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2.最低カメラマンと17歳の食卓

 十日ぶりのアルバイトはまず掃除から――といっても、家具らしい家具がない部屋だからあっという間に終わる。

 窓のブラインドの埃を使い捨てモップで軽く払い、フローリングの床に乾拭きと水拭き用のシートを使って二度拭けばおしまい。

 弓月さんは大小の撮影機材を片付けている。

 手伝いたいけれど、機材は弓月さんに指示されることがない限りは絶対に触らない。

 生活感に乏しいワンルームの部屋の隅に置かれた、大きな革製の旅行鞄にも。

 使い込まれた旅行鞄には、撮影機材以外の弓月さんの私物がほぼすべて収まっている。


「試験どうだった?」

「可もなく不可もなくといったところかと」

「あはは、謙虚っ」


 実は弓月さんは私の高校の卒業生だ。

 親の都合で海外から帰国したまたま三年生から編入した学校だっただけ、ほんの数ヶ月の在学のために私学に高い学費払うなんて馬鹿馬鹿しい、大学は偏差値で見れば三流大と言っていた。

 進学も、就職も、社会的なステイタスも。

 弓月さんにとっては、そこそこしたい事ができるものが得られる程度で十分で、特別労力かけるものではないそうだ。

 難関大を目指しているクラスメイトしか知らない私は、弓月さんの話を聞いて目から鱗が落ちた気がした。

 そして少しばかり考えるようになった。

 私がしたい事、どうなればそれができるものが得られるか……なんて考えたこともなかった。

 医師や弁護士など専門知識と資格を必要とする職業になりたいならともかく、公務員かどこかの会社に勤めるような漠然とした考えでいたので。

 ちなみに弓月さんは――勤務時間に縛られるのはやだ、趣味の時間を仕事で削られたくない、夜は多少遅くなってもいいけど休みがないのはやだ、カメラ用品や本が買えない給料はやだ、朝は寝たい、ということで。

 趣味と実益(お給料)を兼ねて大手企業の子会社の適度な規模の広告代理店に就職し、営業職で入ったのに上司にごねて制作部のコピーライター時々写真撮影スタッフになったそうで。

 

 わがままだ……。

 

 その後、十数年勤め、フリーランスのカメラマンとして独立したらしい。

  

「ベッドのシーツ取り替えましょうか」


 洗濯物もあれば一緒に洗いますと尋ねれば、大きな撮影用ライトを解体しながら、「んっ」と言葉にすらなっていない返事があった。一応許可されたようなので、次の仕事にとりかかる。

 キッチン寄りの部屋の端。

 床に無造作に置かれたマットレスベッドは、この部屋で唯一生活感があるものといってもいい。

 もっとも、それは弓月さんの寝る場所でもあると同時に、撮影の小道具の一つでもあるのだけど。

 この部屋には結構広めのウォークインクローゼットもあるけれど、作業室に改造されていて仕事に関する物以外は置いていない。

 この部屋は、きっと弓月さんそのものだと私は思う。

 彼は仕事が大半で、私生活は少しだけ。

 必要ないものは一切持ち込みたくなくて、持ち込まれたくもない。

 ここはそういう部屋で、そんな人だと、何故か初めてここに来た日にそう思った。

 最初の内は、仕事に必要なものを備えるのもおそるおそる。

 掃除道具はきっと使い捨てられるものがいいに違いない、なるべく万能に使えるものを最小限……と、したのは正解だったようだ。

 中谷さんから「思った通りに、弓月さん、光輝ちゃんのこと気に入ってたよ」と、自宅に電話があった。

 母が病気で入院していた間預けられていたお祖母ちゃんの家で教わった家事の知恵と、主婦歴三年の経験はとても役立っている。


「そんな張り切らなくていいよ」 

 

 弓月さんの苦笑の声を聞きながら、ベッドと薄い羽毛布団にかけられたシーツを外す。

 枕は使っていないから、これも簡単に終わってしまう。

 ちらりと私は機材を片付けている弓月さんを見て、バスルームへシーツを運んだ。

 脱衣所が兼ランドリースペースなのだ。

 いつも飄々としていて、チャラい弓月さんだけれど、仕事中、カメラのレンズをのぞいている時の目は怖いくらい鋭い。なんとなく私の中で、弓月さんの印象は“お侍さんみたいな人”だった。

 着痩せする質らしく、細く見えるけど結構がっしり筋肉質で、精悍な顔立ちをしているし。

 お祖母ちゃんとよくTVで見ていた、時代劇の衣装を着せたら似合いそうな気がする。

 新撰組みたいな……名前も“誠”だし。

 

「素行は全然、誠ではなさそうだけれど」


 確認した洗濯物とシーツを放り込んだ乾燥機付洗濯機をセットしながら私は呟く。

 女性に誘われたら、どんな下心があるとわかっていても来る者拒まず。

 だって男女なんてなにがきっかけでどうなるかわからないから、って話すその発想がもう私には理解不能だ。


「順番が逆なのでは? そういうことは好きになってからで……って、なにを考えてっ!」


 ごうんごうんと回り始めた洗濯機のそばで、熱くなった頬を押さえる。恥ずかしい。

 外の撮影で汗だくになったと言いながら、人がいるのに構わず着替えようとする人で、さらにはシャワー後に頭にタオルかぶった下着姿でバスルームから現れたりする人なので……半裸の弓月さんを片手の数以上には見ていることもあり、頭に浮かんだ映像が微妙に生々しい。

 ぶんぶんと首を振って気を取り直そうとしたら、ガチャっとバスルームのドアが開いて飛び上がるほど驚き、思わず悲鳴が出た。


「ひゃっ!」

「え、なにっ、どうしたの? 虫でもいた? シャワっていい? あーもー仕事増えて暑くて辛い季節になってきたよねー」

「はあ、どうぞ」


 虫というかなんというか……女子がいるとかいないとか関係ないのだ、この人は。

 私は特に、弓月さん曰くバイトで働きにきている守備範囲外の女子高生(子供)だからか、気に掛ける存在ではないようで。

 気にかけるどころか、近頃はお掃除ロボとか、話かけたら反応する家電的なものに近いくらいの気に留めなさになっているような気がする。

 

「あの、出たあと服は着てくださいね」

「ん、あー、うん。わかってるって……多感なお年頃のJKを前に、そんなセクハラ紛いなことする大人じゃないから」

「もう七回程されています」

「うん……ごめん」


 ごうんごうんと洗濯機が唸る中、弓月さんに念押しして、新しいシーツを作り付けのリネン棚から出してバスルームからLDKへ戻れば室内にあった機材は全部なくなっていた。

 どうやらウォークインクローゼットの作業部屋に片付けたらしい。 

 ベッドのシーツを取り替えて、応接スペースのガラステーブルの上を片付けて、食事の支度に取り掛かる。

 そういえば。

 ドアポケットにお酒だけが入った4ドア冷蔵庫というものを、生まれて初めて見たのもこの部屋だった。

 必要ないものは持たない人が何故(なにゆえ)にと、アルバイト二日目に大きな冷蔵庫を眺めていたら、以前はフィルムを保管していたらしい。


『いまや完全デジタル撮影。元あったフィルムも業者さんにデジタルデータ化してもらったからこんなでかいのいらないけど、小さいのに買い替えるのも面倒でそのまま』


 キッチンスペースは簡単に区切られていて、カウンターが付いている。

 そこに組んだ両腕を引っ掛けるようにして、いつの間にかキッチンを覗き込むようにそこにいた弓月さんは、そう言ったけれど……買い替えが面倒以外は、たぶん嘘だと思う。

 冷蔵庫の奥の方の壁に小さな傷やなにかのソースがついた跡がある。

 二度結婚に失敗しているから、その時使っていたものがそのまま残っているのだろう。

 食事は外食で済ませていたらしいけど、中途半端な大きさのフライパンひとつ、大小の片手鍋がひとつずつは元からあった。適当になにか作ることくらいはあるよとも言ったけれど、それも冷蔵庫の中身を考えたら嘘っぽい。

 妙なところで、繊細。


『そうですか』 

『今日はなに?』

『野菜の天ぷらです。見るからに野菜不足な生活をしていそうですので』

『ほう』


 あの時は。

 天ぷらなんて店で食うものだと思っていたと、その後、何故か張り付かれ、「おおっ」とか「やばいっ」とか「すごいねー」とか「箸捌きがプロっ」とか、軽薄な掛け声と共にコンパクトカメラで作る工程を撮られ、揚げた端からつまみ食いはされてと、大変で――ちょっと楽しかった。

 母が亡くなってから、一人で作って、一人で食べてが当たり前だったから。

 初日に父の仕事の帰りが遅いと聞いて、だったら父の分までまとめて作って私はここで一緒に食べたらいいと弓月さんは言った。

 翌日来て早々に知り合いの店とやらに連れていかれ、ましな食器がないからと私用の桜色のお茶碗と、大小の白いお皿を二枚ずつと綺麗な塗りのお椀とお箸を二組ずつ買ってくれた。

 新品のお皿に弓月さんのつまみ食いから逃れた天ぷらを並べ、お味噌汁をお椀によそい、元からあった彼のお茶碗と買ってもらった私のお茶碗にご飯を盛り付ける。

 ご飯は豆ごはんで、ちょっと張り切ってしまった。うれしかったのでお礼したくて。

 白っぽく、生活感のないがらんとした部屋の、応接スペースのテーブルの食卓だけれど。

 いつも一人で食べていた、私の家のダイニングテーブルよりずっと明るい。

 

『キッチンは好きにしていーよ。光輝ちゃんの領域ってことで。初日の時みたく外に撮影や打ち合わせにでたりもするから鍵渡しとく』

『まだ顔を合わせて二日目の人間に、それは流石に不用心が過ぎるのではないでしょうか』

『これでも人を見る目はあるつもりだから。レンズ越しにだけど』


 ごちそーさま、と言って手を合わせたと思ったら、こちらはまだ食べているのに真正面からコンパクトカメラで撮られた。

 こうして学校や家とは違う、自分の場所が出来た。

 四畳半ほどの小さなスペースだけれど。


「今日のご飯なに?」

「ええと。暑くなってきましたから、つるっとしたのとさっぱりしたので。セロリとタコのマリネと茗荷の冷奴、なめこのお味噌汁と豚バラ肉の冷しゃぶです」


 ひょっこりと、キッチンカウンター越しに尋ねてきた人が、青色のシャツのボタンをひとつも留めずに胸を晒した姿だったことには、なにも言わないでおく。

 量販店で売っている、椰子の葉柄がプリントされたステテコみたいなズボンは履いているし、念押しした通りに服は着てくださっている。


「ああ、いいねえ。外食、飽きてきた頃だったんだよねえ」

「申し訳ありません、この時期は食品衛生の観点から作り置きの日持ちが……冷凍も考えましたが色々無理があると思い……」

「ああっいいからいいからっ、電子レンジないし。冷凍したの室温で時間置いて解凍して食べるなんて、忘れて絶対無理無理っ!」  


 がしがしと濡れた頭を拭きながら弓月さんはそう言って、タオルを首にかけソファに横になった。

 ガラステーブルに腕を伸ばし、いつもそこに置いてあるコンパクトカメラを手に取ると、天井にカメラを向けて弓月さんはシャッターのボタンを押した。

 不思議だけれど、仕事で写真を撮っているのに、こうして一休みする時の気分転換でも遊びといってカメラを手にして気まぐれにシャッターボタンを押したりしている。

 私も時折撮られる。

 SNSで人が飼ってるペットの写真や食事の写真を撮るみたいな感じで、なんとなく気が向いたものを撮っているだけだから気にしないでと、初日に面接しながら撮られて言われた。

 嫌なら撮らない、データを他に移すことはしないし、気になるなら削除するからと。

 本当にそうなんだろうと思ったから、私は気にしないと答えた。

 実際気にならなかった。

 こちらにカメラを向けていることに気がついて彼を見ても、遊びだからか仕事の立派なカメラに向かう時のような鋭い目でもなく、こちらを見ているような視線も感じないから、私を撮っているのかどうかもわからない。


「なにか手伝おうか?」

「手伝ったら、私にお給金を支払う意味がなくなります」

「本当、ちゃんとしてるよねー光輝ちゃんは。偉い!」


 ジーッ、とコンパクトカメラが動く音がしたけれど、斜めにこちらを向いた彼がなにを撮ったのかはやっぱりわからない。

 仕事で撮っている時の弓月さんは、自分自身も知らない自分まで全部、なにもかも暴かれそうな目と表情(かお)をする。

 被写体との間に他人が見てはいけないような、彼と撮られている対象だけの世界、ただならぬ間柄であるような雰囲気がある。

 もっとも、私がアルバイトに入るのは夕方から夜にかけてで、そんな撮影仕事が入っていることは少ない。

 そういった仕事が終わった後の片づけだとか、打ち合わせだとか、撮影データを納品するための作業室にこもっていることの方が多かった。

 きっと見る人によっては悩ましい姿で、弓月さんがソファでごろごろだらだらしている間に作った夕食を並べて、私も彼の向かいのソファに腰掛ける。


「出来ました」

「じゃ、食べよっか」

「はい」


 向かい合って、ほぼ同時にいただきますと手を合わせ、食べ始める。

 食事の時間になってもシャツは全開なままなのは、注意したら負けな気がする。

 まあ、それでも。お椀を口元になにかしみじみ味わっている様子は作った側としては悪い気はしない。


「ああ……真っ当な人間の世界に戻ってきた味がする」

「そんな大袈裟な」

「いや、もう。光輝ちゃんいない十日の間、なんかもうねー色々と大変でさ……なに、厄年? お祓い行った方がいい?」

「男性の厄年は四十二歳です。前厄でも来年です。十日の間に一体なにが……」

「企業からクレームが三件きて、個展だって言ってんのに、文旬の鬼とカドワカの虎が断れない仕事を持ってきて、麻雀で身ぐるみ剥がされかけて、未成年には言えないことが四回起きて、不良獣医に絡まれて一晩中酒浸りになって気がついたら純真なJKに知られたら絶対軽蔑されることが起きてた」

「前半分のお仕事のことはともかく、どうしたら十日でそんな濃い人生を送れるのでしょう」

「僕にもわからない」


 私が試験期間中で勉強していた間、弓月さんは私には想像もつかないような物事に遭遇していたようだ。

 少なくとも未成年の私には言えないことが四回起きて、これもたぶん私のことを言っていると思える純真な女子高生に知られたら絶対軽蔑されることが起きたくらいには。

 気にならないといえば嘘になるけれど。

 はあ、タコが旨い。セロリが沁みる……などといって、食べている人はなんだか憎めない。

 

「雇っていていうのもだけど、光輝ちゃんよくこんな大人(おとこ)のために、にこにことよく働いてご飯作ってくれるよね」

「んー。弓月さん、私には特に害はないですから」

「害はないねえ。そうかもだけど……時々、心配」

「どちらかと言えば、弓月さんの方が心配ですよ」

「僕は大人だから心配なことはなにもないよ。豚肉の、これ生姜?」

「あ、はい。ちょっと甘辛なタレで。胡麻ダレも美味しいですけど」

「こっちのがいいかなあ。酒にも合いそう」


 ちょっと多めにつくって、お肉漬けてもいいかも。日持ちもするだろうし。

 そんなことを考えつつとりとめのない話をして、夕食を終えて片付ける。

 三連休でまたアルバイトはお休みだから、少し作り置きのおかずも作ってタッパーに詰めて冷蔵庫に収めたら、丁度帰る時間になっていた。

 

「じゃあ、私はこれで」

「ん、ありがと。そういえば三連休だけど光輝ちゃん予定は?」

「土曜日はゆっくりして、日曜日は宿題して、祝日は父が出張から戻るのでまあ普通に家のことでしょうか」

「待って待って、友達と遊んだりとかないの? 僕が光輝ちゃんくらいの頃の連休っていったら、家なんか帰らず遊び倒してたけど」

「みんな部活やバイトや塾で忙しいので」


 そう答えれば、玄関口まで私を送ってその場に立ったまま、弓月さんは腕組みして項垂れ「んーそうかあ」と唸るように言って顔を上げた。


「……だったら、明日ちょっと付き合ってくれない?」

「え? お仕事ですか」

「半分仕事で、半分デート……かな?」


 にっこりと無害そうな大人の顔で弓月さんはそう言って、明日11時に迎えに行くと私に伝えると、お疲れ様といってくるりと背を向けた。



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