「老舗商業ギルド夜逃げ事件」
騎士団副団長のレイムンドが商業ギルドの建物に到着したとき、朝もやはまだ晴れきっていなかった。
「まさか本当に…」
重厚な扉を開けると、そこには文字通り空っぽの建物が待っていた。机、椅子、書類棚、受付カウンター——日々冒険者たちで賑わっていたはずの空間から、人の気配が完全に消え去っていた。
「団長殿、地下の保管庫も確認しました」
若い騎士が階段から上がってきて報告する。
「完全に空です。素材の保管箱も報酬用の金貨も、跡形もありません」
レイムンドは眉をひそめた。王都最大の商業ギルドが、一夜にして消えるなどありえない。これは明らかに計画的な「夜逃げ」だった。
◇
「どうやら、新ギルドマスターになってから様子がおかしくなっていたようです」
情報収集を命じられた諜報部のアイリスが、三日後に報告書を提出した。
「まず、冒険者たちへの報酬が徐々に減額されていった形跡があります。表向きのランクはそのままに、実際の支払い額を下げていったんです」
レイムンドは報告書に目を通しながら頷く。
「他にも、買取素材の価格を意図的に安く設定し、その差額を着服していた可能性が高い。さらに言えば、危険度の高いクエストを低ランクと偽って登録し、安い報酬で冒険者を派遣していたことも…」
「つまり、組織的な搾取か」
「はい。でも、これが全てではありません」
アイリスは声を潜めた。
「闇ギルドとの取引の痕跡も見つかりました」
レイムンドは顔を上げた。
「闇ギルドだと?」
「はい。どうやら、この夜逃げ自体も闇ギルドの手引きがあったようです。彼らのノウハウなしには、これほどの規模の『夜逃げ』は難しかったはず」
「では、行方不明になっている職員たちは?」
「それが最も気がかりな点です」
アイリスは一枚の紙を取り出した。
「職員の多くは、実は強制的に闇ギルドに編入させられた可能性が高い。つまり、この夜逃げは、表の商業ギルドを闇に引きずり込む計画の一環だったのかもしれません」
レイムンドは立ち上がり、窓の外を見た。王都の街並みは普段と変わらない賑わいを見せている。しかし、その地下では既に、新たな暗部が産声を上げようとしていた。
「アイリス、この件は極秘扱いだ。他の商業ギルドにも影響が及びかねない」
「承知しました」
「それと…」
レイムンドは振り返り、冷たい視線を投げかけた。
「元ギルドマスターの息子を探し出せ。代替わりの真相を知っているはずだ」
華やかな商業ギルドの看板の裏で進行していた腐敗。その真相は、王都の地下深くに潜んでいた。
◇
薄汚れた酒場の片隅で、レイムンドは一人の男を見つけた。かつては上質な服を身につけていただろう男は、今や皺だらけの安物の服に身を包み、グラスを傾けていた。
「ヴェイン・ローゼンブルグ。元ギルドマスターの息子だな」
男はゆっくりと顔を上げた。その目は虚ろで、酒に溺れた者特有の赤みを帯びていた。
「ふん、とうとう見つけましたか…騎士団の方々が」
ヴェインは苦い笑みを浮かべ、新たなグラスに酒を注ぎ始めた。
「話をしよう。ギルドで何があった?」
「何があったって?」
ヴェインは嘲るように笑った。
「父は殺されたんですよ。あの闇ギルドに」
レイムンドは身を乗り出した。
「何だと?」
「父は…清廉潔白すぎた。闇ギルドの取引を断り続けて、『共存共栄』を拒否した。だから…」
ヴェインはグラスを一気に空けた。
「ある日、父は『事故』で死んだことになった。新ギルドマスターは闇ギルドが送り込んだ傀儡。私は…」
彼は震える手で顔を覆った。
「私は黙っていた。脅されたんじゃない。ただ、怖かった。父のように…消されるのが」
「そして今回の夜逃げは?」
「あれは『完了』の合図です。表の商業ギルドとしての役目は終わった。稼げるだけ稼げたということです」
レイムンドは立ち上がった。事態は予想以上に深刻だった。
「最後に一つ」
レイムンドは振り返った。
「なぜ今、話す気になった?」
ヴェインは虚空を見つめながら、かすかに微笑んだ。
「贖罪ですよ。父への、そして騙し続けた冒険者たちへの」
彼は再びグラスを満たした。その手の震えは、もう止まっていなかった。
華やかな商業ギルドの看板の裏で進行していた腐敗。その真相は、一人の男の後悔と共に、酒の中に溶けていった。




