09 叶わぬ夢
それから数週間。二人の間の一輪挿しの薔薇は、アルバートが持ち寄る度に、種類を変え、色を変え、一度も途切れることなく咲き続けていた。
美しく、気取りもなく、好奇心旺盛で、寂しげなところもある女。あっという間にこの自分を虜にした、ハミシエという名の黒い鱗の人魚。
美しい森での冒険の物語の本を手に、アルバートは静かに城の跳ね橋の下に通い続け、政務の合間を縫っては幾日も、幾日もそんな女に寄り添って本を読む。
『………数多の子分を引き連れて、森の木立をティラリラと……』
「ティラリラ?」
「歌のことだ。………そういえばそなたは歌えるのか」
「きっと王宮の姉姫様達なら素敵な声で歌えるけれど、私は歌ったことがないの。王宮には200年の間、一度も呼ばれたことがなくて」
「姫君だというのに王宮に行ったことがない、と?」
「………」
「理解しがたい。私はそなたほどに美しい女性を知らないが、そなたほどに美しい女性が王宮にすら呼ばれないとは、海の王宮とは一体どうなっているのだ。記入漏れでもあるのか。やはり、紙がないのは不便だ。届けてやりたい気分にすらなる」
ハミシエが目を丸くする。
「記入漏れ?」
「私は海の俗説など知らぬ。ゆえにそなたが不吉とは思わない。その美しさで王宮からの招待状がこないのならば、それは海の王宮とやらにもいるのであろう書記官の記入に漏れがある、としか考えられぬ。何たる怠慢だ」
「バートったら。……あなたは本当に面白くて、なんだかとても素敵だわ」
生まれてからこの方、『面白い』という形容詞で呼ばれたことのない四角四面な男が目を丸くする。
「私は、ありのままの意見を述べたまでだ」
「あなたが、海の王宮の人だったら」
「私は司書ゆえに、海では生きていけぬ。本が、ないからな」
本当はもっと『大きな理由』があるのだが、アルバートは己の『正体』を、どうしても言い出せずにいた。
「ふふ、そうね。でも、あなたみたいな人ともっと早く出会えていたら、私きっと、孤独じゃなかった」
「私とてそうだ。宰し………いや同僚には、堅苦しい、だの四角四面、だのと言われっぱなしでな」
胸元のポケットには、常にうっすらと優しく輝く真珠が小さな袋に入れられて大切に納められている。
「歌って、どうやったら歌えるのかしら。昔乳母に聞いたわ。私達人魚は、歌うべき時が来たら歌えるようになる、って言っていたの。人間は、どうなの?」
「人間は、嬉しいときも悲しいときも、歌と共に在る生き物である」
「あなたも歌えるの?」
「残念なことに、私のようにさっぱり歌えない男もいるのだがな……」
「ふふ、残念。私、あなたの歌声も聞いてみたかったわ」
「そなたが歌を覚えたほうが、誰の耳にも心地よいものになるだろう」
「嬉しいわ。もしもいつか歌を覚えたら、私、真っ先に聴かせに行くわ。あなたにだけ聴いて欲しいもの」
肩を寄せるハミシエの、黒く少し濡れた美しい髪が肩に掛かる。本の頁を濡らしてしまわないようにそっと閉じてから、アルバートはやはりまだ少し不慣れな仕草で、そんなハミシエの肩を抱き寄せる。
「嬉しいわ。ここには、私のことをこんなにも気にかけてくれる、素敵な人がいる。私、一人で生きて、一人で泡になって消えていくさだめだと思っていたの」
「………人魚というのは、そのように寂しく一生を終えていく生き物なのか」
「ええ、そうよ。暗い海底に、たったひとり、泡になって吸い込まれていく。けれど、最近は違うわ。………緑の木立と、薔薇園のある庭で、あなたと歩むの。私には足があって……ええ、そう、ティラリラと歌うのもいいかもしれないわ。きっと叶わない夢ね。でも、何も夢を見ないよりは、ずっと幸せなことなの」




