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(03)聞いてほしかっただけなのに

 



 マンションの前でサチを見送ると、取り巻きの女の子たちは賑やかに話しながら、もと来た道を西へ向かって帰っていく。もちろんミユキの存在には目もくれない。ミユキは黙ってその場を離れて、南の方にある自分の家を目指す。

 ミユキの家があるのは、駅から五分くらいのところにある古びた公営団地だった。三号棟の二階、二○一号室。住んでいるのはお父さんとお母さんと、一人娘のミユキだけ。

 その日は、二○一号室に電気が灯っていた。近所の市立図書館に勤めているお母さんが、今日は先に帰宅していたみたいだ。

 古びた廊下を歩いて、ミユキはチャイムを鳴らした。冷たい金属の玄関ドアは、ミユキの背丈と比べても狭く感じる。そのドアがおもむろに開いて、お母さんが顔を出した。


「おかえり」

「ただいま」


 ミユキは魂の抜けたような声で、そう返した。

 狭いのが玄関だけではないことも、ミユキは知っている。風呂はミユキの身体でちょうどいいほどの広さしかないし、ミユキの部屋はベッドを置けばほとんど埋まってしまう。

 台所の横を抜けて、ミユキは自分の部屋に向かった。忘れる前に宿題を片付けてしまおうと思い立って、ランドセルからプリントやドリルを引っ張り出した。最後に筆箱を取り出したところで、ミユキはふと、ため息を吐き出した。


(なんで、わたしはこんな古い筆箱を使ってるんだろう。周りのみんなは布でできたお洒落な筆箱を使ってるのに、わたしだけ……)


 筆箱だけじゃない。鉛筆だって、そのほかの文具だってそうだ。そもそもランドセルですら、近所の子が要らなくなった中古品をお母さんがもらってきたものだった。他の子たちのようなピカピカのランドセルなんて、ミユキは一度も背負ったことはない。


(わたしだけ……)


 ミユキは急に、悲しくなった。学校で感じる恥ずかしさと、かみしめた悲しみの味はよく似ていた。

 実のところはミユキだって理解していないわけじゃないのだった。ミユキの家が貧乏で、好きなものを買えるほど家計にゆとりがないことを。これまでにも、欲しいものができたと言ってお母さんにお願いをしては、その都度、厳しく言われてきたのだから。


「我慢しなさい。ミユキには悪いけど、うちはそんなにお金がないの」


 お金がない。ミユキの力ではどうにもならない現実が、いつも鉄のドアのように立ちはだかる。最近は『あれが欲しい』なんて思うこともなくなったし、仮に思うことがあってもすぐに諦めてしまうようになった。それでもやっぱり、欲しいものは欲しい。行きたい場所だって、やってみたい遊びだってある。


(だけど、どうせ何を言ったって、お父さんもお母さんも聞いてくれないもん)


 壁掛けの小さな鏡を覗き込めば、真っ暗なミユキの目が無言でうなだれる。いつしか『我慢しなさい』という戒めは、ミユキがミユキ自身に語りかける言葉になっていた。

 キッチンの方から、炊飯器のうなる声やフライパンの笑う声が聞こえる。

 冷たい筆箱を手に、ミユキは部屋のドアを開けた。それから、キッチンで夕食の準備をしているお母さんのところへ、とぼとぼと歩いていった。


「どうしたの」


 お母さんがまな板から顔を上げて、ミユキを見た。


「あのね」


 ミユキは首をすくめた。


「何日か前に、転校生が来たんだ」

「あら、そうだったの。知らなかった」

「それでね、その転校生の子、すっごくお金持ちなんだって」


 話の行き着く先を見透かしたのか、お母さんが目を細めた。ミユキは怖じ気づいて声を震わせながら、頑張って話を続けた。


「転校生の子はすっごくお洒落で、なんでも持ってて、周りの子たちからも羨ましがられてて……。わたしの席はその子の隣なんだけど、わたし、もう……」

「……ミユキ」

「あの子の隣、いたくないよ」


 ミユキは顔を上げた。目頭のあたりが熱かった。


「ねえ、なんでわたしの家はお金持ちじゃないの? 他のみんなが誰でも持ってるようなものを、どうしてわたしだけ持てないの? そうやっていつまで我慢し続ければいいっていうの? 持ち物のことでバカにされたり除け者にされるの、もういやだよ!」

「前に話したでしょ。お父さんもお母さんも、お給料がそんなに高くないの」


 こんなにもミユキが声を張り上げているのに、お母さんの声は落ち着いていた。


「こればっかりはミユキのせいじゃないわ。だけどお願い、分かってよ。お父さんだってお母さんだって一生懸命お仕事してるけど、どんなに頑張ったってお金持ちにはなれないのよ。だから余計な買い物はさせてあげられ……」

「もういいよっ!」


 ミユキは叫んだ。もういい、もうたくさんだ。そう思った。

 結局、何べん聞いたところで答えが変わることはないのだ。お母さんにとっては、ミユキの憧れなど『余計な買い物』でしかないのだと分かった。だったらもう、お母さんがミユキの気持ちを分かってくれる望みなど、これっぽっちもない。

 ミユキは玄関に向かって駆け出した。開きっぱなしの自分の部屋に、持っていた筆箱を放り投げた。ガランと筆箱の転がる音が響いて、お母さんの声が背中を追い掛けてきた。


「どこ行くのよ、ミユキ!」


 ミユキはお母さんの声を無視して廊下へ飛び出した。ひびの目立つ階段を一気に駆け降りて、建物の外に出た。どこでもいいから出ていきたかった。どこでもよかったけれど、ショッピングモールのある駅前の方には近寄りたくなかった。自分より裕福な家の子が楽しそうに買い物に興じている姿など、ぜったいに見たくなかった。

 家から遠ざかるようにミユキは走った。

 走りながら何度も何度も、あふれ出した涙を腕でぬぐった。こんな幼稚なやり方でしか、悲しみや屈辱を表現できない自分を、どうしようもなくみじめに思った。


「うっ……うぅ……」


 肩を震わせながら立ち止まると、そこは家から四分ほどのところにある、森のように木々の繁る公園だった。

 足が棒のようになってしまって前に進まない。くたびれきったミユキは近くのベンチに腰掛けた。じっとしているとすぐに涙が浮かんで、ぬぐってもぬぐってもあふれてきた。

 木々の向こうに、大きなマンションが建っているのが見えた。


(……平山さんの家のマンションだ)


 見覚えのある外見にぴんときたミユキは、どうしてこっちに来てしまったのだろうと後悔した。巨大なサチのマンションは、つぶれかけのミユキの心を踏みつぶすように立ちはだかっている。窓ガラスも電飾もピカピカで、ミユキの家の団地とは大違いだ。

 ミユキとサチでは家庭環境が違う。そんなことは誰にだって分かる、簡単なこと。


「分かってるよ……」


 ミユキは膝を抱えて、つぶやいた。

 お母さんに訴えたかったのは、そんな当たり前の事実ではない。このやりきれない胸のうちを、ほんの少しで構わないから知って、いたわってほしかっただけなのに。それさえ許されないなら、いったいミユキはどうすればいいというのか。行き場のない悲しみを持て余して、ミユキは顔を膝に押し当てた。

 足の間から、わずかに地面が見える。

 そこにぽつんと、あのガシャポンのカプセルが転がっていた。


「……あれ」


 ミユキは抱えていた膝を戻して、立ち上がった。少しばかり土がついて汚れた、ピンク色のカプセルだ。


(これ、いつも帰り道に見かけてた……)


 恐る恐る、カプセルに近寄って、そっと拾い上げてみる。あたりが暗いので、細かい部分はよく見えない。それでも不思議とミユキには、そのカプセルがいつも見かけていたものと同じだという確信が芽生えていた。

 思えば、このカプセルを見かけるようになったのは、サチがこの町に引っ越してきてからのことだ。道端の石ころになってしまいたいミユキの気持ちを代弁するように、いつも土にまみれて転がっていたっけ。

 ミユキは黙ったまま、カプセルを両手で包んで握りしめた。

 じわりと心が温もった。このカプセルはわたしの心そのものだ、とミユキは思った。

 持ち主の名前は書かれていない。持ち帰ったところで誰かにとがめられることはないだろう。この際、カプセルが相手でも構わないから、自分の思いを聞いてほしい気分だった。

 わたしはただ、ゴミ拾いをしただけ。

 そう言い聞かせたミユキは、それから家へ戻る道を、とぼとぼと歩いていった。




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