レイモン編 7
七〇〇年以上の昔。世界にはダヴィオニアという名の帝国以外、国はなかった。
有象無象、幾百幾千。世界各地に大小様々な国家群が乱立する現在からは想像すらつかぬ、単一権威による世界の統治。
人の手が及ばぬ魔境の広大さ、支配の及ぶ領域とそこに住まう人々の数が想像よりは少ないものであったとしても、対象は全世界の総人類。文化も違えば言語も異なる様々な者たちを同一の文化・価値観で統一するなどとは、冥暦700年代の常識から考えたら論ずることすらあたわざる妄想と言うべきだろう。
その妄想を、まがりなりにも可能にしていたのがダヴィオニアという帝国であり、その帝国を支えたのが魔法と霊力という、二つの力である。
片や、魔法。
ダヴィオニアを世界の覇者たらしめた神秘の術の片割れ。森羅万象の理を読み解き、己が目的のために再構築させるための法。その神秘は、外は天の気候を操り地の様相を変動させ、内は他者の深奥を垣間見その心を絡め取ったという。
そんな圧倒的な力の前に、世界は変容を余儀なくされた。魔法を繰る魔術師の民たちの前に、数多の民族が蹂躙され、ある民族は隷属を強いられある民族は滅ぼされた。
片や、霊力。
自然のまま――造物主が造りたもうた世界は、ありのままこそが望ましい。そうする者たちは、神に仕える官、“神官”と呼ばれた。神、あるいは人が神と呼ぶ存在は、そんな自らとその教えに従う人々を“善しとし、自らの力の一部を貸与し、彼らの勢力の拡大に助力したという。
神霊よりの助力を行使する――故に“霊力”。魔術師たちの力が“魔法”と呼ばれるようになったのに対して、彼ら神官の司る力は“霊力”という名で呼ばれるに至る。
そうして、ダヴィオニアが強盛なりしといえどまだ世界の主ではなく辺境の一部に覇を唱えている一部族に過ぎなかった、三〇〇〇年以上の昔。神官たちは、そんな天変地異をも引き起こすダヴィオン族の魔術師たちの強大な力を“人の驕りを増長させる魔の術法”と称した。そして魔法を危険なものと判断し、神と共にあることを選んだ者たちはそうした理由によって魔法を操る者と相反し、殺し合った。
しかしそれは。数多の民族が魔術師の一族に服従、ないしは滅亡させられた歴史と照らし合わせて見てみれば、逆に天を変え地を異なるものにする秘技を用いる人の形をした超越者たち――魔法という天変地異を操る魔術師に対抗することが出来たのは、そうした、神霊より奇跡を授かり、その意思を代行する神官たちだけであったということでもあった。
そんな、魔術師と神官たちの歴史が互いの血で綴られるようになってからさらに約一〇〇〇年。それだけの時の中で亀の歩みよりもなお遅く、双方の間に不戦協定らしきものが、次いで協力体制らしきものが、次いで血の交わりが、同盟が、流される血の量とその速度とは反比例してゆっくりと、ゆっくりと結ばれていった。
その末に。魔法も霊力も持たぬ他民族は、そんな二つが同盟した連合勢力に抗すること叶わず、次々と屈服してこれに取り込まれ、一大勢力となって世界を席巻。これが、冥暦七〇〇年代現在より一万年の後、年号が冥暦から大陸暦の世になってもなお語り継がれる、最初にしておそらく最後とされる世界統一国家、神聖ダヴィオニア魔導帝国の興りである。
その伝説に準えれば、魔術師と神官の軋轢は当の昔にぬぐい去られていた筈であり、事実、ダヴィオニアの政は高位の魔術師と神官が運営していたと記録は語る。全世界の上に君臨することと同意であったダヴィオニアの帝位に就く者ともなれば、魔法と霊力という水と油のような関係の二つの力を同時に精通せねば継承を認められなかった、とも。
だが、それはどこまで行っても建前に過ぎなかった。
ジュリエットのような、帝国滅亡から今日まで魔導貴族としての血が色濃く残っているような名家の人間であらば。記録と、何よりも今日まで続いている魔術師と神官の暗闘を直に経験した実経験で知っている。有史以来、魔術師と神官が一度たりとて相手側を心から信用したことなどなかったことを。
魔術師と神官が手を携えて樹立させ、三〇〇〇年運営したとされるダヴィオニアの帝国時代でも、皇帝の目が届かぬ場所――辺境で、宮廷の陰で町の裏道で夜の闇に紛れて。隙あらばと互いは帝国内での自己の勢力拡大を理由に陰で相争ってきたのだ。
しかしそれすらも、七〇〇年以上の昔に終焉したことである筈だと誰もがつい最近まで思っていた。世界を席巻した帝国ダヴィオンは滅び、魔術師と神官たちを統括していた皇室と、その周囲を固め帝国を支えた十二家、三王九公家も世界各地に散り散りとなり、散った先の民草をある家は支配しある家は指導し、かつて帝国に隷属を強いられていたモンスターたちが辺境の魔域から溢れ出て人の文化圏を侵さぬよう、その帝国時代より引き継いだ魔法の、霊力の神秘を以て戦っている。今は人同士が争っている場合ではなく、人が総力を上げてモンスターたちを退けることの方が大切である、と。
そして、その暗黙のルールを破ったのがこのルセリナに侵略してきたマリナス教国である。
先に述べたように、かつて魔術師と神官の軋轢があったのだとしてもそれは七〇〇年前の帝国滅亡を契機に捨て去らねばならなかったものの筈であり、そのようなものを引きずっていては人類はかつて支配していたモンスターたちの反攻により滅ぼされることは必死であった。
そのこともあって、マリナス教国が大陸からやってきた当初、ルセリナの対応は敵愾心や反発心というものとは無縁であった。むしろ、大陸から離れていて魔導と精霊信仰に偏重していた島の文化に神への敬虔な教えが加わることは、古来からの帝国文化への良い形の回帰を果たせるのではないか、との期待すら持っていた人間がいた程である。
だが、その期待は後に、ものの見事に破られることとなった。
マリナス教国がルセリナ諸島に聖堂騎士団を派遣してきてより今日まで、正当な手順を踏んでの礼儀正しい形で、とはお世辞にも到底言えぬ有様で政治に口出しをしてきており、心あるルセリナ人はマリナス教国に対して眉をひそめていたのだが、今より十数年前、先代ルセリナ王が崩御すると、ルセリナ王室がひとつインドゥライン家の幼姫ダフネを担ぎだし傀儡にして実権を握った。
そこまででも、いい加減ルセリナ人の反感は溢れかえる寸前のコップの水がごとく臨界点に達していたが、その数年後にあろうことか楽譜関連の書物を収集・焚書したことで反マリナス教国は気運は決定的なものとなった。
マリナス教国いわく、歌は浪費を招く。楽器を作り楽団を組織して演奏させる費用があるのなら民草へと還元せよ。楽音に耳を傾けそこに口から歌を乗せる暇があるのなら政務に精勤せよ。楽音は、神を称える神殿聖歌のみが唯一正しき楽音である……
魔導と楽音には密接な関わりがあることは、魔術に触れている人間であれば齢一桁の童子ですら感覚で理解している。優れた魔術師であるということは、優れた音楽家であることとほぼ同義であるからだ。正しい音律を踏めぬものに、どうして複雑怪奇な魔法の詠唱を最後まで編み上げることが叶うだろう。
ルセリナ島が大陸の旧帝都より離れており、神魔融和文化の感覚が薄く、魔法の文化に偏重していることは先に述べた。そしてその事実は、長い年月を掛けてルセリナ人の中に音楽を愛する心を育む理由のひとつとなった。
ジュリエットとヴィオレーヌのなれそめは音楽であったが、それは彼女たちだけが特別音楽が好きたったからという訳ではない。ルセリナで育った者ならむしろ納得できるくらいの話と受け止められるくらい、ルセリナの人々は音楽を愛して止まないのだ。
であればこそ、それまでに築き上げてきた音楽、先日たちが魂の苦悩と喜びを綴った楽譜を火に投じ焼き払った野蛮人たちなど、許せる道理がなかった。それまでは『ここで反発しては帝国時代以前の神官・魔術師間が争った暗黒時代に逆戻りする』と、比較的大人しくマリナスの強引さを見逃していたルセリナ人たちも、その日を境に各地で反マリナスの旗色を示したのである。
それは、当時幼かったジュリエットも同様である。あいつらとだけは一緒に暮らしていけねぇ、どうあってもこの島から叩き出してやる。イヤだってんなら皆殺しだ――と、旧ルセリナ王国王都で楽譜を薪代わりに燃え盛る炎の柱に、母・サビーヌの衣服の裾を固く握りしめ涙ぐみつつ誓ったものである。
で、あるのにも関わらず。
「ね? ね? 助かったでしょー? 殺さなくて良かったでしょー。良かったねぇ山賊さん」
今し方、眼前の敵を焼死寸前の致命傷から生存へと転じさせた救命の主とも思われぬ。まるで母から褒められた幼女のような、あどけない笑みを浮かべる少女の姿を、ジュリエットは凝視せずにはいられなかった。
ルセリナにも、神を信仰する一派はいる。しかし今し方ユルシュルがジュリエットの前で行ったような、焼死寸前の致命傷を負った人間を一瞬で快癒させるなどといった、それこそ神の御業の具現とでも言うべき奇跡を起こし得る者など皆無であろう。そこまで神を信じ抜くこと、すなわち神に対して絶対の信仰を抱くには、ルセリナは魔術文化に偏りすぎており、神よりも精霊たちへの敬慕の方が強く育つ環境であったから。
ゆえにその業、その結果を見れば、ユルシュル、彼女がルセリナではなくマリナスの、引いては大陸の人間であるということは大体察しが付く。
――さて、どうしたものかな。
マリナス教国断じて許すまじ、叩き出すだけでは生ぬるい、いっそルセリナにあるマリナス人は皆殺しにせよ――そのような風潮となっているルセリナの一地方の覇者として、今ジュリエットは『優れてはいるけど軍務以外の際には仮死よりもなお深い眠りについている』と黒髪の親友から称されている脳細胞をフル回転させていた。
今、ユルシュルが示した霊力の発露は、神への信仰をこそ唯一絶対の価値とするマリナスの神官たちの中で見ても、高水準のものであったろう。とするならば、なぜそれほどの高位神官がこんなところにいるのか、という当然の疑問が沸く。
普通に考えれば、まっさきに思いつくのはマリナスがスパイン王国の内情を探るために放ったエージェントという線だ。
しかしこれはありえない、とジュリエットは真っ先にその可能性を却下している。マリナスのスパイであったのなら、わざわざ国王と知れた自分の目の前で、山賊の頭ひとり助けるために高位の霊力を披露する筈はないし、そもそも生存の難しい、危険極まる歩兵隊に紛れ込む筈もない。仮にマリナス側とこのユルシュルが、スパイン国王の無聊とその解消としてのお忍び、歩兵隊への潜伏を読み切り、その上でジュリエットに近づいたというのならば話は別だが、そのような可能性は万に一つもありえないであろう。
だからこそ、優れてはいても普段は寝てばかりいる脳を叩き起こして思考を巡らせる。これほどの高位神官が、どうしてこんな場所にいるのか、と。
そして。もうひとつ考えなければならない案件があった。
「私は……生きて、いるのか……? いや、確かに全身が焼けた感覚があった。そんな筈は……」
レイモン=ミシェール。
ユルシュルがその霊力によって、致命傷から奇跡の生還を果たさせた山賊の頭目。こいつの処置をどうするか。これも頭の悩ませどころである。
放任はありえない。それではスパイン王国の君主として、領地を侵した者への示しがつかなくなる。しかし、下手に従属を迫れば自害しかねないくらい気高い男であろうということも、なんとなくジュリエットは嗅ぎ取っている。
目をきつく閉じて、コツコツとケルベロスの柄で広いオデコを叩く。その刺激に応えるように、ひとつの解をジュリエットの脳は出した。
うつ伏せた状態からひざまづく格好で起きあがり、両手を眺めやっているレイモンに、ジュリエットはゆっくりと歩み寄る。
「よ。調子はどうだ?」
「……すこぶる良い。いっそ、燃やされる前よりも」
さもありなん。その返事を、ジュリエットは別段意に介さなかった。
神の代行として、その奇跡を地上に具現させるという霊力。その力で蘇生されたというのなら、負った火傷は元より、それまで煩い肉体を蝕んでいたであろう大小様々な怪我や病魔を取り除いていたところで不思議はないからだ。
「ま、とりあえずこれでも羽織んなよ。イケメンの裸体は目の毒だ」
「……………黙って渡してもらいたかったものだが」
ジュリエットは、自身が羽織っていた夜着をレイモンに投げかけてやった。肉体は蘇生しても、衣服まではそうもいかなかったのである。跡形もなく焼け散った上着の代わりに、レイモンはスパイン国王の夜着を肩からまとった。山賊に王が着衣を授ける、それだけでも別の国であれば信じられないような話ではある。
「さて。死ななかったからって、それでハイ良かったねえ――って訳にゃいかないぜ?」
「うんうん、良かったねぇ……て、え、終わりじゃないのジュリちゃん?」
すっとぼけた発言をしたユルシュルには応えず、視線を交錯させるュリエットとレイモン。
「……覚悟はしているつもりだ」
一方は国を治める王であり、一方はその治める地を荒らした賊である。加えて、その賊は尊人である王に直接刃を向けた大逆の徒。
どこをどう考えても、情状酌量の余地はない。
そのことは重々承知と。レイモンは今更見苦しく逃げようとしたり無駄な抵抗を見せたりはしなかった。
死の瀬戸際に、王より直々に衣服を与えられるという名誉。たかが一介の山賊の頭目に過ぎぬ身を鑑みれば、死出の旅立ち、冥土への土産にしても過分に過ぎるとすら言えたろう。
「おやおやー? なに、随分しおらしいじゃん。なに? もう反抗は終わり? 私を切り倒して逃げるとかしねーの?」
「あれだけ圧倒的な力を見せられてはな。二度どころか三度挑もうと勝てはしまいよ」
自嘲気味に笑うその顔に、先の憑かれたような色はない。男女の差別や、無理にでも母の無念を晴らそうという片意地のようなものが。
レイモンの母のことをジュリエットが知る由はなかったが、それでも眼前の山賊が自分に圧倒的に敗れることで憑き物が落ちたことは感じ取った。
『んじゃ改めてお裁きー。私の領地を荒らして回ってくれちゃった罪、スパインに属してちゃんと働いて償うことー。以上』
ジュリエットの気性を考えれば、本来、言うところはそのようなところであったろう。事実、別の要因が絡んでいなければ、間違いなくそれか、それに類する言葉を告げてレイモンを赦し、そして従うも善し、跳ね除けて自害するもまた善し、としていたこと疑いない。
だがこの時、ジュリエットは常の度量でこの場を収めようとしなかった。
「いい覚悟じゃん? せっかく死に掛けていたのに、可哀想になー。なまじ蘇生なんかしちゃったから、二度の苦痛か。ま、恨むんならそこの神官さまを恨みな?」
言って、澄んだ金属音を響かせケルベロスを抜き放つジュリエット。それを見てレイモンは、表情を神妙な面もちに変え、これから与えられるであろう“死”に対して覚悟を定めた。