(14)しあわせの姿
黒っぽいドレスのような服を着たサチは、ミユキが公園につくと、ベンチに座ってぼんやりと木々を見上げているところだった。
隣に座ったミユキに、サチは言った。
「……いきなり呼び出して、ごめんなさい」
電話をしていた時とは違って、サチの声は落ち着いていた。ミユキはあわてて言った。
「ううん。わたしはずっと暇だったから」
「そうだったのね。よかった」
それきり、サチは黙ってしまう。ミユキも真似をして、黙った。
ミユキはまだ一度も、お葬式というものに参加したことがない。ましてや、知り合いが亡くなったこともない。お葬式のこと、やっぱり聞いたらマズいよね。ミユキはサチのことをちらりと見て、ため息をついた。
かと言って、特に話せることがあるわけでもない。ユキナとリサコの仲たがいのことを話したくても、そんなことをすれば否応なしにハピネスドロップの話題に触れることになってしまうだろう。サチの前でだけは、ミユキはあのドロップの話をしたくない。
わたし、どうしたらいいんだろう。握った手を膝に押し当てたら、ぐすっ、と隣のサチが鼻をすすった。
「今日、最後に、コウキの寝顔を見たの」
「……うん」
「すっごく優しそうな顔だった。この街へ来る前、あんなに苦しそうにしていたコウキが、あんなにおだやかな顔で眠る姿なんて想像もつかなかった。コウキはきっと、苦しまないで死んでいったんだな……って、思ったの」
だから、とサチは続ける。
「あの日、あの病院で、私たちに囲まれながら命を落とすのが、コウキにとっては一番しあわせな結果だったんだと思う」
しあわせ、という四文字の部分だけ、サチの声は少し湿っていた。
「もしも私がミユキにハピネスドロップをもらっていても、たぶん私はコウキのことを長生きさせようとはしなかったと思うの。だってコウキはずっと苦しそうだったから。無理に生きて、苦しみを長引かせるくらいなら、自然とコウキが眠っていくのを見守ってあげたい。コウキが苦しむところなんか、私、見たくなかった」
ミユキはなだめられているような気持ちになった。ハピネスドロップを落としたと白状した時、自分は弟の命を奪ったのだと、ミユキは取り返しのつかない後悔に暮れていた。
そうじゃないんだよと、サチは言いたいのかもしれない。でも、とミユキは思った。
「弟の病気が治りますようにってお願いすれば、よかったんじゃ……」
「コウキの身体は限界だったの。どんな奇跡が起きても元には戻らない、せいぜい病気の進行を食い止められるだけだって、先生から言われてたから」
サチはうつむいた。
サチだって、病気が治れば何もかもが解決するのを知っていたのだろう。でも、治る見込みがないなら、苦しむコウキの姿を見ていたくないとサチは考えたのだろうか。
「……じゃあ、サチがハピネスドロップを持っていたら、どんな風に使いたいと思ったの?」
ミユキは、尋ねた。
サチは笑った。
「もう使ったよ」
「えっ?」
「ミユキが謝ったあの日、私がお願いしたこと、ミユキはちゃんと守ってくれてるじゃない。だから、私のしあわせはもう叶ってる」
ミユキが知りたいのは、まさにそのしあわせの正体なのに。
ミユキは自分のしてきたことを数えてみた。一緒に帰ったり、遊んだり、話したりした。特別なことは何もしていない。普通の『しあわせ』の方が、私には何倍も嬉しいの──。そういえば以前、サチはそんなことを言っていたっけ。
「私、こう見えてもすごく、寂しがり屋なの」
サチは照れたようにうつむいた。
「父も、母も、昔からなかなか家にいてくれなかったから、私の遊び相手はいつもいつも、弟のコウキばっかりでね。だけど、その遊び相手のコウキが入院して、めったに会えなくなって……。家族が健康だったらどんなにいいだろうって何度も思った。そうしたらコウキが入院することもないし、そうしたら私はしあわせだな、って」
「…………」
「でも、コウキの病気が悪くなってからは、コウキに長生きしてもらうのは自分勝手だと思い始めた。だってそれは結局、私が寂しいからコウキに生きていてほしい、って思っているわけでしょう? そんなときにハピネスドロップのことを聞いて、私、思った。ハピネスドロップがあれば、私はコウキに頼らずに済むかもしれない。私の相手なんかしないで、コウキは病気にゆっくり向き合えるようになるの。そしたらみんながしあわせになれるって」
サチはそこまで言ってしまうと、ミユキの方を向いた。
「サチ……」
ミユキは思わず、サチの名前を呼んでいた。サチは小さくうなずいた。
「コウキが死んじゃってからの時間、すごく寂しかった。それこそハピネスドロップがほしいくらい寂しかった。でも、コウキの代わりに、ミユキが一緒にいてくれた。ミユキのおかげで私、寂しくなんてなかったの」
「……それは、わたしじゃなかったらダメだったの? 落川さんとか上田さんとか」
長いあいだ聞けずにいたことを、ミユキは恐る恐る、口にした。
どきどきしたのも一瞬だけで、すぐにサチは、ああ、と笑った。
「あの人たち、私がちょっと裕福な家だからって、馴れ馴れしく近付いてきたでしょ? ああいう人は私、嫌いかな」
「…………」
ミユキにもその気持ちは、少しだけ理解できるような気がした。ミユキだって、色んな物を持っていないというだけで仲間に入れてもらえなかった時期があったから。
サチはミユキの目を、じっと見た。
「でも、ミユキのことだけは信じられた。親切で素直なミユキになら、私の相手をしてもらうのを頼めるって思ったよ」
「あ……ありがとう」
「ありがとうは私のセリフだよ。仲良くしてくれてありがとう。私のことを独りぼっちにしないでくれてありがとう。ミユキのおかげで私、いつも笑って、コウキのいなくなった悲しみを忘れていられたんだから……」
サチは最後まで言い切る前に、また、ぐすんと鼻を鳴らした。
今度はわたしの番だ。ミユキはポケットからハンカチを取り出して、サチに手渡した。
「これ、使って」
「ありがとう……っ」
涙をこぼしながら、サチはミユキのハンカチを受け取ってくれた。その顔に、すぐにふんわりと、さっきの微笑みが戻ってきた。
「ミユキは、優しいね」
サチは泣きながら、笑っていた。
ぷちっ。
あたりにかすかな音が響いた。
ミユキの鼻の周りを、懐かしい香りが漂った。甘くて、爽やかで、ほんの少し酸味も混じっているような香り。ハピネスドロップをつぶした時の匂いに、あまりにも似ていた。
(これって……)
ミユキは驚いて声も出なかった。そんなはずはない。ミユキも、サチも、ハピネスドロップは持っていない。薄暗い公園の中には、ミユキたちの他に人影はなかった。
「サチ、この匂いって……」
ミユキが聞くと、え、とサチは聞き返した。
「なんのこと?」
サチには感じられないらしい。ハピネスドロップでしか嗅いだことのなかったあの香りが、ミユキにだけ感じられる。その意味を、ミユキはすぐに理解できなかった。
(そうだ。このベンチのすぐ近くで、わたし、転んでハピネスドロップを落としたんだ)
見覚えのある景色に、ほろ苦い失敗の記憶がよみがえる。あのときミユキはやはり、転んだ拍子にドロップをつぶしてしまったのだろうか。もしもそうだとしても、時間が経ってから効果が出てくる理由には説明がつかない。──くたびれた頭がこんがらがってしまって、ミユキはとうとう考えるのをやめることにした。
広げた手のひらの中には何もない。
でも、しあわせな気持ちは確かにここにある。そう思えたからだ。
色んなことがあったけれど、最後にはミユキのおかげでサチは笑ってくれた。ミユキは間違いなく、サチをひとりぼっちにしないために力を尽くすことができたのだった。
じわりと身体の奥が温まった。一輪車も、ゲーム機も、スマホも、すべてはこのためにあったのだとミユキはようやく思えた。十年もの間、ひとりで探し続けた大切な何かを、この場所で見つけたような気持ちになった。ミユキのそばにはサチがいる。学校へ行けば友達がいるし、家に帰れば家族がいる。ミユキはもう、何も持たない灰かぶり姫じゃない。ひとりぼっちの暗闇から這い出して、誰かのしあわせを願える少女になったのだ。
(これが、しあわせなんだ)
気づいたら、ミユキもちょっぴり、泣いていた。




