(06)同じだなんて限らない
何日かが、何も起こらないうちに過ぎていった。
ミユキと遊ぶようになっても、女の子たちは相も変わらずサチの周りに集まり続けていた。ただ、今ではミユキのことも除け者にしないで、ちゃんと話に混ぜてくれる。サチが迷惑に感じている様子はなかったし、ミユキも不満には思わなかった。
今日の話題も、やはりハピネスドロップだった。
「やっぱ、あんなのただの都市伝説なんじゃないの?」
ドロップの存在を最初から疑っていたユキナは、いつもつまらなそうに腕組みをしながら唇を尖らせる。
「サチ、前は都心の方に住んでたんでしょ? 向こうでそういう話は聞かなかったの?」
「詳しいことは何も知らなかったけど、名前だけなら聞いたことだけはあったよ。そういうのを持ってるんじゃないかって思うくらい裕福な家、いくつもあったしね」
「またまたぁ、平山家より裕福ってどんだけ大富豪なのよ!」
リサコの言葉に、どっと笑いが起きた。もしも今、自分がハピネスドロップを持っているのを話したら、みんなはどんな反応を見せるだろう。落川さんなんか、わたしがスマホを披露した時みたいに地団太ふんで悔しがったりして──。ミユキは少し可笑しくなった。
「今朝の新聞にもハピネスドロップのこと、書いてあったなぁ」
リサコが思い出したように付け加える。
「ハピネスドロップみたいに、本当にあるのか分かんないものが噂話になって広がることを、社会現象って言うらしいよ」
「へー、リサコ博識だね」
「うちは中学受験するつもりだもん、それくらい知ってなきゃ」
当然のことのように胸を張るリサコは、実際、クラスでも指折りの秀才だった。毎朝きちんと新聞を読んでるなんて、偉いなぁ。ミユキも素直に感心した。
頭がいいと言えば、サチだってそうだ。難しい問題にも果敢に挑んでゆくリサコとは対照的に、サチは簡単な問題を絶対に間違えない。頭の良さにも色々あるようだった。
(せっかく平山さんからもらったシャーペンを使ってるんだもん。わたしも平山さんくらい、凡ミスがなくなればいいのに)
地球のような形をした、サチのお父さんの会社のロゴマークを目にするたびに、ミユキはこっそりそんなことを考える。サチが隣の席に来てから、もう一ヶ月近く。サチへの劣等感がなくなって、連絡先まで交換したというのに、ミユキはいまだにサチのことを下の名前で呼ぶことができない。わたしのなかではまだ、平山さんは学力でも家柄でも及ばない憧れの人。そう割り切ることに、ミユキはどこかもどかしさを覚えずにはいられないのだった。
その日の五時間目は、道徳の授業だった。
「道徳の教科書、みんな持ってきてるかしら?」
みんなを見渡した担任の新井先生は、二十ページを開くように言った。
「今日はこのページを読みながら、みんなで『しあわせって何だろう』ってことを考えてみることにしましょう」
男の子たちの間から「そんなのつまんねーよ」と声が上がった。給食を食べた後だからか、眠そうに目をこすっている子もいる。ふとミユキが隣を見やれば、サチはしっかりと目を開いて、黒板と教科書を交互に読んでいた。
平山さんって真面目だな。手元に目線を落としながら、しみじみとミユキは思う。
サチは授業も聞くし、宿題だって一度も忘れたことはないし、自分の家がお金持ちだからってそれを自慢したりはしない。みんなが色々尋ねるから、仕方なさそうに答えるだけだ。それに引き換えミユキときたら、いまだに残った一粒のハピネスドロップの使いどころを考えあぐねるばかりだった。
(まさか消費期限があったりしないよね。でも、もう欲しいものだって手に入っちゃったし、これ以上に望むものも思い付かないよ)
上の空になりかけたミユキの視界を、まっすぐに先生を見つめるサチの横顔がよぎった。悪事をとがめられたような気持ちがして、ミユキはあわてて姿勢を整えた。
「『幸福』とか『しあわせ』っていう言葉を普段の生活の中で目にすることは、たくさんあると思います。だけど、そもそも『しあわせ』って何でしょうか?」
先生はそう言うと、ユキナを指名した。立ち上がったユキナは「ええと」とうなじを掻いて、小さな声で答えた。
「あたしは、楽しいって感じることだと思う……けど」
「じゃあ、上田さんは?」
今度はリサコの番だ。当てられたリサコは、手元にこっそり広げた漢字のドリルをちらりと見て、それから堂々と口を開いた。
「知らなかったものを知った時とか、しあわせだなって思います」
うん、と先生はうなずいて、二人を座らせる。
椅子に腰かけた二人の背中を、ミユキはぼんやりと眺めた。わたしとは違う考え方をするんだな、と思った。
(わたしは欲しいものを手に入れた時が、一番しあわせだなって思うのに)
ミユキの心の中を透かしたみたいに、そうよ、と先生は紙の束を持ちながら言った。
「みんなも分かったかな。何をしあわせと感じるかは、人によってぜんぜん違うんです。決まりきった正解なんてないの。今からちょっと時間を取るので、みんなの思うしあわせって何か、この紙に書き出してみましょうか」
「そんなのハピネスドロップが手に入ることに決まってんじゃん」
誰かがつぶやいて、クスクス笑いが教室に広がった。そうね、と先生までもが同調した。
「それだって、立派な『しあわせ』のあり方だよ」
本当に何でも大丈夫、ということを先生は言いたかったんだな。胸をなで下ろしたミユキは、前から回ってきた紙を受け取ると、シャーペンの芯を出して紙に突き立てた。
ミユキの『しあわせ』は、欲しいものが手に入ることだ。だって、ハピネスドロップをつぶすたび、ミユキのところには欲しかったものが転がり込んできたのだから。
少なくともミユキには、それ以外の答えは何も思い付かない。けれども【欲しかったもの】とだけ書いたところで、ミユキは少しばかり考え込んでしまった。
(もしもわたしが大金持ちになって、欲しいものが何でも手に入るようになったら、わたしのしあわせはなくなっちゃうの?)
いくら考えても分からない。自分が大金持ちになる感覚など、貧しい家で育ったミユキには想像も及ばない。隣でシャーペンを持っているサチの顔を、ミユキは無言でうかがった。家が裕福なサチなら、あるいは答えを知っているかもしれないと思ったのだった。
サチはシャーペンを持ったまま、真っ白な紙を睨んでいた。ぴくりとも動かない。
「どうしたの?」
ミユキが尋ねると、サチは「ああ」と言って笑った。ミユキにはその表情は、なんだか無理をしているように見えた。
「ちょっとね、考え事してたの」
「考え事?」
「私にもハピネスドロップが手に入ったなら、どんなにいいかな……って」
ミユキは眉をひそめた。
「ハピネスドロップなんかなくても、平山さんは何でも買ってもらえるんじゃないの?」
「うん、まぁ。買ってはもらえるよ」
それならどうして、ハピネスドロップを欲しがったりするのだろう。ミユキは素直に尋ねようとしたけれど、サチの重たいまなざしを見て、なんだか気が進まなくなってしまった。
プリントにはまだ、何も書かれていない。
サチは何かに悩んでいるみたいだった。