7.蝉の声と静けさと
“人生は選択の連続”などと人はいうけれど……朝起きるか起きないか、なにを着てなにを食べ、今日一日なにをするか、などなど。
人は日々、様々な選択を行いながら生きていて……時に、他者からも選択を迫られる。
「あの、弓月さん……これは一体、どういったことでしょうか……?」
「正しく大人の対応するって言ったでしょう?」
証人欄に父の名が書かれた書類を突きつけられている。
いまの私のように――。
「お父さんからお許しももらったし、大人としてちゃんと責任とるから。あとはここに光輝ちゃんが名前を書いてくれればいいだけだよ」
「こんな紙一枚で、人生決めたくありません」
「紙一枚大事。これあるかないかで大人の世界は全然違うんだから。本当、紙ペラ一枚で怖いよね……」
急に、目から光を失って遠くどこかを眺めるような表情をした人は、かつて二度結婚に失敗している。
詳しく聞かずとも、撮影スタジオ兼事務所兼住居なこのマンションの一室にアルバイトのアシスタントとして出入りして五ヶ月にもなると、なんとなく聞こうとしなくても大変だったらしいとうっすら知り得てしまうもので。
いやもうあれよ、本気の修羅場とか命の危機を感じるよね……軽く……などと。
ぶつぶつと不穏なことを呟いていることについては、触れずにいようと思う。
そんな私の雇用主、フリーカメラマン・弓月誠。
御歳四十の大人の男の人ながら、まだ女子高生の私が色々心配になるような人でいて、しかし仕事となった途端に人が変わったような怖さもある人で――。
「クライアントにすっごい違約金請求されそうになったこと……思い出した」
やっぱり、仕事も心配かもしれない。
そもそも私が弓月さんのアシスタントとしてアルバイトをしているのも、仕事の予定や事務や身の回りの事が彼一人ではだんだん回らなくなってきたからといった経緯があってのことでもあるし。
そんなことを考えていたら、都会のど真ん中にあるようなマンションの窓の外から蝉の声が聞こえてくる。
「夏だねえ。この都会のど真ん中でどこで鳴いているんだか」
「マンションの壁やベランダに結構いますよね、蝉」
「あーいるねえ」
夏休みに入り、もう八月も何日か過ぎている。
勤務時間は午後二時からに繰り上がっていた。
とはいえ夏場は外の仕事が増えるらしく、弓月さんは日中は不在のことが多い。
顔を合わせるのは学校がある時と同じく夕方で、昼にいても作業部屋にこもっていることが多い。
私はいつも通りに部屋を掃除し、夕食や翌日のためのお惣菜を仕込み、弓月さんの事務仕事の手伝いをしている。
あとは郵送物の整理や宅配便を受け取りなどの雑用。
暇な時は好きに休憩してもいいことになっているため、夏休みの宿題を進めたりして過ごしていた。
今日は来た時から弓月さんがいて、応接スペースのソファに呼ばれたと思ったら、いまこの状況だ。
「それにしても、こんな書類を用意してくるなんて」
弓月さんが、私の目の前に突きつけてガラステーブルに置いた書類を見下ろす。
彼が私を撮った写真を個展に使うための、使用許諾契約書。
私が未成年ということで、保証人欄に父の署名が入っている。間違いなく父の筆跡だった。
「一体、いつの間に……父とはいつ……」
「ああそれは……中谷さんに」
兼自宅にしては極端に家具が少なく生活感のない、白っぽく広いマンションの部屋。
ガラステーブルを挟む白いソファセットに座って向かい合っているのは、弓月さんだけではなかった。
黒いランニングシャツにグレーの半袖シャツを羽織り、色褪せたカーキのカーゴパンツを履いて、軽くうねった若干伸びてきた茶色い髪はきっとシャワーを浴びて濡れたまま後ろに流しただけな、弓月さんとは対照的。
紺色のサマースーツにスカイブルーのシャツ、同じ軽くうねった髪でもこちらは襟足の長さで切り揃え、整髪料を使って整えた、爽やかにきちんとした大人の代表みたいな人だった。
中谷さんは父の大学の後輩で、私にこのアルバイト紹介した人だ。
弓月さんが著名人の本棚を撮影し文章も書いている、『あの人の本棚』という連載記事を掲載している週刊誌を発行している文旬こと、文芸旬秋という出版社の編集者でもある。
同い年らしいけれど、こんな対照的な大人もない。
「まったく、弓月さんの光輝ちゃんの扱いがわかるな。まあ紹介したのはおれだし、会社も絡むことだから今回は間に入るけど……なにが、ちょっとでも面倒になったら切るって?」
「共謀共同正犯な人が、なに言ってんの」
「弓月さん、他の書面もあるの出して。まったく……女子高生になんの圧かけてんだか」
「写真の使用許可もらうのに必死だから」
中谷さんと並んで長椅子に座り、弓月さんは右隣にいる中谷さんの左肩に手を置いて軽薄に笑った。
そんな彼を中谷さんは鬱陶しいといわんばかりに横目に睨みつけたけれど、平気な顔をしている。
「弓月さんの私の扱い……とは……」
「ん? 光輝ちゃんは僕とこの人の仕事の成否に関わるからねー」
少なくとも、私にとってあまり穏やかなことではなさそうなのは確かだ。
ガラステーブルの上に三枚ほど書類が増えた。
小さな文字がびっしり印字された書類もある、物々しさになんだか緊張してくる。
「弓月さんさ……そもそも彼女にきちんと説明してるの? ああ、聞くだけ無駄だった。光輝ちゃんの顔でわかる」
「あの、中谷さんこれは一体どういう事なのでしょうか。どうして父の署名が、弓月さんが父と会って話したということでしょうか。私なにも聞いていませんし、こんな書類に署名して父が私になにも言わないとも思えないのですが」
「そりゃあ、光輝ちゃんがここに来る三十分くらい前に書いてもらったばっかりだから」
「は?」
「外回り後の、昼休憩の時間をもらって」
「え、弓月さんそれは……ついさっきまで父と会っていたってことですか!?」
とにかく状況というか、わけがわからない。
たぶん中谷さんを経由して父と連絡を取ったらしいのはわかるけれど、一体なにがどうなってこんなことになっているのか。混乱して頭を抱えそうになった時に、中谷さんが私と弓月さんの会話を止めるように大きなため息を吐いた。
「弓月さん」
「ん、なに?」
「君、ちょっと外でてて。光輝ちゃんを混乱させるだけだから」
「んー、中谷さんが説明説得してくれるのは有り難いけど。二人っきりっていうのは、中谷さんの過去の所業を考えるとあまりしたくないんだけど」
「あのさ、こっちはこれでも最大限、弓月さんに便宜をはかってんだけど? あらためて文旬の会議室来る?」
「……ごめん、光輝ちゃん。暑いしアイス買いにコンビニ行ってくる」
あ、たぶん私いま、弓月さんに売られた。
大人の世界には色々あるようで、すっと立ち上がって弓月さんはさっさと部屋から出ていった。
ぱたん、かちゃと玄関扉がしまってオートロックの鍵がかかった音がして、嘘のようにしんと室内が静かになる。
蝉の鳴き声すら、その静けさを際立たせるほどに。