第4話 選択
第4話前書き
選ぶということは、
失う可能性を引き受けることでもある。
残る道。
進む道。
どちらも正解で、どちらも不完全。
それでも。
自分で決めた一歩は、
誰にも奪われない。
海は変わらない。
だが、立つ場所は変えられる。
その事実を知った朝、
物語は静かに動き出す。
午前五時。
目覚ましは鳴らない。
それでも澪は目を開ける。
薄いカーテン越しに、灰色の光が差し込んでいる。
天井を見つめたまま、数秒。
身体が完全に覚醒するのを待つ。
——ここは太陽園じゃない。
静かだ。
子どもたちの寝息も、廊下を歩く職員の足音もない。
澪は起き上がり、窓に歩み寄る。
カーテンを引いた。
視界が一気に開ける。
広がる水面。
遠くに並ぶ倉庫とクレーン。
微動だにしない灰色の海。
高層階から見下ろすその海は、平坦だった。
波が立たない。
音も届かない。
ただ、広い。
澪はしばらく黙って見つめる。
「……これ、海か?」
潮の匂いはない。
「島」で見た荒い波も、
太陽園の丘から見たきらめく水面も、ここにはない。
だが。
海は、見える。
三浦は嘘を言っていない。
澪は窓から目を離す。
それでいい、と自分に言い聞かせるように。
⸻
リビングに出ると、コーヒーの匂いがした。
小田切梨花がキッチンに立っている。
「早いのね」
「習慣」
澪は短く答える。
梨花はそれ以上聞かない。
「海、見えた?」
問いかけは穏やかだ。
澪は一瞬だけ視線を窓の方へ向ける。
「見えた」
それだけ言う。
良いとも悪いとも言わない。
梨花は小さく頷いた。
澪はキッチンに立つ。
「何かすることは」
梨花は首を振る。
「今日はいい。何もしなくていい」
間。
「今日くらい、何も考えなくていいのよ」
澪は黙る。
何もしない時間は、落ち着かない。
けれど、その声は不思議と窮屈ではなかった。
昼前、インターホンが鳴る。
三浦だった。
スーツ姿のまま、昨日と同じ表情。
「行くぞ」
澪は靴を履く。
「どこに」
「太陽園だ。手続きがある」
澪の動きが、わずかに止まる。
「戻るのか」
「一度な」
エレベーターの中、沈黙が落ちる。
三浦が言う。
「どのみち、君はあそこ(太陽園)を出る」
澪は横目で見る。
「18歳までしか居られない規則だ」
短い言葉。
それで十分だった。
太陽園にいられるのは、高校卒業まで。
その先はない。
「……その先は?」
三浦は答えない。
エレベーターが一階に着く。
⸻
太陽園の門をくぐると、懐かしい匂いがする。
洗濯物の柔軟剤と、土の匂い。
子どもたちの声。
「あ、澪!」
駆け寄ってくる小さな背中。
澪は受け止めない。
ただ、立っている。
「すぐ戻るんだよな?」
問いかけに、澪は即答できない。
突然いなくなる側になるのは、御免だ。
母親も。
「島」の子どもたちも。
理由もなく、消えた。
澪は視線を逸らす。
「まだ決めてない」
嘘ではない。
職員室で書類にサインが並ぶ。
紙の擦れる音。
三浦が言う。
「東京には居場所がある」
澪は顔を上げる。
「必要としている人間がいる」
その言葉に、澪の眉がわずかに動く。
「必要とされるのは、嫌いじゃない」
静かな声。
「でも、それは理由じゃない」
三浦は何も言わない。
澪は窓の外を見る。
太陽園の向こうに、遠く海が光っている。
波が立っている。
音も、匂いもある海。
東京の海とは違う。
十八まで、あと一年。
一年後、また居場所を探すのか。
ここに残る。
出て行く。
澪は考える。
感情ではない。
合理。
「……一年でまた探すのは、面倒だな」
三浦がわずかに息を吐く。
澪は窓の外を見る。
太陽園から見る海は、今日も波立っている。
東京の海は、動かない。
動くのは、自分だ。
澪は視線を戻す。
「東京、行く」
静かに言う。
叫ばない。
揺れない。
ただ、決めた。
それは初めて、自分で選んだ道。
澪は立ち上がる。
門の向こうへ歩き出す。
振り返らない。
選んだのは、自分だ。
海は、見える。
それでいい。
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第4話後書き
波は揺れる。
揺れない水面もある。
だが、動くかどうかを決めるのは
海ではない。
初めて、自分の足で方向を定めた者は、
もう“運ばれる側”ではいられない。
それは小さな選択。
だが、物語にとっては決定的な分岐。




