10.私写真・写し撮る時
八月ももうお盆の時期に入った。
お盆に入る少し前に弓月さんの個展準備が大詰めとなり、私に手伝えることもあまりないそうで、アルバイトは月末までお休みになっていた。
「いつもみんな忙しそうって言ってるけど、お祭りとか花火とか、あの学校なら宿題とか? そーゆーの。少しくらいは友達と楽しめる日だってあるでしょ? いましかないことだってあるよ」
珍しくちゃんとした大人みたいなことを弓月さんが言って、こっからここまでは絶対お休みと、出勤時間をつけてるカレンダーに赤線を引かれた。
「差し入れくらいはしましょうか?」
「たぶんほとんど外に出てると思うから、そーゆーのも気にしない! 都会にいる以上、レストランという食堂があって、弁当屋やなんならコンビニっていう台所だってあるの。近頃、光輝ちゃんに依存気味だったし」
「依存なんて大袈裟な」
「僕の生活周り全部、光輝ちゃんに外注してるようなもんだからさ」
本当、気にしないでと少しばかり自嘲気味に微笑まれるとなにも言えず、私に出来ることは本当になにもない。
というわけで新学期が始まるまで、ただの夏休みになった。
お盆はお休みの企業が多く、流石にこの時期は父も夏季休暇で、母のお墓参りを一緒にした。
そういったことは外さない中谷さんが、家にお線香をあげに来たけれど、ものすごくげっそり疲れた顔をしていた。
出版社はお休みではないのかなと思って尋ねれば、雑誌は休みでも、部署や仕事によっては全然休みじゃないということで、各人で夏季休暇を決めてとっているとのことだった。
「時間ないしお盆で動いてる業者とか限られてるのに、あの我儘男は本当勘弁してほしい……」
「来週からですよね」
「そ、外苑前のギャラリーで」
なにやら弓月さん関係で大変そうだ。
父が、そういえば入場券とかないのかと尋ねて、まさかの当事者に送付漏れかと、その場で中谷さんが弓月さんに電話して文句を言えば、レセプションの招待状といつでも入れる招待客用チケットは昨日送ったという返答だったらしい。
変なとこで奥ゆかしくなるとぼやき、そういったことだからじきに届くし、念の為スタッフに言えば入れるようにしておくと、中谷さんは嘆息した。
父はレセプションに少し顔を出すと言い、私は自分の写真が展示されている所に関係者を招いた場などとても行く勇気はなく平日にこっそり行くと言えば、じゃあ日を決めたら一応教えてと中谷さんに言われて頷いた。
招待状とチケットは翌日届いた。
「ふうん。それで、やっぱ、恋しちゃった?」
「えっ」
中谷さんがきた日から、さらに二日後。
花火がある日。
一緒に行く約束をして、昼間は夏休みの宿題の残りを片付けようと翠ちゃんの家に遊びに来ていた。宿題をしながらここ一ヶ月ほどの出来事を話していたら、一通り聞いての翠ちゃんの質問に持っていたペンを取り落としてしまった。
「めっちゃ動揺してるし」
「え、やっ、そういったのとは違っ……違うといいますか……」
「じゃあなに」
「だ、だってほら、そもそも対象外ですし!」
「光輝はどうかって話だけど? 流石に四十はちょっとあれだけどさ……見た目はぎり?」
「そう、翠ちゃん、二回り近く年上の人ですから」
「でも、そんくらいな年の先生好きな子とかいるし。むしろ見た目は弓月さんのが全然ありっぽいけど?」
考えてもみなかったことに絶句してしまった。
「き、教師と生徒は流石に色々と問題ではないでしょうか……」
「問題大有りだけど。対象としてどうかって話だからさ」
翠ちゃんは冷静だ。
私は宿題のプリントに視線を落とした。有りか無しかなんて……わからない。
「でも、ご飯作って食べたりとかそういったのはなんだかやめたくないなって」
「ごめっ、ちょっと待って。いきなりそっち?」
「そっちとは?」
「家族的な?」
「かっ……!? そっ、それはそれでなんだか違う気が……」
う、うーんと額に両手を当てて、唸ってしまった。
「お、お金の関係?」
「は? なに活的な?」
「いまみたいなお仕事というか……対象外ですし」
「そのうち対象外じゃなくなるけど?」
「学生はだめって言ってたから、少なくとも五年半以上はあります」
「あー、それはきつい」
そうか五年半以上もあるのか……もう少し早く大人になれるといいのになと少し思ってしまった。
でもそうしたら。
「いやいや、無理!」
「どうした、光輝」
「……対象になっても色々耐えられる気がしません」
「あーそう。あんた結構面倒くさい感じだったのね」
「面倒くさい?」
「まーよくない? しばらくバイト休みなんだし、わかんないならわかんないで」
「そ、そうですね。とりあえず宿題を片付けましょう」
それきり翠ちゃんから、弓月さんのことでなにか言われることはなく。
夕方になって、お互い用意した浴衣に着替えて花火が見える神社に出かける準備をした。
「光輝いるから、美容院とか無しで済んでいいわー」
「浴衣は簡単だけど……私もお祖母ちゃんから習っただけで」
「光輝のお祖母ちゃんって何者? 着付けとか料理とかなんか家政婦の技的なのとか」
「普通のお祖母ちゃんです」
神社は暗くなり切る前から盛況だった。縁日の賑わい。
来たのは翠ちゃんと二人だけど、屋台のある所をうろうろしているうちにクラスの子と何人かあって翠ちゃんは友達が多いからいつの間にか男女数人のグループになっていた。
「えっ、宇都木さんて浴衣自分で着られるの?」
「あ、はい」
「光輝、出来る子だから!」
「翠ちゃんっ」
「井川と宇都木さん仲良いの不思議なんだけど」
「い、家が近所で。よ、幼稚園から一緒で……」
「あー、そういや名前、出席番号も近いよな」
それほど話したことがない人も話せば普通に話せて、金魚掬いをしたり、男の子が射的をするのを応援したり、くじを引いたりりんご飴を買い食いとかした。
人が混み合う場所は少し苦手ではあったけれどそんなことを考える間もなく楽しかった。
メッセージアプリの登録を互いにすることになって、一気に宛先が増えた。
『お祭りとか花火とか、まーあの学校なら宿題とか? そーゆーの。少しくらいは楽しめる日だってあるでしょ? いましかないことだってあるよ』
カシャ、カシャっと。
翠ちゃんと友達の女子が、スマートフォンのカメラで自分達だけじゃなく色々なものを撮っている音に、ふと弓月さんの言葉が耳の奥で甦って、なんとなく歩いてきた後ろを振り返る。お祭りの景色。
小さなカゴバッグから取り出してしまいかけていたスマートフォンでなんとなく撮って、送った。
海浜公園でかかってきた、弓月さんの番号宛にメッセージを送れる機能を使って。
「光輝――! 花火見えるとこ行くけど〜!」
「あ、はいっ」
少し先へ進んでいた翠ちゃんに呼ばれて、早足で向かう。
下駄履きの足元でかたかたと石畳を蹴る音がした。
弓月さんは、今頃はやっぱり個展の準備作業だろうか、それともレセプションの日は明日だから流石にもう準備は終わっているかもしれない。
アルバイトをお休みしているから予定もわからない。
少しだけ……撮ってもらえたらいいのにな、と。
一旦神社の外に出て、翠ちゃん達と花火を見て歓声をあげながらがら考える。
友達と一緒に笑ったり喋ったりして、紺地に少し赤が入っている浴衣の裾や袖がひらひらしているのだとか。
過ぎる時間が惜しい――そう呟いていた弓月さんの言葉の意味が少しだけわかる気がする。
「じゃあねー」
花火が終わってしばらくすれば、縁日もなんとなく店じまい感が漂ってくる。
なんとなく名残惜しさで神社の中に戻って少しぶらぶらしていたけれど、一緒にいた子達とも神社の違う入口から来た者同士で少しずつばらばらになって、帰る方向が同じというクラスの男の子と翠ちゃんと三人で、「終わったねー」「宿題あとどれくらい?」なんて話しながら境内を人の波に沿って歩いていた。
まだ人で混雑していてざわざわしている。
だからすっかり聞き慣れていた音が聞こえるはずがない、空耳かあるいはたまたまそんな音が鳴るカメラを持っている人が近くにいるのか。
近くに……。
ジーっ、と小さなシャッター音。
「光輝? あ……」
翠ちゃんが呟いて、あたしら帰るわーと声を上げた。
その声に背を向けたまま、私はこくりと頷く。
「え、なんで宇都木さんは?」
「あーなんかおにーさんが迎えにきたっぽい?」
「お兄さんいんの?」
「立ち止まったら迷惑だしっ」
人のざわめきにそんな翠ちゃん達の話し声が紛れて聞こえた。右に振り向いた正面、片付けだしている屋台と屋台の間にいた人が「なんか気ぃ使わせちゃった?」と首を傾げた。
「花火やってるなーとは思ってたけど。あーたしかにこの辺りからも見えるなーって。友達?」
「あ、はい」
「よかったの?」
「……たぶん?」
なにそれっと、吹き出すように苦笑して弓月さんは顔の前に持ち上げていたコンパクトカメラを下ろした。
「なんか食べられるかなーって思ったけど……流石にないか」
「奥の方ならまだ人がいるので、やっているところがあるかもしれません」
「本当? 朝からなにも食べられずでさ……案内して」
「はい」
お祭りが終わりかけている中を弓月さんの少し先を歩く形で、帰る方向とは逆にまた境内の中へと戻っていく。
少し歩いたところで、オムそばと書かれた薄焼き卵に挟んだ焼きそばの売れ残りが半額になっていて、弓月さんはそれを買った。
食べるところを探すように軽く周囲を見回して、私の手を引いて御社殿まで来るとお賽銭を入れてお参りし、その左脇の影に回ってお社を囲む板間を支える柱に寄りかかって落ち着いた。
「弓月さんってお参りとかするんですね」
「一応は、場所代は払った方がいいかなって」
「場所代……」
人はもう随分減って、屋台も閉めたところが多くなって来たからだろう。
神社の敷地全体がだいぶ薄暗くなってきている。
「よく分かりましたね、場所」
「いまスマホで結構綺麗に撮れんだよねー。そういえば屋台あるなって……外苑から歩ける距離だし」
「ああそっか、そうですね」
個展の会場はよく考えたら目と鼻の先だ。
しばらく黙って、弓月さんがオムそばを平らげるのを眺める。
食べるのが早いから、あっという間だった。
境内にお祭り用に用意された、ちょっと中身が溢れたゴミ箱に空になったパックなどを捨てる。
「ここで撮ってもいいんだけど……まあさっきも撮ったし」
「はあ」
「折角だから、場所変えない?」
そうして神社の外に出れば、これまた道路に人が溢れていた。
驚いたけれど、来た時と比べたらかなり減ってると弓月さんは言った。どちらかといえば人が向かう流れとは逆方向へ手を引かれて歩いて辿りついた場所は――。
「ここ」
「明日からだけど、まー光輝ちゃんならいいでしょ。丁度、全部終わって最後の一人になってたとこだったし」
弓月さんは出入りができるようになっているらしい。
思っていたよりずっと広い白壁のギャラリーだった。電気を落とした暗い室内。
木の床に、下駄がカタっと立てた音が響いたと同時に薄明かりがついた。
「まーあまり明るくするのもだから」
「あ、はい」
展示を見るには問題なかった。どこかで見たことがあるような人の、普段見ないような様子の写真が並んでいるのは『あの人の本棚』の展示だろう。
こうしてきちんと展示された形で見ると、雑誌に載っているものとは全然印象が違って見える。なんて形容したらいいのか、凄みのようなものがあった。
表情は様々で半身であったり全身であったり、アングルも色々なものがあるけれど、一枚一枚がやけに生々しく迫ってくるようで、すべて写っている人に注がれる撮影者のえぐるような視線を感じる。
カタ、カタカタ……カタ……。
あまり遮るものもない、贅沢に使われた空間を巡るように展示されている写真を追って歩く足音に、何度か聞き慣れたシャッター音が重なる。
「こっちそんなに熱心に見るほど面白くないけど」
「いいえ、全然」
声をかけてきた弓月さんに私は首を振った。
面白くないなんて、とんでもない。
「なんて言えばいいのか、どきどきします」
浴衣の襟合わせに軽く指をかけて言えば。
どちらかと言えばこの奥にどきどきしてもらいたいけど……と弓月さんは呟いた。
「奥?」
「光輝ちゃんの写真使ってるの忘れてない?」
「あ……あーそれは、また後日こっそり見たいような気が」
「僕以外に誰もいない状態で見られるとしたら、いまだけだけど?」
それもそうだ。
少し逡巡して、私は弓月さんが示したギャラリーの奥へ向かった。
大きな稼働壁二枚を使って完全に区切られた小部屋の入口に、「写し撮る時」と、小さく印字された金属パネルが貼ってあるのを見て、恐る恐る小部屋に足を踏み入れて立ち竦み言葉を失った。
色彩――の二文字が頭に浮かんで消えていく。
全部、白っぽい無機質な生活感に乏しいあの部屋で撮られたもののはずなのに。
その後はもうしばらくなにも考えられず、ただ展示を眺めていた。
長方形に区切られてすべての壁は真っ白なまま、部屋に入って真正面の壁を背景にコラージュというよりは撮った写真を全部流し込んで染めたような薄い布地が、天井から部屋の中央の床に張られている。
そしてふと気がついた、正面の壁は白壁じゃない。
ごく薄いグレーの文字で横書きに解説文のような文章が印字されている。
誘われるようにゆっくりと壁に近づいて、読む。
「光輝ちゃん」
不意に、驚くほど近くから弓月さんの声がした。
耳元で聞こえたほど近く。
「浴衣でこういうのってつけるものなの?」
背後から、すっと襟をなぞった人差し指が細い金色の鎖を引っ掛ける。
一粒パールに通した……アルバイトがお休みの間、なんとなくつけ続けていた。
「最近は……」
「当面っていうのはさ、どれくらいなんだろうね」
「え」
――当面の、光輝ちゃんの時間。お金の関係らしくてよくない?
「曖昧な条件を知ってて結ばせる悪い大人っているけどね、五年と七ヶ月と二週間」
「……五年と七ヶ月と二週間」
「僕も、かつて悪い大人を憎んだ子供だから。大人になるまでにしてあげる」
鎖を引っ掛けた指に私の肩越しに俯けた顔を近づけて、弓月さんはそう言った。
*****
『彼女の時が愛おしい――彼女ではなく、そこにあるそのままである。
最初は気まぐれに、手近にあったコンパクトカメラを使ってただ撮っていただけだった。
こんな撮り方は遊びでもしない。人を撮るのならなおさら。
僕に撮られたいという人もいれば、絶対に弓月誠だけは嫌だという人もいる。
そうだろう。
ここに来るまでの写真を見た人ならば。
おそらく僕がただ綺麗に撮るだけの撮影者ではないと理解してくれているはずである。
レンズ越しに覗くだけ覗き、暴き立て、手が触れる距離まで近づき撫で回すようなことをしている。
――<中略>――
身近な人ならこれまでも度々撮ったが、約五ヶ月もただ一人を眺め続けたことはない。
ほぼ毎日、何枚も、同じ場所、同じような時間帯に。
彼女が近くにいる間、撮っていない日は一日もない。
レンズ越しであるのにただその風景を眺める目でしかなくて、それ以上なにもない。
写し撮られた時間に特別なものもない。
しかし同じ時は一つもなく、過ぎゆく時間をすべて写し撮れないことが惜しい。
本当は手にしたカメラなど置いた方がいいのかもしれない。
けれどそれはただ一人の少女を見つめる一人の男の目に成り下がるだけであり、違う。
欲しいのは彼女の時であって、やはりそれはレンズ越しでなければ叶わない。
飽きることも懲りることもない。
許される限り、そこにあるそのままが確かにあるものと。
レンズ越しに眺め続け、写し撮り続けたい。それだけである。
――弓月誠』
<完>




