恋は盲目
人気のない通りに佇む『喫茶ブラインド』は、今年で二十八年目になる。山本匡がこの店を継いでから約一年が経った。
匡は高校を卒業後、上京して六年間フリーターとして友達や恋人もいない鈍色な毎日を過ごしていたが、片田舎で叔父が営んでいた喫茶店を任されることになった。初めは気乗りしなかったが、行くあても無かったし、費用は叔父が持ってくれるらしいので、渋々受け入れたのだった。
「どうせ売れもしないのに。もったいないよな」
コーヒーオタクの叔父自慢のコーヒ豆は三十種を優に超える品揃えで、フードメニューもかなりのこだわりようだ。しかし、たまにご近所さんが来る以外はほとんど客は来ない。選りすぐりの食材のほとんどが使われずに捨てられていた。金持ちの叔父の道楽とはいえ、匡も流石に危機感を持っていた。
とある日曜日、店内を伺うような人影が見えた。匡は急いで扉を開けた。
「いらっしゃいませ!是非、一服していってください!」
しかし、そこに人はおらず、一羽の鶏が通りを歩いていた。
「お客さんですか?」
と声をかけてみると、鶏はじっと匡見つめている。匡は鶏に近づき、大きな溜息をつきながら抱えあげた。
「なわけないな。野崎のじいさんのところのやつか」
近所に住む野崎の家では庭で鶏を飼っている。匡は店を閉め、鶏を返しに向かった。
「すまんの匡。小屋の戸を閉めとらんかったわ。最近物忘れが酷いんじゃ」
「気をつけて下さいよ。鶏小屋だから良かったけども」
九十歳近いと聞くし、仕方がないと思いながら、匡は鶏を手渡した。
匡が店に戻ってからも、その日は相変わらず閑古鳥が鳴いていた。
次の日の昼前、カランコロンと久しぶりに喫茶店の扉の開く音がなる。赤い帽子と白いワンピースに身を包んだ色白で美しい女性がやってきた。匡はその容姿にみとれ、少し送れて声をあげる。
「い、いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
その女性は、店内を見渡すとわざわざ匡の目の前の席に腰掛け、メニューを広げる。匡はカウンター越しに水を出すと、作業するフリをして様子を伺う。
「あの……」
女性がビー玉のように透き通って角の取れた声で匡を呼ぶ。
「あ、はい!ご注文お伺いしますね」
「えっと、ホットコーヒーと厚切りトースト、それとコーンサラダもお願いします」
「かしこまりました。すぐご用意します」
匡は久しぶりの調理に手間取りながらも、十分程で仕上げた。淹れたてのフルーティーなコーヒーの香りが、狭い店内に充満する。流石はこだわりの豆なだけある。匡は、コーヒーを差し出しながら、メモ書きをみて声をかける。
「本日は、エチオピア産の豆を使ってます。果物のような香りが特徴です。挽きたてなので香りも楽しんでみて下さい」
「はい、ありがとうございます」
女性は香りを嗅ぐと、目をぱちぱちとさせている。静かな店内にはシャクシャクと不思議な咀嚼音が響く。暫くして、食事を終えた女性が席を立った。
「えー。八五十円です」
「ご馳走様でした。また来ます」
女性は会計を済ますと、帰っていった。
しばらくぼーっとしていた匡はあることに気がついた。
「あ、モーニングならゆで卵ついたのに」
喫茶ブラインドでは、八五十円でコーヒーとトースト、コーンサラダ、ゆで卵がついたモーニングセットを提供していた。匡は、女性の容姿にうっとりしていて頭から抜け落ちていた。
二日後の同じ頃、カランコロンとなる。またあの白いワンピースの女性がやってきた。匡の胸が踊る。
「いらっしゃいませ!お好きな席にどうぞ!」
女性は前回と同じ席に座り、メニューを広げると直ぐに顔を上げる。
「すみません。ホットコーヒーと厚切りトーストとコーンサラダをお願いします」
「かしこまりました!あ、同じ金額でゆで卵がついたモーニングセットがあるんです。前回はお伝えし忘れてしまってすみません。そちらでご用意しましょうか」
「結構です」
女性は少し顔を赤らめながら、間髪なく答えた。匡は少し戸惑いながらも、豆を挽きはじめる。
(少食なのかな。お得なのに……)
女性は、匡がコーヒーを淹れる様子を、息をこらすように見つめる。匡はメモを確認してから話しかける。
「今日はグアテマラ産です。酸味抑えめで甘みがつよく、ナッツのような香ばしさが特徴です」
差し出されたコーヒーを少しすすると、女性はまた目をぱちぱちとさせた。この仕草がとても愛らしい。その後は、またあのシャクシャクという咀嚼音だけが聞こえる。
暫くして、女性は食事を終え、代金を置いて立ち上がった。
匡は思い切って声をかける。
「あ、あの。この辺りにお住まいなんですか」
「ええ、まあ」
「そうなんですね」
「また来ますね」
「はい、またお願いします」
最低限の会話だが、匡には十分だった。その日から、喫茶ブラインドは閉店後も明かりが灯るようになった。
二、三日して、カランコロンと共に、またあの女性がやってきた。
「あ、いらっしゃいませ!どうぞ!」
匡は目の前のカウンターを勧める。
女性は席に座ると、すぐに声をかける。
「すみません」
「ホットコーヒーと厚切りトースト、コーンサラダですね」
「はい、お願いします……!」
女性は少し驚きながら微笑む。匡は手馴れた手つきでコーヒーを淹れると、すぐに差し出す。
「今日はケニアの豆です。力強い酸味と重厚さが特徴なんです」
女性はコーヒーをすすり、いつものように目をぱちぱちさせた。見つめる匡に女性が話しかける。
「同じコーヒーなのに、産地で全く違うのですね。面白いです」
「そうなんですよ。まだまだ他にもありますから、来る度に違う味が楽しめますよ」
「素敵ですね」
和やかな雰囲気で、いつもより会話が弾む。
「お名前、伺ってもよろしいですか。」
「あ、はい。松井美酉と申します。美しいに干支のとりで、みどりです」
「ぴったりなお名前ですね。酉年生まれなんですか?」
「はい!」
「それで酉なんですね。全然関係ないですけど、僕、緑色が好きなんですよ」
「そうなんですか。穏やかでいいですね」
そう言って曇りなく笑う美酉は幼気で可愛らしかった。
軽く会話を交わしながら食事を済ませ、美酉は帰っていった。
次の日、またカランコロンと鳴った。美酉がやってきたのだった。緑のエプロンをまとった匡が声を上げる。
「あ、松井さん!いらっしゃい!いつもので?」
「お願いします」
美酉はいつもの席に座り、匡はコーヒーを淹れながら何気ない会話を楽しむ。
「今日はタンザニアの豆を深煎りにしました。深く煎ると、まろやかな苦味でコク深くなるんですよ」
「煎り方でも変わるんですね。コーヒーって奥深いですね」
「はい。まだまだ勉強中です!」
二人の仲は日に日に深まっていった。
時が流れたある日、またカランコロンと鳴った。匡はすぐに扉を見たが、少し残念そうにいった。
「ああ、野崎さん。いらっしゃい。最近は大丈夫ですか?」
「お、おう。ホットコーヒー貰えるかの」
そう言うと、野崎は一番奥のテーブルに腰掛けた。匡はホットコーヒー淹れ、テーブルに運んだ。
すると再びカランコロンとなった。
「美酉さん!いらっしゃい!」
匡はすぐにカウンターに戻った。
二人はいつものように、美酉とカウンター越しに話に花を咲かせる。
「今日はどこ産なのか当ててみて下さい。ヒントは香りです」
「今日こそは当ててみせます」
「んー、どこだろう。ジャマイカですか」
「残念。正解はエチオピアです。美酉さんが初めていらした日にお出ししたものですよ」
「だからか!なんだか懐かしく感じたんですよ。よく覚えてますね」
「忘れませんよ」
その様子を見ていた野崎は、そそくさとホットコーヒーを飲み干し、代金を支払った。
「ありがとうございます。また、お願いします!」
「あ、ああ。ご馳走さん」
野崎のが店を出て呟く。
「わしももうダメかの。匡がウチの鶏と喋っとるように見えてしもうたわ」




