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17 柔らかいナイフ

「まったく、あらん限りの暴政を、だなんて、他の国だったら文字通り、首が飛んでいましてよ」

 宰相ガエターノの執務室に入ってきたマリーが、肩をすくめて言う。

「そうなったらどうしますか。マリー?」

 独特の声と、黒い瞳。長い付き合いの宰相が、椅子に腰掛けて問いかける。

「すっとんだ首についてですか? 長い付き合いですし、拾って適当な墓に埋めておいて差し上げますわ。それともあらん限りの暴政に、悲しみのあまり胸が張り裂けて城の窓から身を投げるメイド役がご入り用ですの?」

「ほう。悪政の代償にはそのくらいの悲劇があったほうがいいかもしれないですな」

 マリーが笑う。

「残念なことに、そんなしおらしいお役目はごめんでしてよ。どうせなら、入浴中の悪逆非道な宰相閣下の部屋に『お背中をお流ししますわ』とかなんとか言って忍び込んで、こう、隠し持ったナイフで一発………」

「民を救う天使ですか」

「どっちにせよ、あまり似合わない役柄ですわね、お互いに」

「残念なことに、そのようです」

 二人が同時に息を吐く。

「………無事に、帰ってきて頂かなければ」

「ええ」

「エルミーネ様は」

「修道院の祈りの間に隠っていらっしゃいますわ」

「修道院、か」

 城の隣に建てられた小さな修道院。美しい庭は今、薔薇園と、数多の薬草が見頃を迎えている。

「………エルミーネ様は何故、あのような冠を?」

「私も存じ上げないのです。けれど……私は色んな方にお仕えしてきましたが、エルミーネ様は特別な方、な気がするのです。どちらかというと、ハミシエ様に近いような」

「ほう、それは? 私は5歳の頃よりエルミーネ様にはお世話になっておりましてな。長く共に居すぎると、気付かないことがある」

「私も、言葉では言い表せないのですけれど………こう、いつも庭の花と語らうかのような……比喩、とか、ロマンティックな、とか、そういう感じではなくて、こう……何というか…」

 言葉を探して眉間に手を当てて呻くマリーが、

「庭にいるときは、先王様がご存命だったときのよう、といえばいいのかしら」

「人の上に立つ者特有の仕草、ですか」

 マリーがぱっと顔を上げる。

「そう、それです!! いつもはあんなに柔らかくて、のんびりしていて、お優しいのに、庭に立つと、雰囲気が少し変わるのです。やはり一国の母后様だからかしら………」

 ガエターノが、窓を開ける。

「あの冠はきっと、エルミーネ様本人のものなのでしょう」

「本人の?」

「亡きクリスティアン陛下と、エルミーネ様の間にも、何かしらの大きな秘密があったのでしょう。我々はそれを問いただしたりはしませんが、想像するのは自由です」

「そうですわね」

「想像するだけであれば、何となく答えは出ていますがね」

「それは、一介のメイドが聞いてしまってもよろしいものでしょうか、閣下?」

 ガエターノがマリーを見る。そして、

「お伽話の延長線上、想像でしかないことですがね」

 片手でマリーを招き寄せ、その耳元で、静かに囁いた。

「………ありえる、と思います」

「それは良かった」

 ガエターノがパイプに火を灯す。そして、目を細めて呟いた。

「私は凡庸な宰相ですからして、誰かをああも愛する勇気がない」

 マリーがそんなガエターノの、いつになく複雑な横顔を見て、しばらくの沈黙の後に言った。

「適当な感じのメイドでよければ、いつでもお呼びくださいな」

 ガエターノがマリーを見る。付き合いの長いこのメイドが、窓を開けて言う。

「いつでもお待ちしておりましてよ」

 くつくつといつもの笑いをこぼし、ガエターノは言った。

「ではさっそく、背中を流して貰いましょうかね」

「ナイフは御入り用でしょうか、閣下?」

 胸の内の何かが少し軽くなった気がして、ガエターノが笑う。

「マリー」

「何です」

「陛下の婚礼の準備を整えましょう。その後に、そうですな………」

「もちろんです。かしこまりましたわ。隅から隅まで、一分の隙なく、満遍なく整えて見せます。それで、どうかなさったのです?」

「私は、自分の背中を刺しに来る様な女の方が好みでしてな」

 ガエターノがマリーの開けた窓際で、煙を静かに吐く。

「陛下の婚礼が終わり次第、の話としてひとつ」

 少し独特の煙の香りがする口元を、ふたたびマリーの口元に寄せ、目を閉じると静かに、短く、何事かを囁いた。

「………あなた以外に、言える話ではないのですよ」

「心の準備を、すっかり忘れていただけです。殿方はいつだって、女に心の支度をさせてはくれない。急かしてばかり。そういう生き物だったことを、今になってやっと、思い出しました」

「ええ、そうですとも。答えは?」

「もう、わかっているくせに、ひどい人。『はい』と、だけ、言わせて………いただきますわ。ですが、今は、陛下とハミシエ様の帰還を待ちましょう。そうでしょう、閣下?」

「そういうところが、好ましいのですよ。さて、新王妃が即位するにあたって、要るものはありますか」

「部屋やドレスはもちろん、文字から作法に至るまで、全てですわ。けれど、あまり『陸の』流儀を押し付けすぎては、あのハミシエ様独特のお美しさや魅力が失われてしまいかねません。どうか、ほどほどになさってくださいましね」

「ふむ、宜しい。速やかに、良い教師を手配しましょう。……陛下は交渉は得意ではない、と言っていますが、不思議なことに『運』ならば私よりも何倍も持っている、そういう男です。だから、必ず、帰ってくる」

「不安ですか」

「まあ、多少は、不安がないといえば嘘になりますな……」

 パイプから口を離し、窓の外をただただ眺めるガエターノが、目を瞬かせる。隠しきれない不安を丸で煙にして吐き出そうとしているような、パイプに火を入れ直そうとするその所作が、どことなくいつもの様子とは異なっている。

「………宰相閣下とあろう者が、珍しいことですわね」

 マリーがそう言うと、突然ガエターノの襟元をぎゅっと掴み、言った。

「私のナイフをお貸ししますわ」

 そして、まだ煙の匂いの残る男の唇に、自分の柔らかい唇を強引に押し当てた。思わず目を見開いたガエターノを見て、満足そうににんまりと微笑む。

「パイプはおやめになったほうが、宜しいかと」

「………随分と、柔らかいナイフですな」

「お貸ししただけです。陛下達が帰ってきた暁には、きちんと返して頂きます。それでは、失礼しますわ」

 呼び止める間もなく、風のように宰相の執務室から去っていったマリーを見送って、ガエターノは息を吐き、片手で近くの椅子を引き寄せて、ただただ窓辺にそのまま腰を降ろす。

「油断ならない、とはこのことですか」

 そして、思わず目を閉じる。己の実直で生真面目だが心優しい陛下と、その妻になるべき『海の娘』。すでに共通の『庭』を持つという二人。

「………どうか、無事で」

 長年の実直な友であり唯一の主君のためにも『鋭いナイフであれ』と己に課してきたこの宰相が、窓の外を眺めて、小さく呟く。

 そして、大きく首を振って息を吐き直すと、自分にとってはおそらく唯一無二である、あの誰よりも闊達な女から貸し与えられたばかりの『柔らかいナイフ』をどうやって返すかを、今は静かに考えることにした。

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