16 出立
跳ね橋の下に、漁師の使う生け簀の付いた小舟が用意されていた。朝の太陽が昇りかけて、空と堀の水が青白く仄かに輝く。
「流石だな。一体どうやって調達してきた」
「盗んだりはしていませんよ。釣りを老後の楽しみにしたい、とあらゆる伝手を辿りましてね」
「閣下が釣りを? ここは鼻で笑うところですわ、陛下」
エルミーネの横に控えていたマリーが言う。
「でもいい考えじゃあなくって? アルバート、帰ってきたら皆で運河に釣り糸を垂らしましょう」
初めて狭い隠し通路を通ってゆっくりと降りてきたエルミーネが、ハミシエの前にやってくる。緊張して硬直するハミシエに優しく微笑んで、言った。
「マリーが言っていたとおりの、可愛い、そして優しい娘さんね。長い間、とても苦労したと聞いているわ。けれど幸せというのは、取りに行かねばやってこないもの。これがあなたの、生涯で一番大きな冒険になることでしょう」
「………はい」
「長い寿命を、水の中の自由を、捨て去る覚悟は出来ていますか」
「はい。エルミーネ様。この命は既に、ご子息、陛下のもの。何が、何があってもです」
緊張で声を詰まらせるハミシエを優しく抱き寄せて、エルミーネが微笑む。
「帰ってきたら、『お母様』と読んでちょうだいね。待っているわ」
アルバートがそんなハミシエを静かに抱き上げて、水を張った船内の生け簀の中へ降ろす。そしてガエターノに言った。
「私はそなたほどに交渉は得意ではないが、必ず成してこよう」
「交渉のコツなんてただひとつです。『全取り』を目指せば良いだけの話。相手がどんな大きい存在でも決して怯んではなりません。堂々と、言いたいことは言う。ただそれだけのこと」
「幸せの全取り、ハミシエ様のためにも頑張っていただかなければなりませんわ」
そしてマリーとガエターノが深々と頭を下げる。
「では、ご武運を、我が陛下」
そして小舟の上から、エルミーネが手にしている王冠に、緑の目を細めて静かに語りかけた。
「………行きて帰りし我が王冠よ。ベルンシュタットの秘宝よ。海の王の住まう場所まで、余と妃ハミシエを乗せた船を導き給え」
王冠の宝石が、その言葉に呼応するように輝く。小舟がゆらりと水面に揺れて、王冠の輝きに包まれる。
亡き父からの遺言であるという、この王冠の『使い道』。アルバートの手の中には小さな小さな『妖精の冠』が収められた木箱が握られている。
この小さな国家ベルンシュタットの亡き先王とその妃、すなわち自分の父と母の間にも、もしかしたら何かしらの『冒険』が、そして秘密の多い『庭』が存在したのかも知れない。
次の瞬間、王冠の光が小舟を包み込む。思わずアルバートが目を閉じた。次の瞬間、
「まあ、バート、ここは………海だわ……」
ハミシエが驚きの声を上げる。
目を開くとそこは、全方位どこを見ても陸地の見当たらない、水平線が朝日を浴びて海面が美しく輝く真っ青な世界だった。




