04 孤独な姫君
海が荒れると、様々なものが『水面から』降ってくる。父である海の王が『狩り』に出ることもあれば、人間の船が嵐に耐えきれずに沈んでくることもある。そう教わったのは、いつのことだったろうか。
波に揺れればいかなる海藻よりも美しい、黒い髪に黒い瞳は、101人もいる人魚の姫君達の中では珍しくもあったが、彼女は101人中、101番目の姫君でもあった。
彼女を産み落とすと同時に海の妃は命を落とし、美しいが人魚の間では不吉ともされる黒髪に黒い瞳、黒い鱗の赤子を見た父の海の王は、「ハミシエ」つまり「なかったもの」という名を、赤子に与えたのである。
そして海底の王宮の片隅の、フジツボやイソギンチャクに覆われた、古くもの寂しい小さな宮を宛がわれ、すっかり色褪せた赤い尾ひれが特徴的な老いた乳母のラクサと共に暮らすことになった。
夜毎行われる王宮の宴などに呼ばれることもないまま、200年の時が過ぎ、育ててくれたラクサがとうとう寿命が尽きて『泡に還った』時、彼女は決めた。
私は「なかったもの」なのだ。もう、自由に生きてもいいのではないか。
暗い暗い海底へ吸い込まれていく、唯一の肉親のようだった乳母の泡、すなわち魂の最期の形をじっと見つめ、ハミシエは掌をぎゅっと握る。
海がゆらゆらといつもより激しく揺れている。海上では嵐が吹き荒れているのだろう。また何時ものように沈没船がゆっくりと水面から落ちてきて、大きな財宝が積んであれば、それは父のものとなる。そして順番に序列が上の姫君から、沈没船の中に積まれた財宝が与えられていく。
101番目の姫君である彼女が手に入れることができるものは限られていたが、何年も前に降ってきたとある船の中にあった「何かが書かれている束」にハミシエは興味を引かれていた。
海水をたっぷりと含んで膨れ上がった、触ると水に溶けてしまいそうな、白い布のような、布よりもずっと脆く、触ると崩れてしまう何かの束。101番目ともなれば、船に残っているのはそれくらいしかなかったのである。
それは、地上では「本」と呼ばれているらしい、ということをラクサから教わった。地上には「紙」があり、「文字」があり、「絵」があり、それをまとめた「本」があり、そこには地上のあらゆることが書き留められていると言うことも。
寂れた小さな宮の中から、沈没船から集めた水を含んでボロボロになっている「紙の束」をひとつだけ手に取って、ハミシエは長年の陰鬱な住処を後にする。
夜の海は暗く、海面近くの夜光虫が遠い星のように輝く。わずかに届く月の光、夜もなお渦を成す回遊魚達、限りなく黒に近い青で彩られた、静かな、静かな世界。
「嫌いではないの」
思わずハミシエは呟く。
「けれど、さよなら」
知り合いも、伝手も、何もなかったが、陸の世界ではもしかしたら誰かが、自分の存在を、認めてくれるかもしれない。乳母のラクサは陸の世界を恐れていたが、自分は、そうではなかった。何かを創り出す民らが住まう、未知の世界。
黒い鱗に覆われた、魚そのものの下半身を大きく揺らし、ハミシエは静かに海面を目指して泳いでいった。