住むということ、生きるということ。~生きる場所はひとつじゃない。でも“帰る場所”は、たったひとつ~
人生の後半をどう生きるか——この問いは、誰しもがいつか向き合うことです。
便利な場所、家族との近さ、安全な環境。
どれも大切ですが、人は「心の安らぐ場所」でこそ本当の意味での“暮らし”を感じます。
この物語は、長年の生活が染み込んだ団地で生きてきた夫婦が、家族の思いや自分の老いと向き合いながら、
「どこで生き、どこで老いるか」を選ぶ物語です。
読んでくださる皆様の心にも、静かな灯りがともりますように。
〈主要登場人物〉
【浜中 雄一(72)】
大山のUR団地に三十年暮らす元・会社員。
優しく穏やかで、家族思いだが、不器用で口数が少ない面もある。
高齢になって階段の昇降が厳しくなる中でも、「住み慣れた場所で暮らしたい」という想いを強く抱く。
入間での“試し同居”で孫と過ごす幸福を味わう一方、突然の胸の痛みで救急搬送、命の危機を経験。
その瞬間に自分の本音——「最期は大山で迎えたい」——を深く自覚する。
誰に迷惑をかけたくないと頑なに強がるが、その裏にある家族への深い愛は誰よりも強い。
最終的に、静かな夜に眠るように息を引き取り、家族に大きな余韻を残す。
【浜中 るり子(74)】
雄一の妻。控えめで気丈、そして他人の痛みに敏い女性。
糖尿病と高血圧、膝の痛みを抱えつつも、長年住んだ団地とその人々への深い愛着がある。
入間への引っ越しを真剣に検討するが、夫の死と、団地での人間関係のあたたかさを再確認し、
「ここで生き、ここで老いる」と静かに決断する。
雄一の死後、一時は息子夫婦の家へ行こうとするが、タイミングよく団地の一階が空くことを知り、
“帰る場所”を守るため、再び大山で生きる道を選ぶ。
【浜中 あきら(40代)】
雄一とるり子の一人息子。浅草の玩具メーカー勤務。
責任感が強く、両親の老いを思って入間市に家を購入し、「一緒に住んでほしい」と繰り返し説得する。
自身も親となり、子どもたちと祖父母の絆を強く願う心優しい父親。
しかし両親の“生き方の選択”を尊重する柔軟さも持っている。
父の死後、母が団地で生きることを選んだ際には、大きな寂しさを抱えつつも理解を示す。
【浜中 理恵(40代)】
あきらの妻で、朗らかで気配り上手。
義父母に敬意と愛情をもって接する。
実家は狭山市の老舗そば屋「藪もと」。家族仲が良く、温かい雰囲気で雄一夫婦を受け入れる。
入間での同居体験でも自然に溶け込み、雄一に「ここも“家族”だ」と感じさせる存在となる。
【大地(小学2年生)】
あきら・理恵の長男。元気いっぱいで、感情表現もストレート。
運動会では転んで泣く姿もあり、その素直さが雄一とるり子にとって癒しとなる。
祖父母を慕い、同居を心から望んでいる。
「ハンバーグ半分こ」など、子どもらしい優しさが随所に光る。
【ゆめ(幼稚園年長)】
あきら家の長女。無邪気で祖父母を深く懐き、夜に雄一の布団へ行って「ぎゅーして」と甘えるほど。
入間での生活体験の中で、雄一に「家族と暮らす温もり」を思い起こさせる。
【明菜(60)】
団地三階の住人で、るり子の親友。
駅前のスナックでホステスとして働き、地元の常連客から絶大な人気を誇る。
人情に厚く、雄一・るり子夫妻にとっては“家族以上の関係”。
引っ越しを巡ってるり子の背中を押し、また引き留める存在でもある。
るり子が「ここで生きよう」と決断する最大の理由の一つ。
【健司・とみ子、秀作(そば屋「藪もと」一家)】
理恵の実家。
狭山市で長く愛されるそば屋を営んでおり、家族全体の温かみが雄一夫婦を歓迎する。
運動会などでも自然と集まる“もうひとつの家族”として、物語の背景に厚みを持たせている。
〈ものがたり〉
◆第1章 大山の空の下で
池袋から東武東上線で三駅。
午後の陽ざしがビルの合間を縫って差し込む大山駅は、昔ながらの商店街と人いきれが混じり合う下町のにぎやかさを今も残していた。
改札を抜けると、すぐに「ハッピーロード大山」が視界に飛び込んでくる。
全長五百メートルを超えるアーケードは、昼間でも人が途切れず、八百屋の威勢のいい声や、焼き鳥の煙、総菜屋の揚げ物の香りが入り混じって、まるで小さな町がそのまま一つの通りになったようだった。
その商店街を抜け、川越街道を渡った先の団地に、浜中雄一(72)と妻るり子(74)は三十年暮らしてきた。
五階建て、エレベーターなし。
外壁の塗装は何度か塗り替えられたが、ところどころ古びた雰囲気が残り、「団地」という言葉がぴったりな佇まいだった。
その四階の3DKこそ、ふたりにとっての“世界”だった。
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「ふう……やっぱり四階はつらいな」
買い物帰りの雄一は、階段をのぼり切ったところで息を整えた。
スーパーの袋の中では、夕飯用の鮭の切り身が少し揺れ、袋越しにも冷たさが伝わってくる。
「お父さん、最近息が上がるの早いわよ。気をつけなきゃ」
玄関で迎えたるり子は、買い物袋を受け取りながら眉をひそめた。
「まだまだ大丈夫だよ。ほら、昔に比べりゃ全然軽い」
口では強がるが、自分が老いてきたことは、誰よりも雄一自身が感じていた。
若いころは、四階の上り下りなんて何ともなかった。
息子のあきらがまだ小学生の頃、ランドセルを背負わせ、買い物袋を両手に下げ、笑いながら駆け上がった階段も、今はひと段ひと段がずっしりと重い。
「ほら、お茶淹れたから」
台所から湯気が上がる湯呑みが運ばれてくる。
湯呑みのふちには、使い込まれた細かな欠けがあり、三十年という年月を静かに語っていた。
「ありがと。やっぱり家が一番だなあ」
雄一は、飲んだ瞬間に目を細めた。
団地の小さなキッチンの空気、窓から入る川越街道の車の音、近所の子どもの笑い声——すべてが生活の一部だった。
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ある日の夕方、息子のあきらが電話をかけてきた。
「お父さん、お母さん、そろそろ本気で考えてよ。階段、きついでしょ?」
電話の向こうの声は、いつもの柔らかさの中に少し切実さが混ざっていた。
「そりゃまあ、楽ではないけどな。でも慣れたもんだよ」
「慣れが一番あぶないんだよ。体、大事にしなきゃ」
横で聞いていたるり子が小さくうなずく。
「ほら、お父さん。大地もゆめも“おじいちゃんたちと住みたい”って言ってるのよ」
「そうか……あいつらが、そんなことを……」
想像するだけで胸がじんわりとあたたかくなる。
孫の小さな手が自分の袖をつかむ姿が浮かび、自然と顔がゆるむ。
「でも、理恵さんのご両親に悪いわよね」
るり子が気にした声を出すと、電話の向こうのあきらがすぐに答えた。
「向こうは、弟夫婦が面倒見てくれてるから。気にしなくていいよ」
それでも、ふたりには迷いがあった。
息子を頼る後ろめたさもあるし、何より三十年の暮らしを手放す決断は簡単ではない。
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その夜。
夕食を終え、るり子が台所で洗い物をしているあいだ、雄一は窓際のソファに腰を下ろした。
窓の外では、夕暮れのオレンジが団地の壁を照らし、少し冷たい秋風が網戸を揺らしていた。
遠くからテレビの音が聞こえ、階下の住人が帰ってくる足音が階段に響く。
——この雑音も、全部ふたりの“生活の風景”。
「なあ、るり子」
「なあに?」
「……引っ越すのって、なんだか大げさだなあ」
「そうねえ。でも、これからのことを考えると……」
るり子は洗い物の手を止め、少し寂しそうに笑った。
「わたしの膝も、いつ階段が上れなくなるかわからないしね」
「おまえの膝が心配なんだよ。おれはどうなっても大丈夫だけど」
「なに言ってるの。あなたのほうが心配よ。健康診断もサボってて」
ぐうの音も出ない。
確かに雄一は、区の健康診断を二年も受けていなかった。
るり子は、ふっと真剣な目を向けた。
「お願い。引っ越す前でも後でもいいから、健康診断だけは受けて。ね?」
雄一は観念したようにため息をつき、小さくうなずいた。
「わかった、わかった。受ければいいんだろ。まったく……」
「ありがと」
その声は、ほっとしたような、優しい響きを帯びていた。
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夜、布団に入ると、団地特有の静けさが訪れた。
壁の向こうの微かな物音、外を走る車の低い唸り、そしてふたりの呼吸。
雄一は目を閉じ、天井を見上げた。
(あきらの家は、きっと暖かいんだろうな……
でも……この天井、もう何年見てきたんだろう)
眠りにつく前の静かな時間に、雄一の胸には複雑な想いが湧いていた。
変わることへの不安。
離れることへの寂しさ。
そして未来への期待。
そのすべてが、静かに混ざりあっていた。
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翌朝。
るり子が台所の窓を開けると、川越街道の朝の車列が今日も延びていた。
団地の前の公園では、ラジオ体操の音楽が流れ、老人たちがゆっくりと体を動かしている。
「今日もいつも通りね」
るり子のその声には、安堵と少しの不安が混ざっていた。
雄一はパンをかじりながら、ぽつりとつぶやいた。
「……いつも通りって、案外幸せなんだよな」
るり子はその言葉を聞いて、小さくほほえんだ。
ふたりにとっての“いつも通り”。
それは、確かにここにあった。
しかしこのとき、まだふたりは知らなかった。
──この平穏な日常が、大きく揺らぐ出来事が迫っていることを。
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◆ 第2章 入間の風の中で
十月の初め。
朝の空気がすっかり秋めいてきた頃、雄一とるり子は、ついに入間市のあきらの家を訪ねることになった。
「お父さん、忘れ物ない?」
「ハンカチと薬と……よし、あるある」
るり子が念入りに荷物を確認し、雄一は少し照れくさそうに頷いた。
遠足前の小学生みたいだ、と自分で思って笑ってしまう。
池袋駅から西武線に乗り換え、電車に揺られること約一時間。
車窓には都会の建物が少しずつ減り、やがて緑が増えていく。
「いい景色ねえ……」
るり子は窓に顔を寄せ、小さくつぶやく。
都会に染まった大山の景色とはまるで違うゆったりした風景が広がり、胸の中がすうっと深呼吸するように軽くなった。
雄一も腕を組んだまま頷く。
(あきらもこういうところで暮らしたかったのか……
なるほど、悪くない)
電車が入間市駅に近づくと、車内の空気はさらに静かになり、乗客の顔にも落ち着きが増えているように見えた。
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駅を出ると、秋の風がふわりと頬を撫でた。
「空気が違うねえ」
「澄んでるなあ……大山とはえらい違いだ」
駅前のロータリーも整っていて、歩くたびにどんぐりの落ちる音が足元から響く。
ふたりはスーツケースを引きながら、あきらの家までの道をゆっくり歩いていった。
途中で、近所の主婦らしき女性が犬の散歩をしていたので、るり子は反射的に挨拶をした。
「こんにちは。息子の家を探してまして……」
女性はにこやかに微笑んだ。
「こんにちは。いいお天気ですね。どちらの方面ですか?」
るり子は地図を広げ、あきらの住所を指さす。
「このへんなんですが……」
「ああ、そこなら坂を上がって右に行くとすぐですよ。
最近若い家族が増えてる地域ですね」
「そうなんですか。ありがとうございます」
女性は軽く頭を下げ、犬のリードを揺らしながら去っていった。
「なんだか……いい人ばかりだね」
「静かでいい所だな」
ふたりは顔を見合わせ、少しだけ胸の奥が温まった。
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坂を少し上った住宅街に、あきらの家はあった。
白い外壁にベージュの屋根、駐車場の横には小さな庭。
芝生が朝露に光っていて、踏めば柔らかい音がしそうだった。
「お父さん、お母さん!」
玄関から大地とゆめが走り出てきた。
「じいじー!」
「ばあばー!」
勢いよく抱きつかれ、雄一もるり子もバランスを崩しそうになった。
「まったく、元気がいいんだから……」
るり子は笑いながら抱きしめ、大地はそれを嬉しそうに受け止めた。
理恵も玄関から出てきた。
「お義父さん、お義母さん、ようこそ!遠いところありがとうございます」
「いやいや、招いてくれてありがとうな」
雄一は少し照れくさそうに頭をかく。
家の中は日ざしが差し込み、白を基調とした内装で明るい。
二階には子どもたちの机が並び、壁にはロボットアニメのポスター。
来年小学生になるゆめのピンクのランドセルがまだ新品の光を放っている。
「広いねえ……」
るり子は思わず感嘆した。
「子ども部屋って、こんなにきれいなのね……」
「そりゃあ、まだ使い始めたばっかりだからな」
あきらが笑った。
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夕飯は賑やかだった。
まぐろの刺身や、子ども向けのハンバーグがテーブルに並び、雄一は目を細める。
「ハンバーグ、うまそうだなあ……」
その言葉を聞いた大地が、フォークを持ったまま言った。
「じゃあ半分こしよ、おじいちゃん!」
「いいのか?」
「うん!」
雄一は笑いながら大地の皿に刺身を半分渡した。
視線の端で理恵とあきらが優しく笑っていた。
「お父さん、何本目ですか?」
るり子がビールの缶を見て、少し厳しい声。
「いいじゃないか、たまにはよ……きょうは特別だ」
雄一は顔を赤くしながら、照れ隠しのように笑った。
子どもたちとトランプをするときも、雄一は完敗だった。
「じいじ、弱い〜」
「じゃあ、次は“ジジ抜き”にしよ!」
言われるがままにカードを引き、負け続ける。
そのたびにるり子が横から「弱いのよ、昔からね」と笑い、雄一も「うるさいなあ」と言いながら楽しんでいた。
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夜。
一階の和室に布団が敷かれ、雄一は天井を見上げた。
網戸越しに秋の冷たい風がさっと流れ込み、畳の香りが懐かしさと静けさを運ぶ。
遠くの方から犬の鳴き声や車の音が微かに届くが、団地のように壁を通して人の生活音が響くことはなかった。
(静かだな……
これなら、朝もゆっくり眠れそうだ)
そう思う一方で、ふと胸が痛くなる。
団地で聞き慣れた足音や隣室の生活音——
それらがここにはないことが、少しだけ心に穴を開けていた。
(住む場所が変わるって、こういうことなのか……)
目を閉じると、るり子の膝を心配し、あきらの言葉を思い出し、孫たちの笑顔が浮かぶ。
(……悪くない。悪くないけど……)
気づけば、天井の木目がじんわりとにじんで見えた。
その時、小さな足音がして、襖がそっと開いた。
「じいじ……ねてる?」
ゆめが心配そうにのぞきこんでいた。
「ん? まだだよ」
「……おやすみ、ぎゅーしていい?」
「おう、おいで」
小さな体が胸にもぐり込み、雄一はそっと背中を撫でた。
その温もりに、胸がきゅっと締めつけられるような愛しさが広がる。
「おやすみ、ゆめ」
ゆめが布団に戻ると、雄一は天井に向けてぽつりとつぶやいた。
「……孫と過ごす毎日って、こんなに幸せなんだな」
まるで誰かに聞かせるように、そして自分に言い聞かせるように。
その夜、雄一は深く、静かに眠りに落ちた。
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翌朝、庭に出てみると、秋田犬のりりぃが尻尾をゆっくり揺らしながら近づいてきた。
「ウォッフ……」
雄一は少し身構えたが、りりぃの目は意外にも優しかった。
「おはようさん。おまえも家族なんだなあ」
りりぃの頭をそっと撫でると、想像よりも温かく、柔らかかった。
庭の芝生にはまだ朝露が残り、澄んだ空気の中でコスモスが風に揺れていた。
その光景を見つめながら、雄一は胸の中にふたつの想いがせめぎ合うのを感じていた。
ここで暮らす未来への明るさ。
そして、大山で築いた日々を手放す寂しさ。
どちらも嘘ではない。
どちらも自分の本音だった。
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その日の夕方。
団地の友人・明菜さんに電話をかけると、いつもの明るい声が返ってきた。
「どう? あきらくんの家は?」
「……まあ、すごくいいとこだよ。孫たちも元気だし」
「でも声が浮いてないじゃない。どうしたのさ」
明菜さんは、雄一が何かを隠しているのをすぐに察した。
二十年以上のつきあいは伊達ではない。
雄一は少し笑って言った。
「……なんでもわかるんだな、あんたは」
すると電話の向こうで、明菜さんの声が少し柔らかくなった。
「そりゃ、家族みたいなもんだもの」
その言葉が、胸の奥に深く染みた。
電話を切ったあと、雄一はしばらく庭を眺めた。
沈みかけた夕日が街並みを赤く染め、風が静かに吹き抜けていく。
(……どうするかな、オレは)
答えはまだ出ない。
ただ、入間の風は心地よかった。
そして、大山の喧騒もまた恋しかった。
揺れる気持ちは、日に日に大きくなっていった。
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◆ 第3章 揺れる心、重なる家族
入間での二日目の朝。
雄一とるり子は、玄関先に並んだ子ども用の小さなスニーカーと、大人の靴たちを目にしながら軽い朝食をとっていた。
トーストの焼ける匂い、小さな鳥のさえずり。
団地とは違う、静かで柔らかな morning。
「お父さん、今日はどうします?」
あきらがコーヒーを飲みながら尋ねる。
「ちょっと散歩でもしてみるか。入間の町をもっと見ておきたいしな」
「わたしも行きたいわ」
るり子がゆっくり立ち上がった。
理恵が笑顔で手を振る。
「私は子どもたち連れて買い物行ってくるね。夕方までには帰るから」
「気にしなくていい、ゆっくりしてこいよ」
雄一は軽く手を上げた。
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入間の町は、歩くごとに変わる表情を見せた。
スーパーマーケット、ドラッグストア、歯科医院、整形外科、整った歩道、広い空。
駅前には小さなジムやスイミングスクールもあり、若い家族と高齢者がうまく共存しているような雰囲気だった。
「思ったより住みやすそうだな」
雄一がつぶやく。
「そうねえ。病院も多いしね……」
るり子は周囲を見渡し、複雑な表情を浮かべた。
膝の痛みを気にしているせいか、足をかばうように歩く後姿が少しだけ痛々しい。
(るり子の体を考えたら……この町のほうがいいのかもしれん)
雄一の胸に、そんな思いがよぎる。
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昼過ぎ、ふたりは隣の狭山市へ向かった。
理恵の実家「そば処・藪もと」を訪ねるためだ。
駅前からタクシーに乗ると、運転手はすぐに言った。
「ああ、藪もとさんね。茶そばが有名な店ですよ」
十年前に来たときより住宅が増え、道に新しい店も見える。
タクシーが停まると、立派なケヤキの看板と藍染めの暖簾が目に飛び込んできた。
「いらっしゃい! おひさしぶりです」
暖簾をくぐると、理恵の父・健司が太い声で迎えてくれた。
紺の作務衣姿で、年季の入った手は職人そのものだ。
「おお、浜中さん。遠いところありがとね」
奥から母のとみ子が笑顔で顔を出す。
「お邪魔します。久しぶりですねえ」
雄一は深々と頭を下げた。
店内は午後の時間帯で客も少なく、そばの香りがふんわりと漂っていた。
「せっかくだから、茶そば食べてってよ」
健司が言うと、厨房から理恵の弟・秀作が顔を出した。
「こんにちは、おじさん、おばさん。ゆっくりしていってください」
その横で、秀作の奥さんが笑顔で会釈をした。
丸顔で優しそうな女性だ。
「家族ぐるみって、いいもんだねえ……」
るり子が小声でつぶやく。
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料理が運ばれてくる。
つやのある緑がかった茶そば、出汁の香り、薬味のネギと海苔。
「いただきます……」
ひと口すすり、雄一は目を丸くした。
「こりゃあ……うまい! 前よりさらにうまくなったんじゃないか?」
「前って……来たの二回目でしょうが」
健司が苦笑する。
「そういや、そうだったな」
雄一も笑った。
食事が終わると、健司が湯呑みを片づけながら言った。
「で、あきらの家に引っ越すって話はどうなった?」
急に核心に触れられ、雄一は少し言葉を濁す。
「ああ……ええ、まあ……いろいろ考えててね……」
健司は気に留めた様子もなく、つづけた。
「日曜は運動会だろ? お弁当作らなきゃなあ。大地は何が好きなんだ?」
「なんでも食べるけど……そばはちょっと飽きてるかもな」
雄一が言うと、とみ子が可笑しそうに笑った。
「そりゃそうだねえ。家がそば屋だもの」
会話はにぎやかに弾み、引っ越しの話題には誰も踏み込みすぎなかった。
お互いに気持ちを察したのだろう。
るり子はふと、店の奥に飾られた家族写真を見つめた。
健司・とみ子・秀作夫婦・理恵、そして小さな大地とゆめ。
みんなが笑っている。
「……家族って、いろいろな形があるわねえ」
彼女は胸の内にそっとしまうように、小さくつぶやいた。
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日曜日。
雲ひとつない快晴。
小学校の校庭には、テントが立ち並び、鮮やかなビブスをつけた子どもたちが走り回っていた。
場所取りは、あきらが夜明け前にがんばったらしい。
校庭の中央を見ることができる大きな木の下の、一等地。
「ここ、ほんとに人気なんですよ。毎年戦争です」
あきらは胸を張った。
雄一夫婦、理恵一家、そして健司・とみ子夫婦が揃い、みんなでブルーシートに座り込む。
大地が頬を赤くして走る姿。
ゆめがポンポンを持って元気に踊る姿。
どれも眩しくて、雄一とるり子の胸はいっぱいになった。
「ばあば、見ててね!」
ゆめが手をふる。
「はいはい、見てるわよ」
るり子は涙をこらえながら笑った。
昼食は各家族の持ち寄り。
煮物、から揚げ、卵焼き、サンドイッチ。
その中で、炊きたてのおにぎりが特に美味しかった。
「ほら、ゆっくり食べなさいよ。あせったら危ないから」
るり子は大地の背中をさする。
大地はおにぎりを左右の手に持ち、大きな口で頬張った。
「うまい! これ、おばあちゃんが作ったの?」
「そうだよ。特別よ」
雄一もおにぎりをほおばり——
「……っ、ごほっ、ごほっ!」
「ちょっと! お父さん大丈夫?」
るり子が慌ててお茶を渡した。
「あぁ、すまん……つまった……」
健司が大声で笑った。
「誤嚥性の危険あるんだから、気をつけなよ!」
健司の明るい声が、まわりの家族連れまで笑わせた。
午後のかけっこで大地が転んで泣いたとき、三家族全員で励まし、写真に収まった。
泣き顔のままの大地を、みんなが抱きしめる。
「……幸せって、こういうことだなあ」
雄一は小さくつぶやいた。
胸の奥がじわりと満ちていく。
あたたかい。
とても、あたたかい。
それと同時に、胸の奥で、ある想いが静かに広がり始めた。
(ここで暮らすのも……悪くない……
いや、むしろ……幸せかもしれない)
ふたりの心は、揺れ続けていた。
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夕方、家に戻った頃には、西の空は淡いピンク色に染まり、冷たい風が少しだけ吹いていた。
庭のコスモスが揺れ、りりぃが尻尾をゆっくり振った。
るり子は疲れた表情を浮かべながら、座敷に腰を下ろした。
「……楽しかったけど、ちょっと疲れたね」
「だな。だが……なんだか胸がいっぱいになった」
「どうする? 引っ越しのこと……」
その問いに、雄一はすぐには答えられなかった。
「……もう少し考えたい。いろいろとな」
窓の外から聞こえる子どもたちの笑い声。
遠くで犬が鳴く声。
入間の夕暮れは、大山とは違う優しさをもっていた。
それは確かな魅力だった。
しかし同時に、雄一の胸に去来するのは——
(大山のあの階段で、三十年生きてきたんだよなあ……
手放すってのは、やっぱり……簡単じゃない)
その夜、ふたりはなかなか眠れなかった。
未来と過去、希望と不安。
どれも嘘じゃない。
どれも大切だからこそ、心が揺れ続けていた。
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◆ 第4章 深夜の呼び声
入間での生活体験が始まって六日目の夜だった。
その日は、昼過ぎから急に冷え込み、夕方には木枯らしのような強い風が吹き始めていた。
風が玄関のドアを揺らし、家の外壁に叩きつけるたび、家が少しだけ震える。
「寒いわねえ……」
夕飯を片づけたあと、るり子は肩をすくめながら言った。
冷たい空気がすこし天井の隙間から入り込み、床がひんやりしている。
「ああ、今日はいつもより冷えるな。風が強い」
雄一はこたつに足を入れながら、缶ビールを飲み干した。
あきらが言う。
「お風呂先にどうです? 体冷えると胸に良くないんだから」
「そうだな……じゃ、お先に」
雄一は肩をまわしながら立ち上がった。
その背中を見つめるるり子の目には、ここ数日ずっと続いてきた不安の影が揺れていた。
(……薬、飲み忘れてないかしら)
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風呂を出て、布団を敷いた一階の和室へ入ると、畳の匂いが鼻に心地よい。
遠くで風の音がごうっと鳴り、外の木が強く揺れる影が障子に映る。
雄一は布団に横になり、深く息を吐いた。
「ふう……やっぱり広い家ってのは、風の音も違うなあ」
るり子も布団に入った。
「今日はもう寝ましょ。早く体休めないと」
「そうだな……」
灯りを消すと、家の中に静けさが満ちた。
二階からは大地とゆめの寝息が微かに聞こえる。
風は相変わらず強く、木の枝が窓を擦る音が時おりする。
雄一はその音を子守唄のように聞きながら、ゆっくりと目を閉じた。
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深夜一時頃のことだった。
雄一の呼吸が、急に乱れた。
胸の奥がぎゅっと締めつけられ、まるで誰かに胸を押さえつけられているようだった。
「……っ」
声をあげようとしても、喉が詰まったように声が出ない。
(息が……できない……)
胸の奥から重い痛みがじわじわ広がる。
額には脂汗が浮かび、手足が冷えていく。
となりで眠っていたるり子は、異変にすぐ気づいた。
「お、お父さん!? お父さんどうしたの!?」
るり子は飛び起き、雄一の肩を揺らした。
「お父さんっ! お父さん!!」
雄一は胸を押さえたまま、苦しげに目を見開く。
しかし声は出ない。
呼吸だけが荒く、浅い。
るり子は半ば泣きながら、階段へ向かって叫んだ。
「あきらーーーっ!! 起きて! 早く!!」
その声は、風に混じって家中に響いた。
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二階の寝室から慌てて降りてきたあきらは、父の異変を見てすぐに状況を理解した。
「お母さん、救急車呼ぶ! すぐに!」
スマホを取り出す手が震える。
理恵も飛び起きてきて、るり子の背中を支えながら状況を見守る。
「苦しいのね……お父さん……しっかりして……!」
雄一は胸を押さえながら、苦しげにうめいた。
「……っ、う……」
その声は、たった一文字にも満たないほど弱々しかった。
あきらは救急隊へ必死に住所を伝える。
「はい、父が胸を押さえて……息が……!
心臓の持病があります。薬も……はい……!」
風はさらに強く吹きつけ、外の木々を激しく揺らす。
救急車のサイレンが近づくにつれ、夜の町の静けさが破られていく。
まるで、この家の時間だけが急激に加速しているようだった。
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救急車が到着し、隊員たちが雄一を慎重にベッドに移す。
あきらが説明し、理恵が薬手帳を差し出す。
るり子はただ夫の手を握りしめ、震える声で呼びつづけた。
「お願い……お願いよ……お父さん……!」
救急隊員は冷静に言った。
「血圧がかなり高いです。すぐ病院に搬送します」
ストレッチャーが玄関を出るとき、強風が吹き抜け、るり子の髪を揺らした。
救急車のサイレンは夜空の中で赤く明滅し、やがて遠ざかっていった。
あきらは車を追うようにジャンパーを羽織り、雄一の手を握りながら乗り込む。
「お母さんはここで待ってて。大丈夫、必ず戻ってくるから!」
「……お願いね、お願い……!」
玄関に残されたるり子は膝から崩れ落ち、理恵に支えられながら泣き続けた。
外では、あいかわらず木枯らしが家を揺らしていた。
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翌朝。
病院での検査の結果、雄一は一命をとりとめた。
医師が静かに告げる。
「動脈硬化がかなり進んでいます。薬の飲み忘れもあったようですね。
今後は絶対に欠かさず飲んでください」
「……すみません……」
雄一はベッドの上で、情けなさそうに目を伏せた。
あきらが横に座り、父の肩にそっと手を置く。
「父さん……頼むよ。俺たちを心配させないでくれ」
「……すまん……ほんとに……」
自分が家族にどれだけ心配をかけてきたかを痛感した。
あの夜、胸を締めつけた痛みは、ただの発作ではない。
老いという現実が、とうとう身体ごと突きつけてきたのだ。
るり子も病室に入り、夫の顔を見た途端、涙が溢れた。
「……もう……死んじゃうかと思った……」
「るり子……悪かった……」
手を握り合った二人の姿は、三十年以上連れ添ってきた夫婦そのものだった。
その光景を見ていたあきらは、胸をぎゅっと掴まれるような気持ちになった。
(やっぱり……一緒に住んでもらわなきゃ……)
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二泊して退院すると、雄一は体験同居を切り上げ、大山へ戻ることにした。
入間からの帰り道。
雄一の手には薬の入った袋が握られていた。
るり子は夫の腕を支えながら歩く。
車の窓越しに流れる風景は、どれも穏やかで美しいはずなのに——
雄一にはどこか遠く感じられた。
(ここじゃ……死ねないな)
突然の想いが胸に浮かび、自分でも驚いた。
入間は良い町だ。
家族もいる。
孫たちもいる。
便利だし、自然も多い。
しかし——
(おれが死ぬなら……大山がいい)
それは、言葉にしないと崩れてしまいそうな、繊細でしかし強い感情だった。
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団地へ帰ると、灰色の外壁と川越街道の車の音、どこか油のような匂いがふたりを迎えた。
「……帰ってきたわね」
るり子が小さく言う。
雄一は階段の手前で足を止め、四階へ続く急な階段を見上げた。
足に来る。
息が上がる。
それでも——
(この階段……この音……
これが、おれの生活の音なんだ)
四階のドアを開けた瞬間、台所の匂い、壁に染みついた生活臭、窓から差す光が妙に懐かしく感じられた。
雄一は畳の上に寝転び、天井を見上げた。
(やっぱり……オレはこの家で……)
答えが胸に静かに降りてくる。
そして、はっきりと自分の心の声を認めた。
——ここで死にたい。
その想いは、決して暗いものではなかった。
むしろ、人生の終わりをどう生きたいかという、深い願いだった。
「……お父さん、どうするの? 引っ越し……」
るり子が不安げに尋ねる。
雄一は、静かに、しかし力強く答えた。
「……やっぱり、ここがいい。
住み慣れた家が……一番だ」
窓の外を風が通り抜け、カーテンがふわりと揺れた。
その音は、大山に戻った雄一をやさしく包むようだった。
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◆ 第5章 帰る場所、選ぶ場所
退院して三日が経ち、雄一の体調もようやく落ち着いてきた。
朝の大山の空は薄い灰色で、川越街道にはいつものように車の列がのびていた。
団地の階段を通して、誰かが階上へ上がる足音が響く。
その音は、雄一にとってまぎれもない “日常の鼓動”だった。
「……まあ、あれだな。やっぱり家が一番落ち着くな」
テーブルに置かれた湯呑みを手にしながら、雄一はしみじみと口にした。
るり子は、その言葉にほっとしたような、しかしどこか寂しげな目を向ける。
「お父さん……あきらくんのところには、どう答えようか」
「急には言えんよ。あいつもいろいろ考えてくれてるしな……」
雄一は息を吐き、座布団にもたれた。
(あきらには悪いが……やっぱりここがいい)
そんな気持ちが胸の奥で固まっていくのを、自分でも感じていた。
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昼過ぎ、団地の三階に住む明菜さんが買い物袋をさげて戻ってきた。
エレベーターのない団地なので、階段の踊り場でよく人とすれ違う。
「あら、浜中さん。退院おめでとう」
「おう……心配かけたな」
「ほんとよ。ニュースじゃないけど、救急車の音、聞こえたもんだからビックリしたわ」
明菜さんは心底ほっとした表情で笑った。
普段は化粧っ気こそあまりないが、笑うとぱっと華やぐ。
「るり子さん、いるでしょ? 顔見せてきなさいよ」
明菜さんに促され、雄一は軽く会釈すると先に部屋へ戻った。
るり子はそのまま明菜さんの部屋へ上がり、いつものようにお茶を飲みながら長いおしゃべりが始まった。
明菜さんが淹れるお茶は本当に美味しい。
「三十年ものの常滑焼よ。これで淹れるとまろやかになるの」
そう自慢げに語るのが、るり子は好きだった。
「で……同居の話はどうするの?」
「……うーん……」
るり子は息をつき、両手で湯呑みを包み込んだ。
「私も、膝は痛いし……階段がきついのも正直あるのよ。でも……」
「でも、ここを離れたくない?」
「……ええ」
その言葉に、明菜さんは静かに頷いた。
「わかるよ。ここは、もう“家族”みたいなもんだもの」
団地の廊下、毎日のように顔を合わせる住人たち、買い物帰りに立ち話する習慣。
それらはすべて、るり子の人生の一部だった。
湯呑みを置くと、るり子は涙ぐんだ。
「お父さん、命に関わることだったのよ。だから……ほんとは入間に行ったほうがいいのかもしれない。でも……」
「でも、“生きる場所”って、ただ便利なところってわけじゃないよ。
心が落ち着くところが“住む場所”なんだよ」
その言葉は、長年暮らしてきた人にしか出せない重さを持っていた。
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夕方。
あきらから電話がかかってきた。
「どう、体の調子は?」
「ああ、もう大丈夫だ。心配かけたな」
「あのさ……引っ越しのことなんだけどさ。父さんの体のこと考えると、やっぱり一緒に住んだほうが安心なんだよ」
あきらの声には焦りと優しさが混ざっていた。
雄一は少し黙って、言葉を選んだ。
「……あきら。おまえの気持ちはありがたい。本当にそう思ってる。
でもな……おれにはおれの“居場所”があるんだよ」
電話の向こうで、息子が静かに息を呑むのがわかった。
「……団地が、そんなにいいの?」
「いいというか……慣れた場所ってのは簡単に捨てられん。
人間ってな、馴染んだ匂いとか、音とか、そういうので心が安定するんだよ」
「…………」
数秒の沈黙が流れた。
「……父さん。俺たち、必死だったんだよ。
父さんと母さんのこと思って……家を広くしたんだ」
「ああ、わかってる。怒るなよ。おまえたちの気持ちはちゃんと届いてる。
でもな……一緒に住むことだけが親孝行じゃない」
「親孝行したいんだよ。……もっと早く言えばよかったけどさ」
声が震えていた。
「孫たちだって……じいじとばあばと暮らしたがってるんだよ」
雄一は、その言葉に胸がぐっと締まった。
泣き出しそうな声の息子を思い浮かべ、少し唇を噛んだ。
(……すまん。本当にすまん)
「……少し時間をくれ。急には答えられん」
あきらは息を吸い、絞り出すように言った。
「……わかったよ」
電話が切れると、雄一は深いため息をついた。
(息子を悲しませたくない。だが……大山を手放すのはもっとつらい)
気持ちは、簡単にひとつにまとまらなかった。
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夜、るり子とふたりでテレビを見ていたが、内容は何も頭に入ってこなかった。
「……ねえ、お父さん」
「ん?」
「わたしね……もしお父さんが“ここにいたい”って言うなら、それでいいと思ってるの」
「……いいのか。膝だってつらいだろう」
「つらいけど……でも、住み慣れたところで生きて、ここで終わるのも悪くないと思うの」
雄一は、テレビの光に照らされた妻の横顔を見つめた。
その表情は、決意と覚悟に満ちていた。
「るり子……」
「わたしたちは、もう長生きしたもの。同じ場所で同じ匂いを感じながら暮らすのって、それだけで幸せよ」
その言葉に、雄一は胸の奥が熱くなるのを感じた。
(そうだ……オレはこの人と、この団地の中で生きてきた)
ふたりの目が合い、小さく笑った。
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翌日。
朝の空気は少し暖かく、窓から差し込む光が部屋を優しく照らしていた。
雄一は思いきって、あきらへ電話をかけた。
「……おまえの気持ちはありがたい。でもな……
住み慣れたここが、やっぱりいいんだ」
あきらはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「……わかった。父さんがそう言うなら、俺は尊重するよ」
深い、諦めにも似た息が漏れた。
「ただ……無理はしないでくれよ。いつか、また考え直してくれてもいいから」
「ありがとうな、あきら」
その言葉は、父と息子がようやく辿りついた“折り合い”のようでもあった。
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電話を切ると、雄一は窓を開けた。
ひんやりとした川越街道の風がふわりと入り、生活の匂いとともに部屋を満たした。
「ああ……やっぱり、この町の風が落ち着くな」
「お父さんの顔、なんだか晴れ晴れしてるわよ」
るり子は笑った。
雄一は肩をすくめた。
「そりゃあ、決めたからな」
決めた。
ここに住む。
この団地で、この町で、生きていく。
その決断は、雄一の胸に静かに、しかし確かに降りていた。
(あとは……寿命が尽きるまで、ここで生きよう)
その想いは、悲しみではなく、ひとつの“幸せの形”だった。
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◆ 第6章 静かな灯り、最後の夜
雄一が「大山に残る」と決めてから三週間ほど経った。
季節は晩秋へと移り、団地の前の街路樹は赤や黄色に色づき、落ちた葉がアスファルトの上を風に転がっていた。
朝の空気は冷たく、川越街道の車が吐き出す排気の匂いがうっすら残る。
だが、雄一にとっては、これも長年の“町の匂い”だった。
「お父さん、お薬飲んだ?」
るり子が湯呑みを運びながら聞く。
「飲んだよ、ちゃんと。忘れちゃ困るだろ」
そう言いながらも、雄一は薬を飲むたびに、体の衰えを突きつけられるようで、少し寂しくなるのだった。
「今日は病院の予約入ってるんでしょ? 一緒に行くわよ」
「いいよ、おまえは膝が痛いんだから休んでなさい」
「なに言ってるの、ふたりで行くわよ」
るり子は頑固に微笑む。
こうして夫婦は、毎日のように互いを気づかい合いながら過ごしていた。
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病院への道中、雄一は少し息が上がり、歩幅も以前より小さくなっていた。
「……はあ……今日は調子が悪いな」
「大丈夫? タクシー呼んでもよかったんじゃない?」
「いいんだよ。歩かないと足が弱る」
団地の近くの病院は、昔から通っている慣れた場所だ。
待合室に入ると、いつものように新聞を読む老人、テレビに見入る女性、受付で名前を呼ばれる声——
そのすべてが、雄一の生活の一部だった。
診察室に入ると、担当医が雄一の顔を見て言った。
「浜中さん、無理してませんか? 心臓は油断できませんよ」
「はい……ぼちぼちやってます」
医師はカルテを見ながら言葉を続けた。
「薬は絶対に飲み忘れないこと。飲み忘れが続くと、突然症状が出ますからね」
雄一は背筋を伸ばし、小さくうなずいた。
診察を終え、ホールに戻ると、るり子が心配そうに待っていた。
「どうだった?」
「まあ……年相応ってとこだな」
「ほんとは悪いんでしょう?」
るり子の声は震えていた。
「大丈夫だよ。まだおまえより先には死なない」
冗談めかして言ったその言葉に、るり子は胸がきゅっと痛くなる。
(そう思っていたのに)
その予感が、数日後に現実になるとは、この時まだ知らなかった。
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ある夜。
雄一は、心臓がどくん、と重く脈打つような感覚に襲われた。
「……ん……?」
布団の中で息を整えようとすると、胸がつかまれるような圧迫感に変わっていく。
「お父さん? どうしたの?」
隣で眠っていたるり子が目を覚ました。
「……いや、大丈夫……ちょっと胸が重いだけだ」
るり子はすぐに明かりをつけ、雄一の顔をのぞき込む。
「顔、真っ青よ。救急車呼ぶ?」
「呼ばんでいい……ちょっと休めば……」
しかし、その苦しみは長く続くことはなかった。
数分後には落ち着き、雄一は深く息を吐いた。
「……大丈夫だ。もうなんともない」
るり子は腕を握りしめ、震えながら言った。
「お願いだから……お願いだから、薬だけはちゃんと飲んで……!!」
「……ああ。もう二度と忘れない」
雄一は妻の手を握り、静かに頷いた。
その夜、ふたりはほとんど眠れなかった。
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翌朝。
るり子は、三階の明菜さんの部屋を訪ねた。
「……そう、そんなことがあったのね」
明菜さんは深く息をつき、るり子の手を握った。
「るり子さん。もしもの時は、すぐに私に呼びなさい。
どんな時間でもいいから」
「ありがとう……ほんとに……」
「いいのよ。友達だもの。私だって、あなたたちいなくなったら寂しいんだから」
るり子はその言葉に、胸がじんとした。
(この人がいることも……この町の大切な理由だわ)
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数日後の夕方。
夫婦は夕食を終え、いつものようにこたつでテレビを見ていた。
「お父さん、そろそろ布団敷くからね」
「おう……」
雄一は少し疲れた様子でこたつから抜け出し、布団へ向かった。
布団に横になると、窓の外の風の音と、川越街道を走る車の低い唸りが重なり合い、静かな子守唄になる。
(……ここで過ごしてきたなあ。
いい人生だった……)
そう思いながら、雄一はゆっくりと目を閉じた。
風が障子を揺らす音が、少しずつ遠ざかっていく。
るり子は洗い物を終え、寝室へ向かおうとしたその時だった。
「……お父さん?」
返事はなかった。
「お父さん……? ねえ、お父さん!」
るり子は慌てて駆け寄り、雄一の肩を揺すった。
「だめよ……だめよ……起きて……起きて……!」
雄一は、小さな声で「……うっ……」とだけつぶやき、そして——
そのまま静かに、眠ったように息を引き取っていた。
るり子は崩れ落ち、声を上げて泣いた。
「いやよ……いやよ……お父さん……!!」
涙が頬を伝い、雄一の手を握ると、その手は少しだけ温かかった。
(いや……行かないで……)
その願いは、もう届かなかった。
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葬儀の日。
大山の葬儀会館には、家族とごく親しい人々が集まった。
あきらは父の遺影を抱え、顔を紅潮させ、時折涙をぬぐっていた。
理恵も目を赤くはらし、子どもたちに事情を説明しながら静かに寄り添っている。
明菜さんも参列していた。
涙で mascara が落ち、頬に黒い筋をつけながら、遺影に向かって声を震わせた。
「浜中さん……こんなに早く行くなんて……ずるいわよ……」
彼女の背中を、るり子がそっとさすった。
「ありがとう、明菜さん……」
明菜さんは涙をぬぐい、微笑んだ。
「るり子さん……あなた、ひとりじゃないからね。
わたしがいるから。ずっといるから」
その言葉に、るり子は耐えきれず涙をこぼした。
雄一の葬儀は、静かで、優しく、どこか温かかった。
参列者たちの表情は悲しみに包まれながらも、雄一がこの町の人々にどれだけ愛されてきたかがよく伝わってきた。
遺影の中の雄一は、いつものように柔らかくほほえんでいた。
まるで、
――「心配するなよ」
そう語りかけているように。
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葬儀が終わり、ひと月が過ぎた。
るり子は、自宅の壁にもたれながら息子に告げた。
「……あきら。わたし、入間には行かないわ」
あきらは驚いた顔をした。
「え……どうして? 一緒に暮らすって、前に……」
「そのつもりだったけど……この町を離れたくないの。
ここにお父さんがいて、ここに明菜さんもいる……
ここが……わたしの帰る場所なの」
あきらは、困ったように、しかしどこか納得したように笑った。
「……わかったよ、お母さん」
るり子は、自分の決断に揺らぎはなかった。
雄一が生きた町。
夫と三十年積み重ねた日常。
そして何より、心が落ち着く場所。
——ここで生きよう。
——ここで夫を思いながら暮らそう。
そう決めたのだ。
だが、その後の展開は、誰も予想していなかった。
承知しました。
ここから 2万字版・最終章(第7章/約4,000字) をお届けします。
物語全体を締めくくる、あたたかくも切ない「再出発の章」です。
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◆ 第7章 そして、灯りのつく場所へ
雄一が旅立ってひと月。
大山の空はすっかり冬模様となり、ビルの隙間を吹き抜ける風は冷たく、ハッピーロード大山のアーケードからは年末の飾りつけが見え始めていた。
るり子は、団地の四階の部屋で、使い込んだ茶碗や衣類を段ボールに詰めていた。
雄一が生前残した服の匂いは、もうほとんど消えかけている。それがまた胸を締めつけた。
「……お父さんの、全部は持っていけないわね」
段ボールの中で揺れる小さな湯呑みを手にすると、自然と涙がこぼれた。
(大山を離れない、と決めたのに——
四階は、やっぱりつらいわ)
膝の痛みが悪化し、階段を降りるたびに息が上がる。
それでもこの部屋を離れたくない理由がたしかにあった。
雄一が最後に息をした場所だから。
一緒に暮らした三十年のぬくもりが詰まっているから。
そんな思いが胸の奥で渦巻いたまま、るり子は荷物を抱えて玄関に向かった。
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ふと、インターホンが鳴った。
「……はい?」
扉を開けると、見慣れた大きな四角い顔の男が立っていた。
駅前の不動産屋の店主だ。
耳が大きく、冬物のジャンパーの中に小柄な体がすっぽり収まっている。
「浜中さん、こんにちは」
「まあ……不動産屋さん?」
彼はにこりと笑い、小さな書類の束を見せた。
「来月、この棟の一階が空きますよ」
その言葉に、るり子は目を大きく見開いた。
「……え?」
「転勤だそうでね。急に空くことになりました。
前に“階段がきつい”っておっしゃってたから……一応お知らせをと思いまして」
るり子は、胸の奥がふっと軽くなる感覚を覚えた。
(……階段がない一階……この棟で……?
ここを離れなくてもいいってこと……?)
そこへ階段の下から、声が聞こえた。
「ばあばー!」
明菜さんが手をふりながら上ってきた。
肩にエコバッグをかけ、買い物帰りらしい。
「ちょうど不動産屋さんにお願いしてたのよ。
“浜中さんのために下の階が空いたら教えて”って」
そう言って、舌をちょこんと出した。
「……あきちゃん……!」
るり子の目から涙があふれた。
「もう、引っ越すなんて言うからさあ。寂しくなるところだったよ。
これで、また一緒にお茶飲めるわね」
るり子はその場で崩れ落ちるように、明菜さんを抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう……!
私、本当に……この町がいいの……!」
明菜さんの胸に顔をうずめるるり子の背中を、不動産屋は優しく見つめていた。
「じゃあ、手続きの準備を進めておきますね」
その言葉は、るり子の心に新しい灯りをともすようだった。
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翌週。
入間から息子のあきらがやってきた。
軽トラックの助手席には、理恵とゆめも乗っていた。
後部には、るり子の荷物がすでに積まれている。
「お母さん……本当に、入間に来ないの?」
るり子は息子の眼をじっと見て答えた。
「ごめんね……でも、わたし、ここで生きたいの。
お父さんと暮らしたこの町で」
大地とゆめのことを思うと胸が痛む。
でも、ここを離れて“他人の町”で年を重ねるのは、やっぱり違うと感じた。
あきらはゆっくりと頷き、無理に笑顔を作った。
「……うん。うん……わかったよ、お母さん」
その声はどこか悔しさと寂しさが混じっていたが、息子なりの優しさが滲んでいた。
「でもさ……また迎えに来るよ。今度は無理やり連れてくから」
「あらやだ、そんなことできるもんですか」
ふたりは小さく笑った。
その瞬間、団地の三階から明菜さんが顔をのぞかせた。
「ばあばー! 早く降りてきなさいよー!
冷めないうちにお茶入れちゃったんだから!」
るり子は思わず笑ってしまった。
「ね? わたしには、ここに家族がいるのよ」
あきらはその光景を見て、少しだけ肩を落としながらつぶやいた。
「……敵わないな、それは」
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軽トラックのエンジンが低く唸り始める。
るり子は息子の肩に手を置き、微笑んだ。
「ありがとう、あきら。遠いところまで、わざわざ……」
「いいよ。母さんが元気でいてくれたら、それで」
そして、小さな袋を差し出した。
「これ……父さんからだ」
袋の中には、雄一が生前つけていた腕時計。
古いが大切に手入れされていた。
るり子は震える指でその時計を握りしめた。
「……お父さん……」
時計を胸に当てた瞬間、温かな涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「お父さん、まだ……ここにいるのね」
そうつぶやくと、ゆめがるり子の手をそっと握った。
「ばあば、また来るからね」
「ありがとう、ゆめちゃん」
大地も照れくさそうに手を振った。
「じゃ、帰るわね」
理恵が頭を下げ、トラックはゆっくりと発進していった。
あきらはミラー越しに母を見つめながら、静かに笑った。
(……母さんの“生きる場所”は、ここなんだな)
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るり子は静かに階段を上がっていった。
毎段ごとに息は上がるが——
怖くなかった。
(もうすぐ一階に越すんだもの。もう少しの辛抱……!)
三階にさしかかったところで、明菜さんがにやにやしながら顔を出した。
「どう? 息子さん、泣いてた?」
「泣いてないわよ」
「ほんとぉ〜? さっきの顔、絶対泣いてたわよ〜」
いつもの調子で肩を揺らして笑う。
その明菜さんの明るさが、るり子にとって何より心強かった。
「さ、入って。引っ越し祝いに、大福出すわよ」
「もう……あきちゃんはほんとに……」
ふたりは笑いあいながら部屋へ入っていった。
るり子はふと、廊下の窓から空を見上げた。
薄い冬の雲がゆっくり流れ、柔らかい光が団地を照らしている。
(お父さん……見てる?
わたし、まだここで生きるわよ)
手に握った腕時計が、静かに時を刻む。
それは、雄一が今もそばで寄り添っているかのようだった。
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夕刻。
階下から賑やかな笑い声が響く。
明菜さんと、近所の住人たちの声だ。
「浜中さん、帰ってきたらしいよ!」
「よかったじゃないか〜」
「寂しくなると思ったのにねえ」
そんな声が階段越しに聞こえるたびに、るり子の心はあたたかく満たされた。
(……そうよ。これがわたしの“町”なの)
台所の窓を開けると、川越街道を走る車の音。
夕飯を作る匂い。
団地に灯りがひとつひとつ点き始める。
そして、るり子の胸にも——
小さな灯りが再びともった。
「……おかえりなさい、私」
そうつぶやいて、るり子はひとり笑った。
この町で生きることを選んだ。
雄一と過ごした日々が息づく場所で、明菜さんたち“もうひとつの家族”がいる場所で——
これからの人生を、静かに、丁寧に歩いていこうと決めた。
〈了〉
この物語は、派手な事件も奇跡もありません。
けれど、誰の人生にもある“静かな選択”を大切に描いたつもりです。
老いと向き合うとき、人は弱くなるのではなく、むしろ本当の強さを手に入れるのかもしれません。
読者の皆様が、「自分にとっての居場所とは何か」をそっと考えるきっかけになれば、それ以上の喜びはありません。
最後まで本書を手にとってくださり、心より感謝申し上げます。




