(02)大きすぎる落差
太陽が西の空に傾きはじめる頃、終業のチャイムが校内にひびき渡る。
「さようならー!」
日直の子のあいさつに口を揃えれば、放課後の始まりだ。さっそくサッカーボールを抱えた男の子たちが、先を争うように教室を出ていく。サチの周りにはふたたび女の子たちの人垣が生まれた。
「ねーねー、平山さんってどこに住んでるの?」
声をかけようとしたミユキを押し退け、みんなが口々に尋ねた。ミユキはまたもため息をついた。サチが通学路に慣れるまでは付き添うようにと、先生から言われているのに。
「東の方だよ。六丁目のサンライズ日の出の丘」
サチはランドセルを机にのせて、そう答えた。
「それ、もしかして建ったばっかりの大きなマンション!?」
「なんだ、それじゃ別の方向かぁ……」
「ねね、このあとどっかで遊ばない? 近くに大きな公園があるんだよ!」
無邪気な声が、ひとりで立ち上がりかけたミユキの心を深々と突き刺した。ダメ。誘われるのが羨ましいなんて思っちゃ、ダメ。ミユキは必死に自分に言い聞かせる。
「今日は、ちょっと……。用事があるから」
「それじゃ今度はぜったい遊ぼうね! 今度の土曜日とか、どう?」
「連絡先とか教えてよー」
仕方なさそうに、サチはポケットから小さな機械を取り出していた。羨ましさなど覚えてはならないとあれほど言い聞かせていたのに、ミユキは思わず息を飲んでしまった。このクラスでもほとんどの人が持っていない、ジュニアスマートフォンだった。
「スマホじゃん! カッコいい!」
「負けたー! あたしキッズケータイなのに!」
うるさい。心の中でミユキは毒づいた。そんなことを言ったら、キッズケータイすら持たせてもらえないミユキの立場はどうなるというのか。けれども考えれば考えるほど深みにはまってゆく予感がして、ミユキは口を閉ざしてしまうのだった。
ミユキの家やサチの家や、通っている小学校の学区のいちばん東にある。
大きな市の西の端、緩やかな丘の上に広がるミユキの町は、団地やマンションがたくさん立ち並んでいる住宅街だ。西陽に背中を照らされながら歩く帰り道には、これまではミユキ一人分の影しか落ちていなかった。でも、これからはそこにサチの影が加わる。いつもと違う感覚に慣れなくて、ミユキはずっと前だけを向きながら歩いた。
「このあたりって、すごく住みやすい所なのね」
サチが言った。
「そう、かな」
何か答えた方がいい気がして、けれども何と答えたものか分からずに、ミユキはもごもごと返事をした。大人びた社交辞令はミユキにはまだ上手にかみ砕けない。
「うん。だって緑が多くて、空気もきれいだし」
「それっていいことなの?」
「とってもいいことだよ」
ふぅん、とつぶやく。このあたりの空気がきれいだとミユキが思ったことはないし、それがどれだけいいことなのかも分からなかった。だってわたしとは育ちが違うんだもん。声には出さずに、そう言ってみた。
いじけて蹴り上げた足先が何かに触れて、かつん、と軽い音が響いた。びっくりして地面を見ると、ピンク色のガシャポンに似たカプセルがアスファルトの上を元気に跳ねて、どこかへ転がっていったのが見えた。
「あ、着いたよ」
サチの声に、ミユキはカプセルから目を離して顔を上げた。目の前には出来立ての大きなマンションが建っている。その入り口に向かって、サチが一歩を踏み出した。踏み込むことのできない見えない壁のようなものを感じて、ミユキの足は固まった。
「ここ?」
「うん。送ってくれてありがとう」
「別に……。わたし、先生から言われてたし」
クスッと微笑んだサチは、それじゃ、と手を振った。
「また明日も、よろしくね」
ミユキも黙って、手を振り返した。
明日からはわたしじゃなくて、取り巻きの子たちと一緒に帰りなよ。
そう正直に言えたなら、どんなに気持ちが楽になっただろう。
◆
次の日も、その次の日も、ミユキはサチの学校生活について回っては、横から助言やお手伝いをし続けた。それが先生との約束だったから。それ以上でも、それ以下でもない。
そんなミユキの姿を、クラスの女の子たちは可笑しげにバカにする。
「ミユキ、子分みたい」
「サチはお金持ちなんだから、おねだりしたら何か買ってくれるかもよー?」
そんな言葉をかけられるたび、ミユキはお腹の下のあたりから熱い何かが込み上げてくるのを感じた。わたしだって、好きでこんなことをしてるわけじゃないのに!
けれどもどんなに腹が立っても、隣に座っているサチが視界に入るたび、水を浴びたようにミユキの憤りはしぼんでしまうのだった。たとえ今の役割から解放されても、席替えでもしない限り、ミユキはいつまでもサチと比べられ続けるのだから。
そんな時、サチはいつも決まって何も言わず、机の模様を見つめていた。
サチのお父さんは、このあたりに事業所を持つ大きな会社の重役らしい。
「精密機械のメーカーなの。カメラとか望遠鏡とかプリンターを作ってるんだって」
帰り道、サチはそう教えてくれた。もちろんミユキが聞いたのではなくて、わざわざ遠回りして家までぞろぞろとついて来た女の子グループの誰かが聞き出したことだ。
「あたし、その会社知ってる! テレビでCM流れてるもん」
「それじゃ本当に大きな会社なんだ!」
まぁね、とサチははにかんだ。いよいよ隣にいるのが恥ずかしくなって、ミユキは懸命に地面を睨みながら歩いた。ミユキのお父さんは近所の自動車工場に勤めている。何をしているのかは知らないけれど、サチのお父さんとは多分、地位も収入も天と地ほど違う。
サチと初めて会った日の帰り道に蹴ったカプセルが、今日も道端に転がっていた。あのカプセルみたいに何気ない道端の風景になってしまいたい、とミユキは思った。
(そこにいても誰からも気に留められないようになりたいな……。そうすれば、いちいち平山さんと比べられることだって、なくなるかもしれないし)
そんなことを思うたび、ミユキはその場に立ち止まって泣きたくなった。地面を見ていると本当に涙があふれそうになって、あわてて空に目を向けるのだった。