第5話「聖園」
熱のような痛みが伝播する。
大した怪我じゃない。ただ手のひらと膝をアスファルトで擦りむいただけだ。皮膚に突き刺さる痛みは少しずつ体に馴染んで、痛みに慣れた感覚は麻痺して歪んでいく。
大した怪我じゃない。
大した怪我じゃないはすだ。
そのはずなのに、どうしてこんなにも痛むのか。
胸が、心が、刃を突き立てられたように痛い。鋭く刺さった切っ先から、何かが胸の中で膨らんでいく。眼前に広がる血溜まりが、黒々とした感情を生み出していく。
────────ああ、そうか。
思い出した。これで三度目だ。
この感情を知っている。
三度味わって、今初めて理解した。
この胸に蟠るのは、果てしない喪失感。
或いは、どこまでも純然な……絶望。
「………に、………ん」
掠れた声で、叫ぶ。
絶望にひれ伏すように、慟哭する。
「────────兄ちゃんッ!!!」
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「…………兄ちゃ……!!……あ?」
目を覚ます。というよりも、目を覚ますという行動にまず疑問が浮かぶ。眠っていたのか、或いは気を失っていたのか……どちらにせよ、とりあえず異常事態であることに変わりはない。身を起こすために床に手をついてみれば、なにやらザラザラとした手触りがあった。見た目的にはただの切り株。ただし、直径2メートルほどのサイズのものだが。
顔を上げると、木々の隙間から燦々とした陽光が漏れていた。風で葉が擦れる音。近くに水場があるのか、それらしい水音も耳に流れ込む。どこにでもあるような凡常な、しかしどこか幻想的な風景がそこにはあった。
それらをひっくるめて、輝太は改めて体を起こして言葉を溢す。
「……ここ、どこだ……?」
ありふれた光景に思える。田舎を少し歩き回れば見つかりそうな、そんな景色だ。しかし、確かな直感が輝太の胸にあった。こんな場所は地球にはない。
綺麗な木々、綺麗な草花、綺麗な木漏れ日、綺麗な水場………それら全てが、あまりにも綺麗すぎるのだ。一切の汚れがなく、一切の余分もない。木々の幹も草花も傷ひとつなく、水場には枯れ枝の一片すら浮かんでいない。完璧な比率で配置されたオブジェクトのように、その光景には美しい物しか目に入らない。既製品のジオラマのように、成型色で彩られたプラモデルのように、奇妙とも言える小綺麗さがそこにはあった。
「いつ来ても綺麗な場所モル。な?」
「ゔぇぇあ!!……お、お前びっくりさせんなよ!急に出てくんな!!」
「驚きすぎモル。これからはこういうことも増えるんだから、早いとこ慣れるモル」
「せめて出てくるときは前フリくらい……まあいい、それで?ここはどこ────────」
言い切る前に、人影が視界に入る。
プラチナブランドの髪、青い瞳、透き通るように白い肌、どこかのお姫様みたいな服、そしてその手元には、どこかで摘んできたであろう草花たち。それら全てが、絵画のごとき美しさでもって五感へと叩きつけてくる。
ただ純粋に、心の底から綺麗だと思った。
きっと、輝太にとってこれが初めての──────。
「………な、なぁ君────────」
最後まで言葉を連ねることはできなかった。
その少女は柔らかに微笑んで、少しずつ近づいて、
やがて────────寝ている輝太を蹴飛ばした。
グギャア!!と。サッカー選手も真っ青なキレの良さで輝太の脇腹に勢いよくオシャレなサンダルのつま先が刺さり、異様な角度で海老反りになりながら輝太は身の丈ほどあった切り株から蹴り落とされる。
「っ!?…………なん……!?」
なにひとつ理解できないまま地面を転がり、無様な格好で少女に問う。至極真っ当な問いを。
「なにすんだテメェ!!」
「昼過ぎまで寝てる無職のおっさんじゃないんだから、さっさと起きなさいよ愚図」
「はぁ……!?」
聡明な出で立ちとは裏腹に、出てきた言葉は槍のように鋭い罵倒だった。幻聴か、あるいは夢か。現実を認めたくない輝太は頭を振るって問う。
「……ごめん、俺の気のせいじゃなければ、今俺のこと愚図って……」
「もう一発蹴られたいの?」
「いや、ごめんなさいなんでもないです」
深く考えるのはやめて、輝太は体を起こし、咳払いで気を取り直して再三問う。
「……それで、ここはどこ?」
「聖園」
「……せいえん?」
「エンタークの中でも特に特別な場所でエンターク城よりも神聖に保たれてる空間で一切の汚れはないし不要物が発生すれば即座に浄化される。別にこの場所で特別何かをするってわけじゃないけれど初代の王にとって特別な場所だったからこうして綺麗にされているだけで辺鄙な場所にあるのもあってあまり他の精霊の出入りはないわね。でもこの空間が神聖に保たれているおかげで視覚や聴覚から伝わる精神への負荷を最小限に抑えつつ魔力や精神状態を安定させることができるしこの辺には体の不調を治す薬草も多く生えてるしそっちの世界で言うところの病院に近いものにあたるのかしら。精神的な安定や安息という意味では教会や神社に近いものだと思うけれど教会や神社に薬草は生えてないわけだしやっぱり病院って例えの方がその足りない脳みそでも理解でき」
「よーしわかった。あんたモルの仲間だな?」
「あら、頭悪そうに見えて察しはいいのね。頭悪そうなのに」
「なんで2回言ったの?」
少女は笑う。しかし、先程見た柔らかな笑みとは打って変わって人を嘲るような笑みだった。
そして、輝太は思案する。今まで出会ったことがないような人当たりの強さ、言葉の強さ、どんな人類より自分が優位であるという確信でも持っているが如く圧倒的なまでの傲岸不遜な態度。輝太はこういう人種を知っている。なぜなら昨日DVDで見たからだ。
「(ツンデレ……実在したのか……)」
「まぁいいわ、ついてきなさい」
彼女のデレが見られる日がくるのかどうかという途方もない未来をおぼろげに見ながら、輝太は彼女のあとについていく。
聖園と呼ばれる森を抜け、眼前に広がるのは果てのない花畑。地平線の向こうまで色とりどりの花々が続き、視線を持ち上げれば青々とした空が広がっていた。そんな絵本に出てくるような光景に息を飲んでしまう。
この国の名は"エンターク"。
人ならざる、精霊だけが生きる国だ。