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08 心の庭園

「………我が母の住まう修道院には、このように美しい薔薇が咲き誇っている」

 綺麗に手入れされた一輪を差し出して、アルバートが言う。

「棘と余計な葉を落として、『水揚げ』というものを行えば、切った花も長らく持つという」

「これが、恋人の頬の色なのね」

「うむ。こうして一輪挿しに挿しておけば、長く鑑賞できる。母が教えてくれた。この歳になってもまだ教わることがあるとは………」

「あなたのお母様は、とても素敵な方なのね」

 そう言われると悪い気はしない。アルバートが言う。

「そうか。そうだな。父亡き後、まだ未成年だった私を何かと庇ってくれたものだ。花が好きでな。城の隣にある修道院の庭の一角に薔薇園を設けた。そのまま修道院に引っ越して、今では様々な薬草を育てている。………薔薇には棘があるから気をつけるように」

「私が、手にしていいのかしら」

「もちろん」

 ハミシエがバラをそっと手に取った。

「ああ、綺麗ね。まるで沈没船のカーテンの赤いビロードみたいな触り心地。ビロード、一度だけ触ったことがあるのよ」

「ふむ。沈没船か……」

「海に沈んできた船の中の宝物は生まれた順に貰える決まりだったの。私は末っ子だったから、船の中にはもうなにも残ってないことの方が多かったわ。ああ、けれど陸には薔薇があって、こうして、こんなに美しいものを、誰もが自由に手にすることが出来るのね。夢みたい。………何だか鼻がくすぐったくて、気持ちいいわ」

「それが、『香り』だ。どんな薔薇にもそれぞれ香りがあって、色があって、こうして目や鼻を愉しませてくれる。この国にはまだ少ないが、香りだけを集めた『香水』というのもある」

「色んな、色、ね………ねえバート。陸の世界に、黒い薔薇って、あるのかしら」

 ハミシエが薔薇を胸に当て、真摯な目で問いかける。

「黒か。黒は聞いたことがないな。世界のどこかに、あるのかもしれないが」

「そうね、そうよね。不吉な色ですものね。こんなに美しい花にはふさわしくないわ。もしも黒い薔薇が咲いてしまったら、すぐに、庭から追い出されてしまうのかしら………そうだとしたら、とても哀しいわ。そうなる前に、庭を飛び出して、黒い薔薇が好きな人と出会うことって、できるのかしら」

 ハミシエの黒い尾ひれが、水面を揺らす。それはまるで、水面に黒薔薇の花弁が踊るようにも見えた。言葉の端々に浮かぶこの黒い人魚の来歴や生き様から、どうしようもない孤独にも似たものが浮かんでとれる。

「………ハミシエ、もしも話したいことがあれば、私はいつでも聞こう。どんな些細なことでも宜しい。待っている」

「あなたのそういう気遣い、すごく好きよ、バート」

 アルバートが目を瞬かせる。

「気遣い、か。それは、少し違うような気もするな。………私は黒い色も好ましいと思う。黒は夜の色だ。夜がなければ、民らが憩うことも出来ぬ。黒というのは、無ければならぬ色なのだ。陸にも、海にも、そして、私にも」

「バート」

「もしも人の心に庭があるとすれば、私の心の中には黒い薔薇も咲くだろう」

 不慣れな仕草で、アルバートはハミシエの薔薇を持つ手に手を重ねる。

「私は……どうしようかしら。薔薇も良いけど、緑の木がいいわ。あなたの瞳の色。もしも脚があったら、木に登って憩うの。風が吹いて、色んな花の香りもして、そうね、庭、私の、憧れの場所。いつか、あなたと、歩くことが、できたら」

 男の暖かい手の温度が心地よい。自分が人魚だということも忘れて、この暖かさに溺れてしまいたい、とハミシエは目を閉じる。

「いいえ、私はただの人魚、不吉な子、と言われて育った、海の王の101番目の末の姫。こんなにも幸せなのは、いけないことだわ」

 すると、アルバートが言った。

「私とて、まだそなたに言えていない秘密がある」

 ハミシエが目を閉じたまま数秒ほど考え込んで、真顔で言った。

「………実はもう奥様が何人もいる、とか?」

 四角四面の男が珍しく笑いをこぼす。

「それが、ひとりもいないから困っていたのである」

 そして、慣れない仕草でハミシエの薔薇を持つ手に唇を当てる。何と次に言葉を言うべきかわからないまま、アルバートは言った。

「………そなたの、心の庭園の木に、私から挨拶を。幸せな場所にある、幸せな木に」

「私の、庭園………」

「我が母が、かつて言っていた。人は誰しも心に庭園を持っている。ハミシエ、そなたもだ。そして、心通じた者達だけが、互いに行き来ができる、そういう、幸せな場所だ。………私とそなたは、同じ場所に、こうして庭園を築いた。そう考えても、良いだろうか」

 ハミシエが、黒く長い睫毛を揺らして、呟いた。

「ええ、ええ、私、今までは何も持ったことがなかったわ。でもいま、心に、こうして、庭をこうして持つことが出来たのね………」

 薔薇の上に涙が落ちる。薔薇の上に落ちた涙が、うっすらと白い光りを放って、真珠そのものの形に変化する。

 驚いて目を見開くアルバートに、ハミシエが言った。

「バート。これを、持っていって。………人魚の涙は、特別な真珠になるの。遥かな昔、もっと人魚が人間に近しかった時、この真珠欲しさに人と人魚は争った、って小さい頃に乳母から聞いたことがあるわ。だから、二人だけの、内緒よ」

 そして薔薇を一輪挿しに戻し、幸せそうにそれを眺めて言った。

「沈没船にも時々、これと似た器があったの。何に使うのか、海では誰もわからなかったけれど、こうして『花』を飾るものだったのね………私きっと、人魚の中ではじめて、器に花をきちんと飾った人魚になれたのね。少し、誇らしいわ。幸せなことね………」

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