(11)「サチ」と「ミユキ」
ミユキとサチは、一緒にサチのマンションまでの道をたどった。
サチのマンションは本当に大きくて、小学校の校庭からも頭が見えてしまう。あれがゴールだ、とミユキは焦った。あのマンションの前に着くまでに、言わなきゃと思った。
だが、話を切り出すタイミングが、なかなか来てくれない。
黙ったままのミユキに、サチがぽつりと話しかけてきた。
「あの、三沢さん」
「うん」
「前から言いたかったんだけど、私のことは『サチ』って呼んでくれて構わないからね。他の人たちもそう呼んでる」
そんなことを言われても、わたしに平山さんを気安く下の名前で呼ぶ資格なんかないよ。ミユキは目頭が熱くなった。にじんでゆるんだ目に、あの日、サチが泣きじゃくっていた病院の建物が映った。
病院の横を通りすぎながら、ミユキは尋ねた。
「平山さん、一輪車って持ってる?」
「『サチ』でいいのに……」
不満げに言ったサチは、首を横に振った。
「前の家の周りは坂が多かったから、一輪車は危ないって言われてたの。興味はあったけど、買ってもらわなかった」
「じゃあ、ゲーム機は?」
「それも目が悪くなるからって止められて、買えなかった。よく友達に借りて遊んでたよ」
ミユキは少し、安心した。遊びたくないわけではないみたいだ。それなら、一輪車もゲーム機もサチにあげてしまおう。もともとサチの物のようなものなのだから、正しい持ち主のところに返るだけだ。もちろんそれだけでは埋め合わせられないかもしれない。そうしたら、お母さんの言うように許してくれるまで謝るつもりだった。
マンションの入り口が見え始めている。
ミユキは固めた拳を、強く強く、握りしめた。
「あのね」
ようやく、ミユキは言えた。
「わたしのところにある一輪車とゲーム機、平山さんに、あげる」
サチはきょとんとして尋ね返した。
「どうして? 買ってもらったばっかりじゃなかったの?」
「わたしの手元にあってはいけないものだから」
ミユキの言葉に、サチはさらに表情を曇らせた。ミユキは五本指を立てて、それを順番に折った。
「一輪車も、ゲーム機も、スマホも、筆箱も、それからダッフルコートも……。わたしがいっぺんに手に入れたものは、ぜんぶ……ハピネスドロップのおかげだったの」
えっ、とサチが声を上げた。
「ハピネスドロップ、持ってたんだ」
「うん。一ヶ月前、平山さんがこの街に来て少しした頃に、そこの公園で見つけた」
ちょうど隣に、あの公園が広がっていた。園内を見やったミユキは、次に口にしなければいけない言葉が一番苦しいものだということに気づいて、必死に深呼吸をした。
「そのハピネスドロップ……本当は、平山さんのものだったんだと思う」
「私?」
サチがすっとんきょうな声で聞き返した。サチがどんな顔をしているのか、ミユキにはとても確かめる勇気はなかった。
「上田さんが言ってた。ハピネスドロップは家のすぐ近くにあって、欲しい欲しいって思っていると見つかるんだって。だけど、この公園はわたしの家の近くじゃないし、わたしがハピネスドロップのことを知ったのなんか、それを拾った後だった。そうとは知らずに、わたし、十粒のうち九粒も、一週間と少しの間に使い込んじゃって」
白状しながら、ミユキはひどくみじめな気持ちになった。
ミユキにとってのしあわせなんて、こんなものなのか。
手に入れた瞬間は確かに嬉しかった。その気持ちを否定することはできない。だけど、こんなに後悔する日が来ると知っていたなら、一輪車なんて欲しいとは思わなかったのに。
わたしの心って、汚いんだな。みにくいんだな。
そう思ったら、余計に悲しくなった。
「平山さんはハピネスドロップを知ってたんだよね。前の街で聞いたことがあったって言ってたもん。だから、あれはきっと平山さんのために落ちてたドロップで、わたしなんかが使っちゃ、いけなかったんだと、思う」
ミユキは目を潤ませながら、懸命に話し続けた。サチは何も言わなかった。
「平山さんの弟が死んじゃったって聞いて、それで初めてわたし、平山さんのものだったんだって気づいて……。だから、急いで帰って、残り一粒になっちゃったハピネスドロップを、返さなきゃって思って。……そしたら、この公園の中で、転んで」
ミユキの目から、涙があふれた。
「最後の一粒がどこに行ったのか、分からなく、なっちゃった……っ」
ごめんなさい。本当にごめんなさい。こんなことになってしまってごめんなさい。
どうにか言葉で伝えようとしたけれど、ミユキの口からはしゃくり上げる声が漏れるばかりだった。悔しくて、情けなくて、ミユキは涙をぼろぼろ流しながら、公園の真ん中で立ち止まってしまった。
すると目の前に、サチのハンカチが差し出された。
「……泣かないで。もう、いいから。それ以上は言わなくていいから」
サチの声は震えていた。怒っているのだとばかり思ったミユキは、頭を深々と下げた。許してくれるまで、謝る──お母さんの言葉を思い出しながら。
「ごめんなさい……っ。わたしが取ったりしなかったら、平山さんの弟だって、助かったっ……かもしれないのに……」
「もういいからっ!」
サチが叫んだ。それから、ミユキの胸にハンカチを押し付けた。ミユキは息ができなくなりそうだった。
「お願い、もうやめて。私、せっかく昨日、コウキが死んじゃったのはどうにもならないことだったんだって思えるようになったのに……」
苦しそうに言ったサチは、ミユキの肩を手に取って、持ち上げた。サチは無理やり笑って、また口を開いた。
「そんなに言うなら、私の願い、聞いてよ。『サチ』って呼んで」
「……サチ」
「うん。それでいいの」
サチはうなずいた。
どうして名前で呼ぶことにそんなにこだわるのか、ミユキにはちっとも理解できなかった。それよりも、勇気を出して口にした謝罪がサチを怒らせてしまったことがショックで、ますます涙があふれた。ハンカチは溶け出したミユキの心でびっしょり濡れていた。
小さくなったミユキに、サチは尋ねた。いつもと同じ、サチらしい優しい口調だった。
「この公園で落としたんだよね、ハピネスドロップ」
「うん……」
「じゃあ、こうしよう。その最後の一粒、私が使ったことにする」
え、とミユキは尋ね返した。ドロップの効果もないのに、サチはどうやって『しあわせになった』ことにできると言うのだろう。
サチは言った。
「だから三沢さん、私の思うしあわせを実現するのに協力して。私と一緒に遊んだり、話したりする相手になってくれるだけで構わないから。簡単でしょ?」
確かに簡単だ、とミユキは思った。でも、それはミユキでなければいけないのだろうか。サチの周りにはいつだって、たくさんのクラスメートたちが集まっているのに。
(それとも、わたしに罪滅ぼしの機会を作ってくれようとしてるのかな)
少し合点のいったミユキは、うなずいた。ここで断ったら、それこそサチを傷付けることになると思った。サチはそれを見て、さらに聞いた。
「それと、私も三沢さんのこと『ミユキ』って呼ばせてもらってもいい?」
「いいけど……どうしてそんなに、優しいの」
ミユキは思わず聞き返してしまった。怒っていると思っていたのに、サチの要求はどれもあまりに普通のことばかりで、ちぐはぐに感じられたから。
サチは少し考えて、答えた。
「普通の『しあわせ』の方が、私には何倍も、嬉しいの」