第2話 三浦啓介
第2話 前書き
選ぶと言ったのは、少女だった。
だが、迎えに来た男にもまた、
選び直すべき過去がある。
物語は、ときに視点を変える。
強く牙を剥く者の背後に、
言葉を飲み込んできた者の時間があるからだ。
正しかったのか。
止められたのか。
気づいていながら、進めたのではないか。
問いは、少女だけのものではない。
車は海沿いの道を走る。
揺れる光の中で、
ある記憶が浮かび上がる。
それは“事件”ではない。
ただの報告書の一行。
ただの承認印。
ただの、業務。
だが、その積み重ねの先に
一人の少女がいる。
これは贖罪の物語ではない。
まして、英雄譚でもない。
立ち位置を変えようとする男の、
遅すぎた思考の始まりである。
海ヶ丘太陽園の門の前。
エンジン音が小さく震える。
見送りに出てきた子どもたちは、誰も大声を出さなかった。
ただ、不安そうに澪を見ている。
「ミオねえちゃん……帰ってくるよね……?」
最年少らしい女の子が、袖をぎゅっと握る。
澪は一瞬だけ目を向けた。
ほんのわずかに、口角が上がったようにも見えたが、すぐにいつものぶっきらぼうな顔に戻る。
「あったり前だろ」
吐き捨てるように言う。
だがその言葉には、別の意味が滲んでいた。
どうせすぐ追い返される。
会わせたい人? 必要としてる?
そんなの、信じるほど馬鹿じゃない。
私は必要とされない。
だから、帰ってくる。
三浦はその横顔を見て、何も言わなかった。
車はゆっくりと太陽園を離れ、海岸線へ出る。
午後の光が波間に反射し、車内の天井に揺れる影を落とす。
後部座席の澪は、窓の外をじっと見つめている。
数を数えるように、ただ、光を追っている。
三浦はハンドルを握ったまま、言葉を探した。
太陽園での暮らしはどうだったか。
学校では。
友達はいるのか。
聞きたいことは山ほどある。
だがそれは、東京までの時間を埋めるための質問に過ぎない。
澪も、聞きたいことがあるはずだ。
それでも何も聞いてこない。
ルームミラー越しに視線を向ける。
澪は目を閉じていた。
いつの間にか、寝息が小さく聞こえる。
三浦はわずかに目を細める。
会ったときは、野良犬のようだった。
人間を信用せず、先に牙を見せる。
だが今は、無防備に眠っている。
緊張が切れたのか。
それとも、ただ体力が尽きただけか。
――あの島でも、夜は静かだった。
不意に、記憶が重なる。
ルームミラーに映る澪の寝顔と、
かつて見た、同じ年頃の子どもたちの横顔。
十三年前。
三浦啓介は厚労省の若手エリートだった。
順調に昇進し、将来を嘱望されていた。
政治に出る気はなかった。
責任を背負う立場になるのは、性に合わないと思っていた。
決められた枠の中で、最善を尽くす。
それで十分だと。
そんな折、ある案件を任される。
政府管轄の養護施設。
正式名称、国立幼児育成センター。
だが内部コードは別にあった。
MiON-β育成群。
現場では、誰もその名を口にしなかった。
ただ、「島」と呼んでいた。
長崎県の、地図にも載らない小さな島。
そこには最新の設備と、潤沢な予算が投入されていた。
表向きは、身寄りのない幼児の保護と心のケア。
だが、三浦が初めて島を訪れたとき、胸に走った違和感は消えなかった。
子どもたちは整然としていた。
泣かない。
騒がない。
同じ時間に起き、同じ言葉を繰り返す。
感情が、どこか均されていた。
それを「安定」と報告することもできた。
実際、書類にはそう記された。
私は止めなかった。
疑問はあった。
だが異論は出さなかった。
予算に判を押し、計画を前に進めた。
あれが正しいと、信じようとした。
車が海岸線を離れ、内陸へ入る。
夕暮れが迫り、対向車のヘッドライトがフロントガラスに反射する。
ハンドルを握る手に、無意識に力が入る。
ルームミラーの中の澪は、まだ眠っている。
彼女は、あの島にいた子どもの一人だ。
実験体、という言葉を使うこともできる。
だが今、後部座席で小さく丸まっているのは、ただの少女だ。
私は父ではない。
特別な感情もない。
だが、関係がないとも言えない。
あの構造の延長線上に、彼女は立っている。
だから私は、立ち位置を変える。
赦されたいわけではない。
謝罪で済む話でもない。
もう、曖昧なまま進まない。
それだけだ。
対向車のヘッドライトが、
三浦の眼鏡に一瞬だけ白く走る。
車は、街の光を抜けながら東京へと向かっていく
第2話 後書き
東京へ向かう車は、止まらない。
眠る少女と、目を閉じない男。
同じ時間を共有しながら、
見ている景色は違う。
過去は消えない。
記録も、判断も、沈黙も。
だが、
立ち位置は変えられるのか。
止めなかった者が、
これから何を選ぶのか。
そして、
「必要だ」と告げた言葉の重さは、
どこまで届くのか。
次話――
物語は、少女の“選択”へと近づいていく。
海の見える場所で、
本当に決めるのは誰なのか。




