から、ノワールがノートを立ててこちらを向いて、何かを書き始めた。ローザが問うが、答えずに、時折花奏と目を合わせて、ニヤリと笑う。
「ほら、見ていいよ」
そう言って見せてくれたのは、人物画だ。眉を寄せてぶすくれた顔をしている、花奏である。けれど二割増しくらい、かわいく描かれていた。
「すごーい。短時間でこんなに上手く描けるもの?」
すると、ノワールはさらに何かを描いた。ほら、と差し出されたノートには、花奏が大きく口を開けて笑っている姿がある。
「とっても美人さんに見えますね!」
「はは、自分で言うんだ?」
「だって、美人割り増しで描いてるじゃないですか」
花奏の顔はこんなに美しくない。キラキラ輝くような笑顔をしている絵は、街中の看板から愛嬌を振り撒く女優のようだった。
「いつもこんなふうに笑ってるじゃん。楽しそうに、顔全体で驚いたり、笑ったりしてる」
そんなふうに笑っているだろうか。改めて言われると、不思議な気分だった。
だが、普段から笑うようにしているところはある。誰かの会話に、大きく反応すること。ぼうっとしないで、しっかりと聞くこと。それを心がけていれば、笑うこともできる。
「笑ってないと、暗くなっちゃうじゃないですか? いつも、笑っていないと」
「無理して笑う必要もないんじゃないの?」
「そうですわよ。もちろん、笑うことはとても大切だと思いますけれど、無理に明るくする必要などありませんわ」
「そうかな?」
「そうじゃないの?」
「そう思いますわ」
ノワールとグルナディーヌに言われて、花奏は口を尖らせながら、何度か頷く。
気を緩めろと言われるならば、青藍の前では緩んでいるか。集中して話を聞いて、大きく反応して頷いているわけではない。青藍の前では、笑おうとしなくても笑えているだろうか。
短い時間しか一緒にいないのに、気を抜いているな。と内心笑ってしまう。青藍は昔から知っている人みたいだ。
そんな人は、花奏にはいないけれど。
「子供の頃からそうなわけ?」
「子供の頃……?」
「わざと明るくするってこと。いつも笑ってなさいとか、親に言われたとか」
「そういうわけじゃないんですけど」
「わたくしは子供の頃叱られましたわ。大きな声をあげて笑うなと」
グルナディーヌは貴族のお嬢様だ。だからなのか、大声で笑ったりすると、下品だと叱られたそうだ。
それはそれで嫌だなあ。と花奏が言えば、叱るだけいいんじゃない? とノワール。
しかしその返しに、グルナディーヌは口を閉じた。怒っているのではない。何かに気付いたように、申し訳なさそうに俯きがち視線を落とした。
なんだろう。二人にはわかる話なのか、ノワールもそれ以上の話はしなかった。
「それより、お勉強は進みまして?」
「あ、本でも借りてこよっかな!」
「まあ、集中なさったらいかが!」
グルナディーヌの呼び声をよそに、花奏は席を立つ。教科書は高校受験で何度も勉強した化学だ。試験を終えて一年も経っていないので、まだ覚えている。
他に役に立つ本はないか、花奏は魔法の本が置いてあるコーナーへ移動した。せっかくグルナディーヌにお願いして勉強会を開いてもらっているのに、教科書が白紙ではどうにもならない。
本の背表紙を見て歩いていると、その文字がまったく読めなかった。日本語では記されていない。教科書の中は日本語だったのに。
一冊手に取ってみると、中は真っ白だ。もしかして、この図書館にある本、すべて真っ白なのだろうか。
「困るなあ」
良い成績を収めて卒業しなければならないわけではないので、大丈夫だろうか。だがほとんどの科目で成績が悪ければ、留年してしまうかもしれない。
まともな授業は一回だけ。王立学園の歴史についてで、青藍から聞いた話と同じ、女神の知識を学ぶために王立学園を作ったというものだった。だがその歴史の話も深いものではなく、軽く説明されたことについて、板書されたものをノートに写しただけ。それで終わりである。
乙女ゲーで出てくる一つのシーンが、授業そのもののようだった。
「でも、二人とも白紙が読めるんだから、私だけ授業遅れちゃうよ」
花奏には見えないが、彼らには見えるものがテストにでも出てこられたら、花奏は勉強すらできない。それでは困るのだ。
「私でも見れる本、ないかなあ」




