(05)しあわせの連鎖
その日から、ミユキはしあわせでいっぱいの生活を送るようになった。
手元にあったハピネスドロップの数は、ぜんぶで十粒。みんなの噂話によれば、一日につきひとつずつまでしか効果はないらしい。いっぺんに使ってしまいたくなるのを我慢して、ミユキは一日一回の約束を懸命に守った。こんな楽しみな我慢だったら、何日だって続けていられるのに。
一日目。お父さんが持ち帰ってきた臨時ボーナスで、ミユキたち三人は近所のショッピングモールに出向いた。
ミユキにはずっと行ってみたかったお店がある。三階のレストラン街にある、地元の野菜を使った自然食バイキングのレストランだ。クラスの子たちが何人も食べにいって、そのたびに『すごく美味しかったよ!』と自慢話を聞かされていたのだった。
「せっかくだから、ミユキの行きたいところに行こうじゃないか。ミユキにはいつも我慢ばっかりさせてきちゃったしな」
お父さんはそう言ってくれた。ミユキは生まれて初めて、自分の我慢が報われたのを感じた。我慢した分だけ美味しさが増したように思えて、夢中で舌鼓を打った。三人で囲むテーブルも、ほっぺたが落ちそうなたくさんの料理も、どれもこれもしあわせすぎて、その日は布団の中までぽかぽかと温かかった。
二日目は土曜日。レストランだけでは使いきれなかったお金を持って、ミユキとお父さんの二人でふたたびショッピングモールに向かった。
「一万円以内なら、好きなものを買ってもいいぞ」
「好きなもの!? いいの!?」
「ああ、好きなものだ」
それならばと、ミユキはお父さんを自転車売り場に連れていった。欲しかったのは自転車ではなく、みんなが楽しそうに乗り回している一輪車だった。
これで、みんなが一輪車で遊ぶのにも入っていける!
買ったばかりの一輪車を胸の前に抱えて歩きながら、ミユキは張り裂けそうな期待に胸を膨らませた。日曜日は一日じゅう一輪車の練習をした。何度も転んで痛い思いをしたけれど、念願の一輪車を乗りこなしている嬉しさを思えば、どんな痛みにも鈍感になれた。
三日目。朝一番にドロップをひとつつぶして、ミユキは意気揚々と登校した。
「なんか、楽しそうだね」
隣のサチが話しかけてきた。うん、とミユキはうなずいた。
「実はね──」
「サーッチ、ちゃんっ」
女の子たちが押し寄せてきて、ミユキはあっという間に話の輪から追い出された。
いつの間にかユキナもリサコも、サチのことを下の名前で呼ぶようになっていたらしい。サチがまた一歩、自分から遠くなったように感じて、ミユキの肩はちょっぴり縮んだ。
「今日の放課後も遊べないの?」
「うん。ごめんなさい」
なぁんだ、とみんなは落胆を隠さなかった。それから、人数あと一人いたらいいのになー、なんて話しながら、どこかへ立ち去ってゆこうとした。
サチは人気者だ。いつも放課後の誘いを断るのに、みんなは必ずサチに声をかける。隣にいるミユキのことなんて、まるで気に留めようともしない。
でも、大丈夫。ミユキは机の下で、こぶしをぎゅっと握った。
(今日からの私には、あの一輪車があるんだから!)
勇気を振り絞って、ミユキは立ち上がった。そして、リサコたちの背中に声をかけた。
「あ、あの!」
リサコは振り返って、どうしたの、とばかりに首をかしげた。ミユキの身体はとたんに緊張でこわばって、ぎこちなくきしみ始めた。
「あの、その、わたし、今日は時間あるから、みんなと一緒に遊びたいな……って……」
胸がどくんと大きく鳴るたびに、ミユキの声は階段を落ちるように小さくなった。最後は自分の耳にすら届かなくて、失望に沈みながらミユキはうつむいてしまった。友達じゃないわたしが何を言っても、きっと聞いてはもらえないよな。すっかり気落ちして着席しようとすると、ぱたぱた、と音がした。みんながミユキのところに駆け寄ってきたのだ。
「マジ!? ちょうど人数が少なくってさ!」
「三沢さん、いつも独りで帰ってたから、うちらとあんまり遊びたくないんだって思ってた!」
独りで帰るようになったのは誰のせいだと思っているのだろうか。むっとへそを曲げかけたが、ミユキの抱いた喜びはそんなものでは帳消しにならなかった。ミユキは初めて、みんなに受け入れてもらえたのだ。
頑張って声をかけてよかった。わたしの勇気は無駄にならなかった。
胸を撫で下ろしたミユキに、ユキナは何気ない口ぶりで尋ねた。
「私たち公園で一輪車乗ろうと思ってるんだけど、もちろん持ってるんだよね?」
「うん。持ってるよ」
ミユキはためらわなかった。ためらう必要のないしあわせをかみしめながら。
四日目。
使い込んだミユキの筆箱が壊れてしまった。さびついた蓋がゆがんで、どんなに頑張っても開かない。家を飛び出したあの日、自分の部屋に投げ込んだのがいけなかったのか。
「どうしよう……」
半泣きのミユキに手を差しのべてくれたのは、隣のサチだった。サチは自分のシャーペンを差し出して、言った。
「あげる。これ、使って」
「えっ、でも」
「困った時はお互い様、でしょ。おしりにちっちゃな消しゴムがついてるから、消すときはそれを使ってね」
言われるがまま、ミユキはシャーペンを受け取った。本体にはサチのお父さんの勤めている会社の名前が書かれている。それ、うちに帰れば何本だってもらえるから。サチはそう付け加えて、恥ずかしそうに笑った。
サチには分からないに違いない。ミユキが今までどれだけ長い間、鉛筆を使っていたばっかりに周りからバカにされてきたかを。
(かわいいシャーペンとは言えないけど、そんなぜいたくなんか言わないよ)
初めてのシャーペンの使い心地にうっとりとしながら、ミユキは授業中に何度も教室を見回した。なんだか急に、自分が偉くなったような気がした。
五日目。筆箱が壊れてしまった話をしたら、お母さんは快くお金を出してくれた。
「必要なものはきちんと選ばなきゃいけないわ。好きなペンケースを買っておいで」
ミユキはすぐさま、ショッピングモールに走った。そうして一時間も悩みに悩んで、お気に入りのキャラクターの描かれた布製のペンケースを買った。
(ナナコアラのペンケース、ずっと欲しかったんだ!)
鼻先に葉っぱを乗っけたゆるキャラのコアラが、ペンケースの表で笑っている。ミユキは急いで家に帰って、サチからもらった宝物のシャーペンを大事に入れた。
六日目。いつもより遅く帰宅したお母さんは、ため息をつきながらミユキに言った。
「お母さん、異動になったのよ。今度から勤め先が図書館から市役所に変わるの」
「それっていけないことなの?」
「そんなことないわ。むしろ、お金の待遇はよくなるくらい。ただ、今みたいに家から近い図書館じゃなくなるから、帰りが今より遅くなる時もあるかもしれなくて……。ミユキを家で独りにするのは心配だわ」
「心配なんて要らないのに」
子ども扱いが気に入らないミユキは、口を尖らせた。「そういうところが心配なのよ」とお母さんも口を尖らせた。そして、上目遣いにミユキを見た。
「……ミユキも、もう四年生だもんね。そろそろ携帯電話を持たせても大丈夫かしら」
ミユキは驚いた。まさか、スマホを買ってくれるというのか。
誰もが持っているシャーペンや一輪車とは事情が違う。スマホを持っている子は、ミユキのクラスでもまだまだ少数派なのだ。
「最近は機種の値段もけっこう下がってるし、子ども向けのセキュリティもしっかりしてるし。ミユキとスマホで連絡が取れるなら、いざっていう時も安心だからね」
お母さんはもう一度、ミユキを見た。
「悪い使い方とかしないって、約束できる?」
「する。絶対するよ」
ミユキは首が痛くなるほどうなずいた。せっかくお母さんが乗り気になっているチャンスを、みすみす目の前で逃すわけにはいかないから。
お母さんはちょっと笑って「明日、買いに行きましょう」と言ってくれた。
ミユキはたちまち、クラスのみんなの羨望の的になった。
「うわ、ミユキがスマホ持ってる!」
リサコが悲鳴みたいな声を上げた。リサコが小さなキッズケータイしか持たせてもらっていないのを、ミユキはちゃんと覚えていた。
「機能の制限は厳しくかけられちゃったけど、電話とかメールとかは使えるよ」
「すごっ、めっちゃキレイな写真も撮れるじゃん!」
「ミユキに負けたー!」
いつもミユキを見下していた子たちが肩を落とすたび、傷付けられる一方だったミユキの心は、じわりと染みるように温かくなった。こうして身の回りのものが充実するたび、サチの隣に座るのが恥ずかしくなくなる。
「平山さん、連絡先、交換してもいい?」
ミユキはサチに声をかけた。サチはにっこり微笑んで、いいよ、と言ってくれた。
「せっかくだからメアドと番号だけじゃなくて、メッセージアプリの友達登録もしておこうよ。私のは、これ」
言われるがまま、ミユキはサチのスマホの画面に映ったメッセージアプリのQRコードを読み取った。
メッセージアプリはキッズケータイでは使えない。スマホユーザーだけの特権だ。
(わたしと平山さんの間だけの、特別なつながりだ)
ミユキは有頂天だった。顔をほころばせるミユキを見て、サチがくすっと笑った。
「三沢さん、嬉しそう」
「嬉しいに決まってるもん」
ミユキは少し温まったスマホを握りしめて、そう答えた。
ミユキの幸運は、それだけにとどまらなかった。
お母さんと買い物に行ったショッピングモールでクジを引いたら、二等賞が当たった。二等賞の賞品は、ミユキが一輪車と同じくらい欲しがっていた携帯ゲーム機だった。これさえあれば、天気が悪い日にもみんなの遊びに混じっていける。怖いものなど何もなくなったミユキは、家に着くまでひとときもゲーム機の箱を手放さなかった。
さらに次の日には、同じ団地に住むおばさんが回覧板を回しにやって来た。困り顔でおばさんが話すのを、お母さんの隣でミユキは聞いていた。
「うちの子が大きくなってきたから服の整理をしてるんだけど、一度も着てない冬用のダッフルコートがあってねぇ。しかもうちの子、もう袖が通らないみたいで……。古着屋さんに出すのももったいないんだけど、お宅のミユキちゃん、着られないかしら?」
「わたし、着てみたい!」
ミユキはすぐに手を上げた。ぱりっとしたウールのダッフルコートは大人っぽくて、お姉さんになりたいミユキの長年の憧れだった。「待っててね」と言い残したおばさんは、わざわざ家まで戻ってコートを取ってきてくれた。サイズは見事、ミユキにぴったりだった。
「断るのもなんだし、もらっちゃおうか」
お母さんも、そう言ってくれた。
こうしてミユキは一銭も支払うことなく、新品同様のコートを手に入れたのだった。さっそく鏡に向かって羽織ってみた。あれがない、これがないと嘆くばかりだった頃の自分を、もうミユキは鏡の中にどこにも見つけられなかった。
スマホ、一輪車、ゲーム機、筆箱、シャーペン、それからダッフルコート。わずか二週間のうちに憧れの品をみんな手に入れてしまったミユキは、この上ないほどの幸福感にひたっていた。いま、自分は世界一しあわせだと、胸を張って言えそうなくらいに。
(あのときハピネスドロップを拾って持って帰ってきて、本当によかった)
残りひとつになったハピネスドロップを眺めるたび、ミユキはしみじみと自分の判断を褒めるのだった。クラスのみんなと打ち解けたのも、サチへの劣等感を解消したのも、すべてドロップのおかげなのだから感謝したってしきれない。
今のミユキに悩みごとがあるとすれば、それはたったひとつだけ。最後の一粒をいつ使うかだ。ころころとピンク色のドロップを指先で転がしながら、ミユキはそのことばかり考えるようになった。