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9.かつて悪い大人を憎んだ子供

「誠っちゃん……もしかして」


 白っぽくも殺風景な部屋の隅に追いやられているマットレスベッドは、本日部屋の真ん中で主役になっている。

 そこへ寝転がっているのは部屋の主ではなく、色白で細身なのに柔らかそうな肢体が魅力的なモデルさん……だと思っていたら、弓月さんにグラビアアイドル、略してグラドルと教えられた。


「とうとう、みっちゃんに手ェ出した? 最低……」


 パシャとカメラが立てる音に合わせて浮かべる、気まぐれなのに人懐っこい子猫のようなにっこり魅惑的な表情と、言葉が一致していない。

 おそらくこの方は……弓月さんとのっぴきならない関係にあるかあったのか、とにかくそんな方だ。

 弓月さんは答えずに、撮影を続けているけれど心なし連写されるシャッター音が荒々しい。

 全力否定しているかの如く。

 

「人のことより、技巧ばっか上手くなって撮り甲斐なくなってきてんだけどねー……若葉」

「はあ!? 誠っちゃんにだけは言われたくないんだけどっ!」


 モデルさん……じゃなくて、グラビアアイドルだという彼女は若葉さんという。

 このスタジオ兼事務所兼住居のマンションの常連さんだ。

 私が試験明けにアルバイトに来た日に、ここで弓月さんを巡って諍いを起こしたスーツのマネージャー女性、若葉さんがアリちゃんと呼ぶ、有坂さんと二人一緒に。

 弓月さんを巡って揉めていたわりには、このお二人は姉妹のように仲が良い。

 彼曰く、「あの二人は人を挟んでじゃれてるだけだから気にしなくていーよ」とのことだった。

 

「……ないですから」


 弓月さんの代わりに、私は有坂さんに答える。


「ちょっと喧嘩というか……気まずくなったというだけです……」

「光輝ちゃん、やっぱり他のバイト紹介してあげようか?」

「大丈夫です。一応、和解しました。お茶どうぞ……黒豆茶です」


 応接のソファに座って、撮影を見守っている有坂さんのお茶を最初に出した麦茶と入れ替える。

 部屋の隅に折りたたみのテーブルと椅子を出してヘアメイクさんも待機しているけれど、そちらにはペットボトルのお水を出していた。

 キッチンへと引き篭もって、撮影小道具だったという古くなった小さな折りたたみ椅子をもらったのに腰掛けて、調理台に開いていた弓月さんの仕事用ノートパソコンで事務仕事の続きをする。


 まあ、指にキスされたというか、指を舐められたというか。

 そう言えばそうなるかもだけれど。

 弓月さんとしては、ただ溶けかけたアイスを食べたというだけ。

 人のアイスに無断に口つけるのは、どうかと思うけれど。

 あまりそういうの意識しなさそうな人だしなあ……と、キッチンから撮影場所を眺める。


「誠っちゃん……撮って」


 さっきまでとは全然違う、若葉さんの甘い声が聞こえてなんだかどきどきしてしまう。

 大抵キャミソールだとか、水着とかだけど、今日の衣装の露出は高くない。

 オーバーサイズな白シャツに、淡い黄色のハーフパンツ。光の加減で白シャツしか羽織っていないように時折見えてなんだかはらはらしてしまうけれど。

 

「最初からちゃんと仕事しようねー、本当っ……」


 これ以上なくチャラい調子で呟く弓月さんだけど、近づいて真上から彼女を見ている眼差しは鋭く、口元は楽しそうだ。撮る相手としてお気に入りなんだろうなと思う。


「若葉」


 いえ、わからないけれど。

 違う意味でのお気に入りなのかもしれないけれど。


「……」

 

 中谷さんから説明を受け、溶けたアイスを食べられついでになことがあって、ここ二、三日なんとなくぎこちなくなってしまっていたものの――なにしろ弓月さんは来る者拒まずな人で、ここは四ヶ月の内に五回も修羅場っぽい場面に遭遇するような職場ではあるため……一人だけ意識して挙動不審になっているのも馬鹿馬鹿しく思えてしまう。

 ちなみに弓月さんは、私がアイスを齧られたのを根に持っていると思っているらしい。

 昨日、“ガジゴジくん梨味”を五本、お供えもののように捧げられ拝まれた。

 まだ手づかずで冷凍庫の中だから、あとで配ってもいいかもしれない。


「はい、終わり」

「あいかわらず、早っ」


 普通は一つの衣装で撮るのに一時間はかかるのだそうだ。

 撮り始めてまだ40分も経っていない、弓月さんの撮影はものすごく早いことで有名らしい。

 それでも外れがないとあって指名が入るのだとか。


「今日衣装こんだけだから楽だわー」

「撮られてなんぼな仕事で、売れっ子はいうことが違うねー」

「最近こうゆーのだけじゃなくなってきてるし……薄給じゃなくなってきてありがたいけど」

「なに拗ねてんの」

「拗ねてないし、着替えてくるっ」

 

 若葉さんは最近ではTVのお仕事なども入ってきているそうで、弓月さんや有坂さんの話ではいくらでも若い女の子が出てくる業界で二十二歳になっても現役。消えずに次の仕事の段階へ移るのはほんの一握りで結構すごいことらしい。


「あ、アリちゃん! そこのエロカメラマンからちゃんとデータもらっといてね!」


 若葉さんはそう言って、バスルームへ入っていった。

 勝手知ったる他人の家といった感じだ。


「自分の家かって……まったく。まー若葉とは付き合い長いから仕方ないけど」


 弓月さんの予定を整理していたら、背後からぬっと影がかかって上から降ってきた低い声にびっくりする。

 ちょっと貸してと、人の肩越しに腕を伸ばしてカメラから抜き取って持ってきたらしい画像データの入っているカードを弓月さんは挿すと、驚くほどたくさんの画像が並んだ中から半分くらいの画像を選んでコピーした。


「そうなんですか?」

「僕がサラリーマン辞めるちょっと前だからかれこれ六年くらい? かつての奥さん二人とも知ってるし」

「そうなんですか。なんていうかそれは弓月さんも押され気味になりますね」

「本当それ。光輝ちゃん、これ、有坂さんに送ってあげて」

「はい……あの、弓月さん?」

「ん?」


 仕事を指示してキッチンから出ていくのかと思ったら、調理台に腕を伸ばしたまま私の後ろから離れない。

 操作するのに少し邪魔で……距離が、近い。まるで後ろから腕を回されているように。 


「やっぱ、手ぇ出してんじゃないの? 未成年は対象外とか言っといて」

 

 ひょこっとキッチンカウンターから顔を出した若葉さんにじっと睨まれて弓月さんは、はーと鬱陶し気にため息をついた。


「何度も言うけど未成年は対象外。これは……腰、やられた」

「は?」

「え?」

「昨日、ソファで寝落ちちゃって。捻ったっていうか……ごめん、しばらくこの姿勢キープさせて」

「……みっちゃん、こっちおいで。あたしこの後オフだしお茶でもしよ」

「人の家、人の仕事場で勝手に寛がないでくれる?」

「誠っちゃんのことだから、次来るにしたってどうせまだ時間空けてんでしょ」

「あ、アイスがありますよ。“ガジゴジくん梨味”ですけど」

「あーあたしそれ好きー、アリちゃん達も食べるでしょ?」


 失礼しますと、弓月さんの胴体の下を潜って抜け出すと私は冷蔵庫を開けて冷やしてある水のペットボトルと、それから冷凍庫からビニール袋に入れたまま冷やしてあるアイスを出してキッチンを出る。


「光輝ちゃん、僕は?」

「弓月さんからいただいたものでしたけど」

「まだ根に持ってんの。ごめん……もう人のアイスを黙って齧らないからっ」


 私の中でも、そういうことにしておきます。

 

「喧嘩してたんですって」

「あーなる。誠っちゃん写真以外は適当だもんねー。なんかよそよそしーって思ったから、てっきり誠っちゃんが鬼畜んなったのかと思った」

「……純真なJKを前に、風評被害広げないでくれる?」


 風評被害ではないと思うと心の中で呟きながら、ソファに集まった女性達にアイスを配り、若葉さんに水のペットボトルを渡す。

 長椅子に若葉さんと有坂さん、二つある一人がけの内ひとつにヘアメイクさんが座っていた。


「みっちゃんも座ったら?」

「あ、はい」


 アイスの袋を開けながら私を気遣ってくれた若葉さんに、でもちょっとと断って、まだ二本アイスが残っている袋を持ってキッチンカウンターへ近づく。

 本当に腰を痛めてるのか項垂れて、調理台についた手の反対側の手で腰の後ろをさすっている弓月さんに声をかけた。


「ん?」

「ふ、袋開けたら取れます?」

「取れる取れるっ」


 四十の男の人が、そんなうれしそうな顔しないで欲しい。

 なんかずるい。

 

「あげるの?」

「はい」


 ぺたぺたと裸足の足音がして、こちらにやってきた若葉さんに答える。


「なんだか可哀想ですから」

「あーそうだね。JKに哀れまれる四十男ってどうなのだけど。マジ天使だわ、この子」


 袋を開けたら取れると言っていたけれど、動きづらそうではあるので取り出した棒アイスを差し出せば、ありがととアイスの頭を咥えてから、弓月さんは手に持ち直した。


「なんか獣に餌あげてるっぽい感じだけど……そーいえば前々から聞きたかったんだよねー、誠っちゃんに」

「なに?」

「未成年対象外っていうけど二十歳の時は振られたし、誠っちゃんの対象外ってどーゆー基準なの?」

「そうなんですか?」


 ちょっと意外で自分のアイスを袋から取り出しながら若葉さんに尋ねれば、うんと彼女は頷いた

 少なくとも女子高生()は対象外なのはわかっているけれど、それはちょっと聞きたい。


「本当っ、女の子ってそーゆー話好きだよねー。光輝ちゃんまで食いつくんだ、そこ」

「く……来る者拒まずなのに、意外に思えて……」

「誠っちゃん……純真なJKの評価、地に落ちてない?」 


 両肩から腕を回して抱きついてきた若葉さんに、わっわーと内心どきどきする。

 アイドルという名のつくお仕事な方だけに、若葉さんはハーフアップにまとめた長い黒髪も色白なお肌もつやつやでお顔も小さくて綺麗で可愛い。

 見た目通りにふわふわしていて、なんだかほんのりといい香りもする。

 私と五つ違いの女性なのに頬が熱くなってくる。


「あ、あの……私のアイスが髪とかついちゃいけませんので……」

「どーしよ、みっちゃん本当かわいーんだけど。持ち帰っていい?」


 こんな女性に迫られたら男の人はやっぱり参ってしまうだろうなと思いながら、シャクっとアイスを齧った。

 若葉さんは、二十歳の時()って言った。


「駄目。若葉さー、うちの大事な女の子を誘惑しないでくれる?」


 というかこれは、一体どういう状況なのでしょうか。

 このお二人って、いえ後ろにいる有坂さんもだけど、たしかに私の目の前で揉めていましたよね?

  

 ――誠っちゃんとはビジネス以外ないから。アリちゃん入れ込みそうで止めて、もう切れたし。


 ぼそっと耳打ちされて、えっと若葉さんの顔を見ればにっと彼女は口元だけ吊り上げてアイスを咥えた。

 私も溶けないうちにアイスを食べる。

 若葉さんには抱きつかれたままだ。


「でぇ、まこっちゃんのぉ……たいひょうふぁいのきふんへなに……」

「アイス咥えて上目に問いただすの止めない? 光輝ちゃんの教育によくないから」

「私の教育?」

「えーと、お行儀悪いってこと」

「はあ」


 まあたしかにお行儀はよろしくない。

 こうして立ち食いしているのもそもそもではあるけれど、若葉さんはなにかにやにやと弓月さんを見つめている。

 なにか見覚えがあると思ったら、『不思議の国のアリス』に出てくるチェシャ猫ぽい。

 一方、弓月さんはアイスを食べながら、面倒くさいとでも思っているような顔をしていた。

 あまり踏み込もうとするとすっと冷たくなる時があるからひやひやするけれど、そこまでには至っていないらしい。


「……まずJKもJDも学生は論外」

「あたし自活してたけど?」

「酒とかタバコとか、あと契約の後始末とか保護者なしで出来ないうちは駄目でしょ、世の中そーゆーの食いものにしたり好きに扱っていいと思ってる、悪い大人いっぱいいるしねー」

「あ、自分がそっち側って自覚あんのね……誠っちゃん」

「まーね。それに僕もかつては悪い大人を憎んだ子供だったし。でもって、来る者拒まずだけど妻帯中は話は違うでしょ、以上! 食ったらさっさと出て」


 ――奥さんか……やっぱまともじゃん。


 シャクっと、耳元で小さく呟いた若葉さんがアイスを齧る音がして、するりと肩から私の前に回っていた腕が外れた。

 ペタペタと裸足の足音がソファへと戻っていく。

 

「ま、みっちゃんの前だしね。危なっ、うっかりだまされそうになるやつだったわ。食べた? 帰ろっか。みっちゃんごちそーさまー」


 それぞれ食べ終えたアイスの棒は袋の中に入れて、若葉さん達はマンションの部屋を出ていった。

 皆さん帰ってしまうと急にしんと室内が静かになる。

 私もアイスを食べ終えてテーブルの上のものをひとまとめにし、トレーを取りにキッチンへ戻る。

 弓月さんはまだ同じ態勢でいた。アイスの棒がシンクの三角コーナーに突き刺さっている。


「ジョブチェンしかかってて情緒不安定なのかね……っとに」

「大丈夫ですか、腰?」

「あーうん。じっとしてたらまあ落ち着いてきた、かな?」


 そろそろと用心深い動きで弓月さんは背筋を伸ばした。

 足腰は仕事で鍛えられてるはずなのになーとぼやく。


「お年ですね」

「地味に傷つくからそういうこと言わない。今日のご飯なに?」

「中華にしようかなと。白葱と肉団子の中華スープに青椒肉絲と茄子の花椒炒めとかサラダもつけましょうか?」

「毎日、よくそういうの思いつくよねー光輝ちゃん」

「弓月さん好き嫌いなくよく食べてくれるし、私の気分で作っちゃってますから」

 

 トレーを片手に持って、キッチンから出ようと方向を変えたら、後ろからトレーを引っ張る力が働いて振り返る。

 トレーの、私の手が掴んでいる反対側を、弓月さんの少しごつごつした無骨な手が掴んで持ち上げていた。 


「弓月さん?」

「これ持つから、あっちに連れてってくれないかな。まだちょっと、微妙というか危うさがあるというか……」

「はあ、いいですけど」


 片腕を回されるけれど、あまり重みはかからなかった。

 あまりというのも間違いだ、腕だけ回されて普通に歩いている。


「歩けてますよね?」

「微妙だから、保険? 万一の」


 いざという時に寄りかかれられる杖代わりではあるらしい。

 ソファに着いたらいつものように弓月さんは横になった。

 まあでも彼女達はこーゆーのは触んないから行儀いいよと、ガラステーブルの隅っこに置いてあったコンパクトカメラを手に取る。


「機材どうしますか?」

「あとで片付ける。あとはもー作業だけだし、置いといて」

「はい」


 テーブルの上のものを片付けている間に数度、シャッター音が聞こえて顔を上げれば床に屈んでいる私より少し低い位置で弓月さんがカメラを構えていた。


「懲りませんね」

「懲りないねえ」

「あ、有坂さんにメール」

「自分で送った」


 レンズ越しならわかるという人には、いまの私のそれこそ微妙な心持ちもわかるのだろうか。

 トレーに集めたものを片付けようと立ち上がるより先に、それを阻むようにブラウスの背中の布地を摘んでいる指は撮るためなのだと、頭の中で言い聞かせていることも。

 

「もう少し撮らせて」

「かつては悪い大人を憎んだ子供だったのでは……」

「そうだったかもしれない」


 悪い大人だ。

 レンズ越しに私を覗いているけれど、シャッター音は聞こえてこない。


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