(08)知ってはいけなかったこと
放課後、ミユキは再び、あの公園に行ってみることにした。
公園があったのは、サチのマンションの道を挟んだ反対側だ。だから公園に行こうと思ったら、サチの家を目指せばいい。ミユキはとにかく確かめたかった。どうやって確かめればいいのかは知らないけれど、拾った場所に向かえば本当の持ち主が分かると思った。それよりほかに宛がなかった、というのが正確なところだった。
(でも、あのドロップが誰か他の人のものだったとしても、わたしがもうすでに十粒のうち九粒も使っちゃってるしな……)
もしも持ち主が現れたら、それこそ死ぬ気で隠し通そう。それか、いっそのこと今夜にでも、最後の一粒を使ってしまおうか。ミユキは必死に身を守る方法を考えた。あんまり熱心に考え事をしていたせいか、危うく赤信号の横断歩道を渡ってしまうところだった。何車線もある幹線道路がミユキの目の前に横たわっている。最寄り駅のほうから延びている道で、マンションの方にゆくには向こう側へ渡らなければいけない。ミユキは横断歩道の前に立つと、信号が青に変わるのをもどかしく待った。
道の向こうに建つ大きなビルが目に入った。このあたりで一番大きな、ミユキも何度か世話になったことのある市立病院だった。その一階の入り口のところで、三人の家族連れがたたずんでいるのが見えた。背の高い両親と、それから一段背の低い女の子。白衣を着た病院の関係者も、彼らを囲むように何人か見当たる。女の子に見覚えがある気がして、ミユキは目を凝らした。女の子はひどく泣きじゃくっていた。父親らしい人がその肩を抱いて、首を振った。誰もが悲しみをこらえるように顔を歪め、地べたを見つめていた。
あそこにいるのは、サチだ。
ミユキは息を呑んだ。
(ここへ来るために平山さん、さっき学校を早退したのかな。だけど、どうして……?)
動揺を隠せないまま、青くともった信号の下をミユキは小走りで駆け抜けた。人一倍おとなびていて、いつも穏やかに笑っているばかりだったサチが、あんなに激しく泣くなんて。サチの身に何か大変なことが起きたとしか思えない。
友達の危機となれば、もはやハピネスドロップどころではない。いても立ってもいられず、しかしサチに声をかけにゆくのもためらわれて、ミユキは早足で団地を目指した。せめて、話を聞くだけでもできないものかと思った。
そうだ、せっかくアドレス交換したんだから、メッセージアプリで話しかけてみよう。
息せき切って歩きながら、ミユキはポケットから取り出したスマホを握りしめた。ただの自慢の種じゃなく、これが本来のスマホの役割なのだと思い出した。
時計の針が午後七時を回った。さすがのサチも帰宅しているだろうと踏んで、ミユキはメッセージアプリに文面を打ち込んだ。
【今日、早引きしてたみたいだけど、何かあったの? 明日は来る?】
送信時刻が小さく表示され、ミユキは大きく大きくため息をついた。じかに言葉を介さないで誰かと連絡を取るのは、ミユキには今回が初めてのことだった。きちんと送れているか不安で、いらぬ緊張で身体が冷えてしまう。
返信、来るかな。送ってしまうと今度はそればかりが心配になった。ほんの少しの期待と、胃の底にたまるような無数の不安が、ぐるぐると渦を巻いて息苦しい。五分に一度ほどのペースで、ミユキはスマホの着信を確認し続けた。そうやって時間が経つこと、三十分。
ついに、サチからの返信が来た。
【ごめんなさい。明日、休ませてもらおうと思ってるの】
理由に言い及ぶつもりはない様子だった。ミユキはちょっぴり寂しくなったけれど、めげずに返信の文章を考えて、書いた。
【わかった。さっき、日の出の丘病院のところで平山さんを見かけたよ。平山さんが用事あったの、病院だったんだね】
これでよし。三回も四回も読み返してから、送信する。
今度の返信はすぐに飛んできた。手持ち無沙汰でハピネスドロップのカプセルをいじっていたミユキは、着信音を鳴らしたスマホをすぐに手に取り、メッセージを開いた。
【弟が、死んじゃったの】
ミユキはすんでのところで、スマホを取り落としそうになった。
三回や四回どころか、十回はメッセージを読み返した。何べん繰り返しても、内容が変わることはなかった。
(平山さんに弟がいたなんて、わたし、聞いてない……)
目の前が真っ暗になっていくような感覚がミユキを襲った。とんでもないことを聞いてしまったと思い知ったが、もはや後の祭りだった。
目にしたものが瞬く間に繋がってゆく。そうか、だからサチは病院の入り口で泣いていたのだ。先生はサチの両親から連絡を受け、早退して病院に向かうようサチに促したのだ。
目の当たりにしたものを受け止めるのがミユキの精一杯だった。結局、ミユキが返事を思い付くことはなく、その夜のやり取りはたった四回で途切れてしまった。
◆
次の日、サチは本当に登校しなかった。
「やっぱり何かあったんじゃない?」
「昨日もなんか、様子おかしかったもんね」
みんながひそひそ話を交わすのを、ミユキは本を読みながらじっと聞いていた。
(わたしは平山さんの様子、特に何も違和感を覚えなかったのに。もしかしてわたしが鈍いだけなのかな)
あまりにみんなが落ち着いているので、みずからの鈍さを余計に疑ってしまう。隣の席が目に入るたび、ミユキは鈍感で軽率な自分を呪いたくなった。サチが休んでいる本当の理由を知っているのは恐らくミユキだけだったが、嬉しさも優越感も感じられなかった。
相変わらず、教室はハピネスドロップの話で持ちきりだ。昼休みになって間もなく、いつものようにリサコやユキナたちが、主のいないサチの席の周りに集まってきた。
「三沢さん、放課後空いてるよね?」
鼻息も荒く、リサコがミユキに話しかけた。
「うちらさ、みんなして今日の放課後にハピネスドロップ探そうと思ってるんだけど、三沢さんも参加しない?」
「三沢さんだってハピネスドロップ、欲しいでしょ?」
ごめん、とミユキは首を振った。それから手元に置かれた茶封筒を、みんなに見せた。
「さっき先生から、平山さんの家にプリントとかドリルを届けに行くの、頼まれちゃってて……」
「なーんだ、そうなの」
失望したような声を上げたユキナたちの一団は、次なる仲間を探し求めてミユキのそばを立ち去っていく。おっかなびっくり、その背中を見送ったミユキは、そっと封筒の中身を覗いてみた。
みんなの思う『しあわせ』とは何か──。道徳の授業で提出したプリントが、ついさっきミユキの元に返却された。ということは、サチのプリントだって返されているはずだ。いけないこととは知りつつも、サチの出した答えをミユキは無性に確かめたかった。
(あった。これだ)
問題のプリントを掴まえたミユキは、ちょっとだけプリントを外に引き出してみた。
あの日、ミユキが【欲しかったものが手に入ること】と書いた欄には、サチの丁寧な字で【みんなが安心して、健康に元気に暮らせること】と書かれていた。
ミユキは黙って、プリントを中に押し込んだ。それからミユキの分のプリントを、めちゃくちゃに引き裂いて破いてしまいたくなった。