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03 出逢い

 決して大きくはないベルンシュタット城から出て、堀を渡ったすぐそこに、巨大ではないが堅牢な白い建物が建っている。即位して一番最初に、古びて半ば忘れ去られていた小さな図書館の改築を命じた日を思い出す。

 運河を引いて町の水不足を解消し、城下町の一番奥に該当するこの図書館の前にも噴水を引いた。市民の憩いの場だが、自分とてたまには利用しても良いだろう。アルバートは町の石工に彫らせた美しい彫像の特徴的な噴水の縁に腰掛ける。

 不意に、後ろから声がした。

「あの……貴方は、ここの方でしょうか」

 後ろは噴水の泉のはずである。跳び上がらんばかりにぎょっとしたが、努めてそれを顔に出すことはなく、ゆっくりとアルバートは振り返った。

「ここの方か、と問われれば………いかにも、そうであるが」

 図書館の改築を命じたのは自分なのだから、嘘を述べているわけではなかった。しかし、自分の目の前に現れたその『人物』を見て、アルバートは目を見開く。

 腰までの長さの黒く長い髪、それに相応しい黒く美しい瞳、真っ白な肌、下半身を覆う、濡羽色の黒い鱗。形の良い尾びれ。

「………人魚? 人魚が………何故、このような場所に?」

 果実のように赤い唇が、小さく動く。

「本を集めている国がある、と聞いて、来たのです」

「………いかにも。確かに我が国立図書館では、可能な限り本を集めているが」

「あの、それなら………これは役に、立つかしら」

「これ?」

「沈没船のものを、集めるのが趣味だったのです」

 そして、羊皮紙で出来た、何かの本の表紙だったものらしき何かを差し出し、随分と水を含んでいて原型を留めていないそれを手に、言った。

「………私は、きちんとした………陸にある本が読んでみたいのです。沈没船の本は皆、このように、何が綴られているのかもわからない。どうすれば、いいのでしょう。やっと……ここまで来たのに、ここから先には、どうしても行けなくて」

 アルバートが何度も何度も目を瞬かせ、そして何度もこの人ならぬ美しさを持った年若い人魚を見る。出すべき言葉が宙を舞って消えていく。

「誰に、どう頼めば、本って読めるのかしら。もしもあなたが、ここの親切なお方なら………」

 反射的にアルバートの口から言葉が付いて出る。

「………いかにも。私はこの図書館の『司書』である。ここにある本のことならば、何でも聞くが良い」

「シショ?」

「図書館に勤める、本に詳しい者のことだ。司書たる者、本に関する相談ならば何にでも乗らねばならぬ」

 本が読みたい、という人間を、人間ではなかったが、断る道理は『司書』にはない。図書館前の噴水の中をゆらめいているこの黒い鱗の人魚を再度見る。

「それならば、まず貸出用の図書附票(カード)を作るのがよかろう。しかし水に濡れたらインクが滲むな……」

「附票?」

「然るべき書類に、自宅の住所と名前を記入すればよいのだが」

「もう、家はないわ。それに、字も書けないの」

「それならば………」

「本は、水の中でも読めるのでしょうか」

「む、それだけは遠慮頂くしかない」

「そう………そうよね」

 肩を落とした人魚の美しい黒い髪が揺れる。

「………人魚というのはどのような物語を好むものなのか、問うても良いだろうか」

「え?」

「私は司書である。つまり、本を『読み聞かせる』ことなら不可能ではない。この蔵書目録によると物語の棚は9番目にある。我が国のような小さな国でも、長い年月をかけてようやく揃えた書の数々だ。濡らしてだめにしてしまっては困るが、読んで貰わねば惜しい。相手が誰であろうと、である」

 ぱっと人魚の顔が明るくなる。どこか陰がある雰囲気のこの人魚が、明るい声で言った。

「陸にしかないものが好きよ。木も、花も、山も、空も、火だってそうね。けれど、どんな本があるのか、わからないわ。お任せすることはできるの?」

「陸にしかないものか」

「ええ。それを、あなたが読んでくださるのね。親切な司書さん」

「う、うむ。急いで、探してこよう。………そこの噴水の彫像の影に隠れているとよい。そうだ、そなた、名前は?」

「ハミシエ。貴方は?」

「通りすがりの司書だ」

「司書の人間には名前がないの?」

 黒く美しい瞳が自分の瞳を不思議そうに覗き込む。アルバートが瞬時考え込み、息を吐いた。

「………バート、と呼んでくれれば結構」

「バートさん?」

「さん、も不要である。気安く呼んで宜しい」

 何で自分がそんな言葉を言っているのか逐一よくわからなかったが、アルバートはあくまでも、己の姿勢や表情を努めていつものような『四角四面の』ものにしようと、背筋を伸ばす。

「ではそうするわ。司書のバートさん。いいえ、バート、不思議な響きね。とても好き。どんな本かしら。楽しみだわ」

「………ハミシエ殿は海から?」

「ええ、運河を通って、ここまで。海にはもう、思い残すことはないの。それと、バート。私のことも、『ハミシエ』でいいわ。『殿』は不要よ」

「失礼。やんごとなきご身分の姫君であるのかと」

 するとハミシエが噴水の水面に視線を落とす。

「………お姫様にも、色々あるわ。でも、ここにいるのは不吉なお姫様じゃなくて、ただの本を欲する、一人の女よ」

「不吉?」

「………」

「そのような俗信は司書である私ですらよくは知らない。知を求める者にとって図書館とは公平であるべきものである」

 図書館の入口に、他ならぬ自分が職人に命じて掘らせた銘文である。

「本を取ってこよう」

 アルバートは立ち上がると図書館の方へと歩き出した。歩きながら、思わず片手を胸に当てる。言い知れないこの感情は何なのだろうか。

 しかし今優先的に考えるべきことは、あのハミシエと名乗った人魚に読み聞かせる本を、この図書館から探し出すことだった。

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