ただの数字か、まともじゃないか(後編)
家族という血縁者はいたけれど、彼等にとって存在しないに等しかった。
というより、存在を認めてたまるかって扱いだった方がより正しい。
別に殴る蹴るだの暴言吐かれるだのといったことはなかったし、衣食は一応与えられたし、世間的にはふざけた広さの屋敷に住んでるお坊ちゃまではあった。
この世にごまんといるに違いない、常に生命を脅かされるような目に遭っている子供と比べたらなんということもない。それはもう執拗に何度も存在を否定され削られはしていたけれど……いまでいう毒親、毒実家って、やつ?
しかし人間は意外としぶとい、子供から大人へと抜け出す過程で血縁者達とは縁を切った。
「……そうして実に適当な大人になりましたとさ、めでたしめでたし」
作業室で、写真編集用のカラーマネジメントモニターに向かい、撮影データを眺めながら思い出したくもない昔のことを薄っすらでも思い出すなんて、あのお節介な不良獣医に絡まれたせいに違いない。
ああいう人種とは、適当に距離を置いて付き合おうとしてきたのだけど。
来る者拒まず、去る者追わず。
なんとなく一般的にそれっぽい振る舞いでそれなりに、多少のトラブルはあってもまあまま楽しむ程度で乗り切る。やがてそういう奴だと向こうも心得て、自然消滅したり、付かず離れず利害で近づいたり遠のいたり。
自分が孤独と親しんできた人間であることは知っている。
いつでもどこへでも行けるように、捨てられるように、縛るのも縛られるのも不幸の始まり。
そういうのじゃないものもあるのかもと二度ほど思ったけれど。
「結局、気の迷いと錯覚に過ぎなかったし」
けど、どうもここ近年で勝手が違ってきている。
二度目の離婚が成立し、フリーランスになったあたりから。
会社勤めを辞めたきっかけは、会社付き合いで招ばれたクライアント主催のなにかの会合だった。
『弓月誠さん、だよね? 時折フォトコンテストで入賞してる』
ホテルの煌びやかな立食パーティの場で、突然、人を介してでもなく背後から声をかけられた。
振り返ったのが運の尽き、いや始まりかな……わからないけれど、とにかく人生分かれ道になったのはたしか。
そこには、きっちり場に相応し過ぎるスーツを着た、弁えた招待客以外の何者でもないような同世代の男がいた。
『節操なしのノンジャンル気まぐれ公募……っていうか、明らかに賞金狙いなのな。二十代の頃なんか特に』
不意打ちすぎて、切り返すこともできずに間抜けみたいに相手の顔を見てしまった。
どこかの営業マン? それともコンサル関係?
いかにも仕事が出来るって感じでいて、妙に人を油断させる若造っぽい雰囲気も残す男だった。
『あ、失礼。文芸旬秋の中谷と申します』
流れるような動作で名刺を差し出され、一応その頃は会社員だったので名刺交換した。
『へえ……コピーライターってことは文も書ける?』
『えっと、中谷さんでしたっけ? たまに仕事でカメラマンの真似事もしてますが、写真は趣味っていうか』
『真似事? 有名どころは大抵四番手。なのに目立たない地方自治体主催のなんかは一等賞。そこそこの実力だからじゃなく狙って獲れる腕があるのは明らかでしょ』
したり顔で軽く口の端をつりあげる中谷という男に、「まさか」と返すことができなかった。
レンズを通さなくてもわかる。
真っ当なエリートサラリーマンみたいな顔をして、ハゲタカみたいなやばい人だ。
こんなのとは関わらないに越したことはない。適当な挨拶で離れようと思ったのに。
『まーでも写真家なんて安定ないもんね。けど商業的に通用する器用さあるし、フォトコンで上位いける作家性も承認欲求もある。狙ってるだけに実に物欲しげで物足りなさげだし、君の写真って』
『……出版社の文芸編集者に絡まれることした覚えはないんですけど』
『十分してる』
『初対面ですよね』
『このパーティの主催って文旬に広告出稿してくれてるの、で、君の会社とも懇意でしょ。おれ、引きいいんだよ……ってわけで商談。君の仕事とその後の繋ぎは作るから、いまの仕事辞めておれと組まない?』
頭おかしい提案だと、もちろん即断った。
そしたら、通りがかったサービスの人からワイングラスを受け取ってこれ飲む間だけ時間をくれと口説かれた。
酒強くてよかったと思いながら一気飲みで秒で切り上げようとしたら、「こっちはまだ飲んでない。一応君の会社のクライアント側の人間だけど?」と脅され――気づけば会場の外、ロビー近くのティールームで打ち合わせの体になっていた。
この人は僕の熱烈なファンかストーカーかってくらい、過去に公に出した入賞作すべてチェックしていて、どういうリサーチ能力なのか個人的に受けたポートレイトや商品写真の仕事のいくつかまで知っていた。
『ただ綺麗なのも、それっぽいのもいらない。アート性なんて論外』
『なにがしたいの……有名人を撮るって』
『泥臭く、抉るようなの。撮られる側だけじゃなく、見た側も覗き込まれたとなるような……弓月さんて他人にも世の物事にも関心持ってないでしょ。そのくせカメラを向ければ奥底に潜んだものを暴くように実に美しく撮る。おれなら君に撮られるのは勘弁したいけど……』
言うから、無言で手持ちのスマートフォンを向けた。
いまやこんなのでも、そこそこ撮れる。
狂ってるとしか思えないけど、狂った仕事を形にしてしまう人だなと思った。
『名刺のアドレス宛に送ってよ。仕事で使ってるツールのアイコンにでもしようかな』
『あのさー、商談って確定事項なんでしょうかー』
『おれは弓月さんの背景に興味ないけど、弓月さんが望む人生に変わるかもしれないよ』
『中谷さんだけに都合が良くて、こっちのリスクだけが大きい』
『弓月さんはゼロかゼロじゃないかなら、後者を選ぶ側でしょう。いますぐ始めたらおれと文旬がついてくる』
『美容・健康通販の勧誘文句じゃないんだから……』
半年後、会社を辞めた。
十代、二十代の若者なら違ったかもしれないけれど、三十代半ば過ぎて準備もなくフリーランスは流石に馬鹿のすることだ。
それに中谷さんをあてにせずとも、いずれそうするだろう気もしていた。
なんとなく、それも読まれていた気もするけれど。
「食えない人だからなあ……本当……」
光輝ちゃんのことといい。
宇津木光輝といった名前と、知人の伝手でアシスタントによさそうだから紹介するとだけしか聞かずに、まあ中谷さんの人選ならいいだろうと了承した。
うつきみつき、なんとなく昭和の漫才コンビのような、どこか和むリズム感な名前の“男”だと思っていた。
そしたら。
初顔合わせの日時にやってきたのは、黒髪おかっぱセミロング。
奥二重の目と化粧気のない顔、白シャツにライム色のストライプ生地のフレアスカートといった、どこか古風な奥床しさを感じさせる二十歳位の女の子だった。
『ええと、君が、中谷さんが言ってた宇津木光輝さん?』
『はい、弓月誠さんのアシスタントとして、文芸旬秋の中谷さんからのご紹介で参りました』
そう、二十歳位に見えた。挨拶もきっちりしていたし。
今時の子には珍しく背筋がすっと伸びて姿勢がよく、モデルと勘違いしてなにかの仕事をダブルブッキングしたかと一瞬焦ったが違った。
大学生だと思ったまま会話をしていたら、途中で話が食い違って、もしかして幼く見える質で学生は卒業してるのか尋ねる前に、向こうから自分のことをどう聞いているのかと質問された。
『名前と、お手伝い兼事務的なアシスタントなら知り合いに丁度よさそうな子がいるって』
『それ、私がどこの何者かなにも聞いていないのと同じですね』
『言われてみたらそうだね』
『雇い主ならもう少し慎重に書類選考などした方がよろしいのでは?』
さすが中谷さんの人選、しっかりしている。
こちらが面接されているように思えて苦笑した。
『ごもっとも……もしかして大学生じゃなかった?』
『年が上に見られがちなんですけど、これでも、その、都立高校の二年生……です』
『は?』
都立高校の二年生……十七歳、seventeen。
ちょっと待てと、作業室に入って中谷さんにどーゆーことだと電話した。
『しっかりした子だろ? 弓月さんの守備範囲年齢外だけど、弓月さんのところに出入りしてても不自然じゃない程度に大人びているし』
本当、いい性格をしている人だ。
『女子高生って、そりゃ僕もそこまで見境いなくないけどさ』
『でもって、弓月さん好みかなと』
好みって……まあ否定はできないけど。
レンズを通すまでもなく、凛とした佇まいと表情がいい。
だからってモデル志望とかそういうのは面倒でごめんだ。
けれど本当にただの知人のお嬢さん、おそらく僕も僕の仕事のこともまるでわかってない、なんて中谷さんの返答だった。
『弓月さん、女性関係あれだけチャラいのに被写体として魅力を感じるのは、芯のある正統派美人な女性って、端的にいって変態でしょ』
『編集者ならもうちょっとクリエイターに敬意を払えませんかねー』
嫌味を言ったら、カドワカから受けたセンセーとトーコちゃんの対談企画の仕事くらい、文旬の仕事も気を入れろと撮影と別の仕事の板挟みになって調整させたことを蒸し返された。
『彼女、頭もいいし気働きも利くからバイトとして優秀だと思うよ』
『中谷さんにもう雇うって言っちゃったし、別に高校生でも構わないけど、ちょっとでも面倒な事になったらすぐ切るから』
『それは弓月さんと彼女の問題だから、どうぞご随意に』
ちょっとでも面倒な事になったらすぐ切る――ちょっとどころか、ものすごく面倒な事になっている。
光輝ちゃんがではなく、こちらの側で。
彼女はいま試験期間中でバイトを休んでいる。
その間に、色々と大揉めに揉めそうなことは片付けておく必要があった。
午前中、中谷さんがきてやりあったばかりだけど……そっちだって半ば狙って紹介したくせに。
「まあこれだけ撮ってたのは、想定外ぽかったけど」
カラーマネジメントモニターの、一枚一枚、表情を変える彼女の写真を見ながら呟く。
どんな写真も記録の面を持つとはいえ。
気まぐれに撮っていたものが大半なのに、自分でも驚くほど撮った時のことを思い返せる。
シーツを拡げてマットレスベッドを整えている彼女、そこで洗濯物を畳んでいる彼女は、二度目の所謂修羅場に遭遇した後で少し僕に呆れている。
ああ、これはアジが安かったとか話しながら料理作っていた時だ。
平日夕方から夜にかけての三、四時間だけこの仕事場兼住居の部屋にやってくる、時給1,300 円の繋がりの女子高生。最初の顔合わせの日にも撮った彼女とはもう全然違う女の子のようだ。
本当にそういった年頃なんだなと思う。
僕に向ける表情の……彼女自身は無自覚な変化も。
このまま気が付かないもある、彼女の周囲にいる誰かに心揺れれば簡単にそっちへ紛れてしまうくらいのもの。
まあ父親や教師や近所の身近な大人以外に初めて接する、安全圏外な大人の異性ではあるだろうし。
多少意識もするか、むしろ皆無はいくら彼女からすればおっさんとはいえ若干悲しいものがある。
――逃す気ねぇだろ、弓月さん。
やけにざらっとした、ご本人の執着心もうっすら滲ませたセンセーのお言葉通りではあるけれど。
「だからって別に、光輝ちゃんのアオハル奪うつもりはないしねー」
クラスメイトと遊んだり、学校行事なんかで特定の誰かと距離が近づくようなことが起きたりそういった。
僕にはなかったもので、だからこそ、正反対に健全な光輝ちゃんのそういった機会を邪魔する気もない。
「実際そーゆー奴出てきたら妬けるかもだけど」
たぶん彼女より早くわかってしまうだろうし。
ああでも、もしもそれが呼び水になってくれるなら少しくらいは有りかもしれない。
「最初にそんな光輝ちゃんを撮るのも僕だしね」
どんな写真も記録の面を持つ。
誰かに見せるかもしれない兆しも、最初に捕まえるのはその誰かじゃない。
育っていく様を眺るのも。
「ま、するつもりはないけど……いまのところは」
ほどほど育ってこれからってところで刈り取ってしまうことも――。




