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(09)届かない

 



 サチのマンションの入り口には、ミユキには読めない英語の刻まれた石が置かれていた。いち、にい、指を差して数えると全部で十八階もある。巨大な壁のようなサチのマンションをミユキは見上げた。首が痛くなりそうだ。こんな理由でサチの家を訪れるのでなければ「うわぁ……」なんて素直に驚きたくなるくらい、大きい。

 入り口のインターホンで、サチの部屋の番号を押して呼び出した。中年の女の人の声が『どちら様でしょうか』と返事をして、ミユキはおそるおそる口を開いた。


「あ、あの、わたし平山さんのクラスの三沢って言います。その、今日の分の授業のプリント……届けに来ました」

『ああ、あなたね。学校から連絡はもらっていたわ。いまドアを開けるから、最上階までエレベーターで来てくれるかしら』


 女の人がそう言ったのと同時に、大きなドアが滑るように開いた。今度はミユキも思わず「すごい……」とつぶやいてしまった。壁は一面、赤茶色のレンガ積みだ。廊下には一面に真紅の絨毯が敷いてある。豪華な雰囲気に落ち着かないまま、正面にあるエレベーターに乗って、ミユキは最上階を目指した。

 やっぱりサチの家はとんでもなく裕福なのだ。ミユキの団地には絨毯もなければエレベーターもない。建物の入口にも鉄製の粗末な標識が立っているだけ。


(わたしの家がこんな立派なところだったら、わたしはしあわせに感じたのかな)


 ガラス張りのエレベーターから見える街並みを眺めながら、ミユキは考えた。お父さんの勤める自動車会社の工場も、高速道路も、隣の市の風景さえも一望できる。でも、今なら分かる。サチにとってのしあわせは、きっとこういうことではないのだと。



 玄関先に出てきたのは、サチ本人だった。


「あれ、さっきの女の人は……」


 ミユキが尋ねると、サチは後ろを振り返って言った。


「うちの母だよ。母は専業主婦だから、仕事に出ることはないの」

「そっか」


 ミユキには、そう返すのがやっとだった。

 サチの目は泣き腫らしたように赤くなっていた。顔色もよくなかった。ミユキはサチの顔をあまり見ないようにしながら、ランドセルから取り出した封筒を渡した。


「ごめんなさい。手間かけちゃったね」


 サチは掠れた声で、ミユキを労おうとする。


「ううん、そんな」

「でも突然でびっくりしたでしょ?」

「……うん」


 ミユキはうつむいた。あれほどまばゆく、隣にいるのを恥じらうような存在だったサチが、今はあまりにもみすぼらしく哀れに見えた。


絋毅(こうき)っていうの。私の弟」


 封筒を胸の前で抱えたサチも、ミユキを真似して下を向いた。


「コウキは重度の小児喘息で、ずっと入院治療を続けててね」

「喘息って?」

「息が苦しくなる病気よ。その都合で日の出の丘病院に転院することになって、私たち家族も一緒にこの街に引っ越してきたの。父の会社の事業所が近くにあるから、視察は楽になるなって父は喜んでた。私も、都心よりはここの方が空気もきれいだし、コウキには向いてるんじゃないかって思った」


 息が苦しくなる病気というものがあることを、ミユキは今まで聞いたこともなかった。 そういえばサチと初めて一緒に帰った時、このあたりの住環境をサチはずいぶん褒めていたっけ。緑も多いし、空気もきれいだといって。


「でも、コウキは助からなかった。最期はすっごく苦しそうで、私たちがいくら声をかけてあげても、まるで聞こえてないみたいだった」


 サチは、淡々と話し続けた。


「結局、私は最期までどうしてあげることもできなかった。父も母も必死で、少しでもいい病院を、少しでもいいお医者さんをって駆け回っていたけど、その努力とお金もぜんぶ無駄になっちゃった」

「…………」

「いくらお金を積んだって、どうしようもないことってあるんだね。コウキのお陰で私、ようやく気づけたの。だけど、もう、コウキは帰ってこない」


 当たり前の真理を説くようなサチの言葉が、ミユキの抱き続けた疑問と答えをたちまち結び付けた。そうか、とミユキは思った。お金持ちのサチは確かに、せがめば何でも買ってもらえるかもしれない。けれども、いくらお金があっても弟を助けてあげられるわけではないと、同時にサチは知っていた。だからこそ、ハピネスドロップを欲しがったのだ。

 もしもハピネスドロップがサチの手元にあったなら、あのドロップは間違いなくサチの願いを叶えただろう。サチの弟の命だって助かったのかもしれない。


(わたしの使ってしまったハピネスドロップが、もしも平山さんの物だったら──)


 ミユキは足元に穴が開いて落ちてゆくような気分になった。周りの子たちがハピネスドロップのことで騒いでいた時とは全く別の、でも、それより遥かに強い恐怖に飲まれた。


(──わたしは、平山さんの弟の命を奪っちゃったことになる?)


 ミユキの顔は、さーっと上から青くなっていった。そんなミユキを見て、サチは申し訳なさそうに言った。


「ごめんなさい。こんな話、三沢さんにしたって仕方なかったね」

「…………」

「あーあ」


 サチらしくもない投げやりな声を上げたサチは、また足元に目を向けた。その瞳から、涙がぽたんと落ちて、床に跳ねて壊れた。指先でつぶしたドロップが割れるように。


「ハピネスドロップが、あったらな……」


 サチが付け加えるように、つぶやいた。

 ミユキはもはや罪悪感に耐え切れなかった。こんなにもみにくい後悔を覚えたことは、ミユキの十年間の半生で一度もなかった。


「ごめん。わたし、帰る」


 叫ぶみたいに短く告げたミユキは、サチの返事も聞かずに廊下を駆け出した。お利口なエレベーターは十八階でミユキを待ってくれていた。すぐに飛び乗って、一階を目指した。

 家に行かなきゃ、とミユキは思った。


(まだ一粒だけドロップが残ってる。せめて、あの最後の一粒だけでも、本物の持ち主に渡してあげなきゃ。でなきゃわたし、ただのドロボウになっちゃう……)


 絨毯を蹴ってマンションを出ると、ミユキは一目散に団地を目指して走った。途中で何度も転びそうになったけれど、なんとか団地にたどり着いた。二〇一号室の電気は灯っていなかった。幸いにもお母さんはまだ帰宅していないようだ。もどかしい手つきでポケットから鍵を取り出して、重たいドアをこじ開けた。


(あった!)


 自分の部屋に駆け込んだミユキは、机の上に転がっているハピネスドロップのカプセルを掴んだ。からんと乾いた音がした。最後の一粒が中に入っているのを確かめたミユキは、息つく暇もなくランドセルを降ろして団地から走り出た。

 サチの目尻に光っていた涙が、走り続けるミユキの心を何度も締め付けた。

 お金では解決できないほどの重病なら、それこそ治るためには奇跡が起きなければいけなかったのだろう。もちろん、ちょっとやそっとのことで奇跡は起こせない。だからこそサチはハピネスドロップを手に入れねばならなかったのだ。今はもう、サチがハピネスドロップを欲した理由を疑うことなどできない。もっと早く気づいて渡していれば、サチの弟の命を救えたかもしれないのに。必死に走り続けながら、ミユキは血のにじむ唇を噛みしめた。

 もう遅いのかもしれない。それでもせめて、サチには泣いてほしくない。自分勝手だとしても、ミユキはそう願うしかないのだ。


(平山さん、待ってて。わたし、今すぐ最後の一粒を持っていくから。これがあれば平山さんのこと、絶対に『しあわせ』にしてあげられるから!)


 ミユキは、焦っていた。

 ただ、前だけを見つめて、無我夢中で走り続けた。

 それが仇になった。足元に落ちていた小石の存在に、ミユキはまったく気づかなかった。がつんと足が何かに引っ掛かって、ミユキは顔面から思いっきり地面に叩き付けられた。


「痛った……!」


 顔も肩も膝もズキズキと痛んで、ミユキは泣きそうになりながら起き上がった。

 顔を上げると、サチのマンションがミユキを見下ろしている。ミユキが転んだのは、カプセルを拾った公園の一角だった。あと一歩、もう少しでサチのもとへ着くのに。足を震わせながら歩き出そうとして、はたとミユキは手のひらを見た。さっきまでカプセルを握っていたはずの右手が、何も持っていないことにミユキは気づいた。


(落とした!?)


 よもや転んだ拍子に落としたのだろうか。せっかく痛みをこらえて立ち上がったのに、ミユキはふたたび地べたに這いつくばってカプセルを探した。

 ない、ない。

 どこにも見当たらない。

 あんなにしっかり持っていたはずなのに。ドロップはカプセルの中に入れてあったから、ミユキがつぶしてしまうことだってないはずなのに。

 いつの間にか日が落ちて、公園の中は二、三基の街灯がともるばかりになった。ミユキがカプセルを拾った時も、園内は同じように暗かったはずだ。それなのにハピネスドロップは、いっこうに見つからない……。


「そんな……、そんな……っ」


 絶望に沈んでゆきながら、それでもミユキは決して諦めなかった。スマホのライトを点けて、泥だらけになりながらカプセルの行方を探した。しかし、三十分が経っても、一時間が経っても、ミユキの落としたハピネスドロップはどこにも見当たらなかった。

 どうしたらいいのか分からなくなったミユキは、しばらくその場に立ち尽くしたまま、ぼうっとしていた。


(自分のことしか考えてなかったわたしに、神様が怒ったんだ)


 何もない、誰もいない公園を見回して、ミユキはうなだれた。

 手ぶらのままではサチの家にも行けない。ダッフルコートのあちこちについた砂を、ミユキは手で払い落とした。こんな姿で家に帰ったら、お母さんは腹を立てるに違いなかった。大事なもらいもののコートをこんなにして! ──といって。

 ミユキはもう、新しいコートを買ってもらえる『しあわせ』さえ、落としてしまったのだから。


「……はぁ」


 ミユキはとぼとぼと家に向かって歩き出した。

 失意でいっぱいの胸を引きずるように。




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