ぶちこんで蜃気楼
小便がなかなか出なくて苛々していた。便座に座り込んで途方に暮れていた。
人生100年時代だと。ふざけたことを。100年のうちのどれくらいの時間を惰性で過ごさなければならないと思っていやがるんだ。若さってのはそれだけで宝だよ。加速が違う。反応が違う。威力が違う。桁が違うんだ。
でもある日突然気づく。若さがどこか遠くへ逃げ出していっちまったことを。そこが残酷なところなんだ。徐々にじわじわとすり減っていくっていう性質のものなら話はわかる。心構えができる。準備ができるし、プランだって練ることができる。ある日突然なんだ。その日は唐突に訪れるんだ。その日以降は老いぼれとして生きていかなきゃならなくなっちまうんだ。速度を落として生きなければならない。事故ったら潰れちまうし、上げようたって馬力がないんだから。誤魔化し誤魔化しでやっていかなければならない。それでも記憶は残っているんだ。かっ飛んでいく感触も。快感もな。
小便だってなかなか出なくなっちまうんだ。やれやれ! なんというまどろっこしさ! ここまでのろまな生き物がかつて存在しただろうか? ほら、がんばれがんばれ。ぐずぐずするんじゃない。小便ごときでこんなに時間をかけて、いったいどういうつもりだ。やりたいことは山ほどあるんだから。とにかくなにかを書いて……満足してみたい。納得はする。まあこんなもんだろうと。納得しないこともままある。こんなもんではないはずだろうと。でも満足はいっぺんもしたことがない。このさきの一生がどのくらい続くのかわからないけれど、糞詰まりみたいな気分で生きていかなければいけないのだろうか。こうやってぶつくさぼやき続けるんだろうか。それはそれでひとつの生き方だ。ライフスタイルだ。ライフスタイルとか言うと急におっさんおばさん向けのファッション雑誌っぽくなるな。手作りのガレージとか。プランターで育てる各種ハーブとか。20代で買ってからメンテだリペアだとやって今も履いてるワークブーツとか。うーん。おばさんのいけ好かないライフスタイルってどんな感じなんだ。別にプランターでハーブ育てたってそこまで嫌みではないよな。かと言ってね。自分へのご褒美でバーキン買ったとかって言うのはライフスタイルって感じがしないし。そりゃただの買い物だ。嫌みではあるけどな。自分へのご褒美って言い方がまず気に入らないね。欲しかったから買っちゃいましたでいいじゃないね。あとはヨーロッパのアンティークショップでひと目惚れしちゃうやつな。いちいち惚れたの腫れたの大袈裟なんだよ。ああもう、ちくしょう! なんだって小便が出ないんだ!
尿意はある。はっきりと存在をアピールしている。小便なんて意識しなくても出てくるものじゃないのか。せっかくトイレまで来てやったんだから、さっさと済ませろよ!
行動範囲の狭さ。そいつが致命的だ。これだけ暇があるのに、どこにも出掛けやしない。行きたいところがないんだよ。どこにも行きたくないわけではないんだ。興味のある場所がないんだよ。アカシアの雨が止むとき、そのままそこで死んでしまえたらいいな、うすらぼんやりとそう思うくらいでさ。諦念、だな。もう観念してるのよ。観念を理解することを観念していると、まあそういうわけなのよ。文章だってもうぶち抜けていかないでしょう。打ち破れないのよ。現実とか常識とかそういうただの言葉から逃れられないわけ。いいんだよ、もう。自由におやりなさい。繋がりとかそういうの気にしないでいいから。全然気にしないでいいから。本当もう気にせんとって。そう伝えてはあるんだけどね。やっこさん、一向にトイレから出て来やしない。まさかこのままトイレの中で全てを終わらせる気ではあるまいな。でもトイレから出たって、どうせソファに座るんでしょう。そこからまた一歩も動かないつもりでしょう。そこに違いはあるのかな。便座に座っているのと、ソファに座っている違いって、ズボンをパンツごと膝下までずり下ろしているかどうかだけでしょう。そこに違いはあるのかな。パンツを膝下までずり下ろしているか、ちゃんとパンツを装着しているかで、なにかが決定的に変わったりするのかな。だからうちゆうたやん。ほんま気にせんでええからねーって。繋がりとか整合性とか、なーんも気にせんで、好きにしぃって。そうしたらトイレに籠もっちゃった。
どうせ連中、好き勝手なことを言ってやがるに違いないんだ。出るさ! 小便さえ出てくれれば、今すぐに出てやるさ! 小便さえ出てくれれば。今はそれだけが望みなんだ。もちろん諦めるって選択肢もあるだろうさ。そこらのやつならとっくにそうしてるに違いないさ。でもそれは流儀じゃない。ズボンをパンツごと膝下までずり下げてしまったんだ。そこまでしちまったんだ。なにもなしで立ち上がるなんてこと出来るわけがない。もう後戻りはできないんだよ。いくら老いぼれたって、若さを取り戻そうなんて思いやしない。エリザベート・バートリじゃあるまいし。うるさいよ。こんなもん衒学的でもないし気取ってもいないんだよ。常識なの。根暗少年の常識なんだよ。アイアンメイデンとか好きだろう。ヘヴィメタの方じゃないよ。鉄の処女だよ。血がブシュウウウの方だよ。サディストどもめ。そうだよ。ウに点々は気取ってるよ。バギナよりヴァギナの方がいいだろうが。字面として見栄えがいいだろうが。少しくらい気取ったっていいじゃないか。それすらも許されなくなっちまったってのか。もうなにが許されて、なにが許されないのか、さっぱりわからないのよ。だから勝手にすることにした。いちいちこの表現は誰かが傷つくかも……なんて考えていたらなにも書けないよ。とりあえず、書いてみせ、出してみせ、それがダメなら謝ってみせ、でいいと思うのよ。極端な話、死とか自殺って書いてあるだけで、心が疼く状態にある人だっているわけじゃないですか。そんなのいちいち……って思うじゃん? でもやっぱり気にしてしまうのよ。一瞬考えるもの。こんなに安易に自殺を想起させるようなことを書いていいのだろうか、とかね。例えば親しい人もしくは本人の死期が近い人が読んでいるかもしれないのに、死について簡単に書いていいのだろうか、なんてさ。本当は、簡単に安易に書いているわけでもないんだけど、それでも考えるよね。でもやっぱり気にしちゃいられないんだ。気にするくらいなら書かなければいい。本当に、それが一番いいんだから。だってなんで書くの? 書きたいから書くの? なにを書くの? わからないけど書くの? なにを書いているのかわからないけど書くの? 書いてどうするの? また書くの? どうしてまた書くの? いつまで書くの? 書いて誰が喜ぶの? 喜ばせるためではないの? じゃあなんのために書くの? 楽しいの? 楽しくないの? 楽しくないのに書くの? 辛い思いをして書くの? 望まれてもいないのに辛い思いをして書くの? ちょっとよくわからないなあ。頭、大丈夫?
ちょろっと出た。数滴、ちょろっと。で、また引っ込んだ。
これでもう小便をしたってことにしてもいいのではないだろうかと思うのだけどそれについてはどう考えているのよ。駄目だ。ぜんぜん駄目なんだ。尿意がまだ、このあたりに居座っている。座り込みしてやがる。でも座り込みって辞書で調べると、そういう意味ではないんですよね。だからあなたたちのやっていることは座り込みとは言えないのではないですか。黙れ。練馬育ちパリ暮らしのクソ野郎は黙って大根でも食ってろ。シャンゼリゼ通りで大根踊りでも踊ってろ。人の痛みが理解できないサイコ野郎はケツの穴に大根ぶっ刺してみそ田楽でも作って光が丘公園でそれを食いながら花見でもしてればいいんだよ。ドュノワライミーン? いまふと思ったけど、高市早苗ってアシュラ男爵の白い方みたいだね。それかベラ。ショートカットのベラ。はやく人間になれよ。飲みーのやりーのやってる場合じゃないだろう。はやく人間になれよ。安倍晋三復活の時は近いぞ。はやく人間になれよ。国葬までやっちまったのに今更復活されても困るって、永田町界隈では囁かれているらしいね。神の国が聞いて呆れるよ。シンゾ―・アベのガラスの心臓が再び動き出そうというこの大事な時に、スナイパー小屋で芋ってるスナイパーたちはなにをやってやがるんだよ。撃てよ。撃ち抜けよ。陰謀渦巻く帝都東京の魑魅魍魎を一網打尽にする千載一遇の好機到来だろうがよ。気分はもう帝都大戦なんだよ。3分以内に魔人加藤呼んでこい、加藤を。はやく。ダーッシュ! 1秒でも遅れたら雑巾牛乳の刑だからなこの野郎。まったく使えねえなあの野郎は。命令される前にいち早く動くのが真の式神だろうが。陰陽道の風上にも置けねえよ。
検査の結果、身体に異常は見つからなかったぞ。このまま一生、小便が出ないまま、尿意を抱えて生きる。それだって立派な生き方だ。なにも小便を出すことに固執することはないじゃないか。もういいだろう。大人しくパンツを履いて、トイレから出てきなさい。これ以上、罪を重ねるな。田舎の加藤さんも悲しんでいるぞ。繰り返す。これ以上、罪を重ねるな。大人しくパンツを履いて、トイレから出てきなさい。すでに警備部隊は、建物の中に入っている。すぐにパンツを履いて、トイレから外に出てきなさい。抵抗をやめて、すぐにトイレから外に出てきなさい。田舎の加藤さんも悲しんでいるぞ。すでに警備部隊は、建物の中に入っている。すぐにパンツを履いて、トイレから外に出てきなさい……
不思議なことに、心は落ち着いていた。心臓はなお早く打ち、手は震え息荒く、汗がひっきりなしに流れ出していたものの、心は落ち着いていて凪だった。加藤様、式神様、芋の煮っ転がし、美味しうございました。甘辛い豚肉とタマネギの炒めもの、美味しうございました。正月の栗きんとん、美味しうございました。グレープフルーツ、美味しうございました。参鶏湯、美味しうございました。暗殺者のパスタ、美味しうございました。クロックムッシュ、美味しうございました。鶏レバーのテリーヌ、美味しうございました。スズキのポワレ、美味しうございました。すっかりお腹が減ってしまい、もう逃げられそうにありません。野良犬の声がする。飼い犬かもしれない。そういえば最近は夜に犬の鳴き声を聞くことがすっかりなくなった。警備部隊の足音が聞こえる。遅かれ早かれってやつだろう。ここが観念のしどころか。予科練の歌。人を撃った後にはいつもこいつを口笛で吹いていた。なぜかはわからない。そして今も。震えてかすれる予科練の歌が、自然と口をつくのだった。銃口を口に咥え、撃鉄を起こした。カチリ。これがこの世で聞く最後の音か。目を瞑った。涙が溢れる。人生って一体なんだ。極道ってなんだ。任侠ってなんだったんだ。まあいい。もう関係のないことだ。心残りがあるとすれば、一目でいいからもう一度、あいつの顔が見たかった。あばよ、いってくるぜ。……そして、思い切って、引き金を絞った――
殺人鬼と謳われた男の葬儀が執り行われていた。誰にも迷惑をかけずに自ら逝った男を、親分衆は口々に、真の極道だと笑顔で褒め称える。その輪から外れ、加藤は苦々しげに紫煙をくゆらす。なにが真の極道じゃ、くそバカタレが。おえんのう。こういうんが、一番おえん。……見ちょれよ、いつかワレの仇はとったるけえのう。
加藤は遺影に向かって強くそう誓うのだった。