レイモン編 6
年代記に記され、後世に伝えられていくことはほぼ間違いない伝説級の優雌が、それに相応しい超級の武器に施された封印を解き放った。
その様を目の当たりにしていてなお、ただ指をくわえて立ち尽くしているだけの愚者では、レイモンはない。
ジュリエットが冥獄の双剣に解封の呪文を叩き込み、戦闘の準備――否、彼我の戦力差を思えば、それはジュリエットの狩猟と称した方がより正確であったかも知れないが――を整えるのとほぼ同時に、レイモンは裂帛の気合いと共にジュリエットに向けて駆けだし、魔法の詠唱を始めた。
レイモンが唱えたものは、複雑な詠唱を必要とする攻撃魔法の類ではない。純粋に、自らの身体能力を高める付与魔法だった。
高めた能力は、俊敏性。その魔法を唱える前より、ジュリエットを目指したレイモンの視界には瞬く間に相手の姿が近づいて見えたが、それが魔法によって倍加され、その姿は等身大とほぼ同一となった。
そうして距離を一瞬にして縮めると、レイモンはジュリエットに向けて得物のシミターを繰り出した。
踏み込み、突き出し、切りつけ、薙ぎ払う。
言葉にしてしまえばただそれだけの行為だが、魔法による能力の底上げにより、息をつく間もなく叩き込んだレイモンの斬撃。凡百の新兵であれば瞬時に5人や10人は切り倒すに足る殺傷力を秘める、一連のその攻撃。
それを。――ジュリエットはむしろ、楽しげな遊びを見つけた物心つかぬ童女の表情すらその可憐な顔に閃かせ、こともなげにその全てをあっさりと防いだ。
その事実を。無心で受け止められたなどとは断じて言えぬ。
裂帛の気合いと共に振り降ろす一撃一撃に、レイモンは必殺の威力を乗せて放った。であるのにそれを鼻歌交じりに止められたとあっては、背に冷たい汗が流れたとて何人がレイモンを惰弱と非難し嘲笑することができたろう。
それに、レイモンにはひとつの確信があった。
彼の優雌が握るは、一説には兄弟犬との見解も存在する、地獄の番犬と冥府の猟犬の名を冠する一対の双剣である。そして番犬は鉄をも溶かす獄炎を、猟犬は魂すら凍てつかせる吹雪をそれぞれ吐き出すと伝承は語る。それによって、死者・亡者の類を退け、駆り立てるのだと。
であるならば。
それらの名を冠した双剣の担い手に、猶予を与えるということは――
「――時間切れだ」
その笑みに孕まれた危険さを。所持する剣の名の元となった存在、ケルベロスやオルトロスのような、などとは称すまい。
何故なら、ジュリエットのそれは飼い慣らす者としての笑み、主人として凶猛な犬たちを駆使する者の笑みであったから。
「お前も、男ごときの分際で戦に首ぃ突っ込んだからには――」
レイモンは、ギリギリの一歩、矜恃が崩壊し顔が恐怖にひきつる寸前で精神的に踏みとどまり、大急ぎで対炎耐性の防護魔法の詠唱に入った。
――こいつから、生き残ってみせろ。
レイモンの、そんな防護魔法が完成するかしないかといった瞬間に、ジュリエットの右手に握られた“番犬”が、捻りを入れて突き出された。
次の瞬間。突き出された短剣から紅蓮の閃光が吹き出て、次いで熱風が周囲に拡大した。
それは直径20メートルあまりにもなろうかという渦状の炎となって、レイモンを周辺の包み込む。
炎が、嵐となって吹き荒んだ。
――それを。“まるで地獄のようだ”などとは称すまい。
真に地獄があり、そこに番犬があって門を侵す者を焔で嬲るというのであっても、
――これほどの熱量、破壊力など必要ない……!
ジュリエットの魔法剣から吹き出された広大な爆炎の渦に吹き飛ばされ、猛風の中のいと小さき木の葉のように宙に舞いながらも、歯を食いしばり、耐熱防護魔法の維持に全魔力を注ぎ込む。一瞬でも気を緩ませれば、待っているのは確実な死だった。
自分が何者に挑んだのか、ことここに至ってようやくレイモンは実感として理解できたような気がした。
魔導貴族――かつて、全世界を席巻せし帝国の、礎を担った支配階級者たちの末裔。
生まれついた魔力の素養によって、優遇・冷遇が定められた帝国。男は女よりも総じて魔力の素養が低く、自然、男は帝国にあって冷遇される側に身を置かざるを得なかった。
そんな、男にとっては冬よりもなお冷厳な時代が、3万年。
男では、魔力に勝る女には勝てぬ――
この時代に男として生まれつけば、そうした考えが深層意識に浸透していてもそれは当然のこと。
しかしレイモンは、そんな文化、そんな時代の中でもなお、そうした深層意識に逆らった、抗った。
男とて魔法は扱える。剣を握ることもできる。どうしてやる前、努力するから、敗北すると決めつける必要があろうか。
――その結果が、これなのか。
今にも消し炭となって吹き飛びそうになる耐熱防護魔法の維持に必死になりつつ、レイモンの内心は、いま自身を翻弄する焔の渦よりもなお猛り狂い、煮えくり返っていた。
母にだけ苦労はさせぬ、女にだけ時代を担う重荷を背負わせてはならぬ。旧ルセリナ王国の高官であり、最後までルセリナ王家の存続を夢見て、身を切り骨を削る思いで努力を続けていた母の背を見て、そんな思いと共に育った。
母が同僚に貶められ凋落していく姿に歯噛みし、仇を討つと誓ってここまで来た。
大陸からのマリナス教国の圧力に旧ルセリナが屈せぬよう、母はそれこそ魂を何者かに売り払うような勢いで王家に、軍務に精勤した。その魂を辱めた者を、大陸の異教徒を、断じて許しはしないと走り続けてきた。
その背を追い。それだけの理想を追った人が身を呈して生んでくれたこの身こそが、その意味を結実させんと努力してきた終演がここなのか、その結末がこれなのか、と。
今日この日まで、どれだけ我を殺し自身の研磨に勤しんできたかを思えば、無念でなかろう筈はない。
――死ねない。
勝てぬまでも。たとえ一向に勝負にならずとも、せめて。
せめてこの一撃、やがては優雌ジュリエットの担った魔剣としてその名を歴史に刻むことになるであろう“地獄の番犬”のものであろうと、一撃では沈むまい、と。
たとえそれが、大局に何の影響も及ぼさぬ無駄な足掻きであろうとも。
たとえそれが、何者の記憶にも残らぬ哀れな我意の発露手あろうと、それでも。
――死んで、たまるものか……!
この命が、地上にありて魔法と女の全盛にあり。男として生まれたがゆえに、塵芥の価値でしかなかろうと、それでも。
それでも、確かにこの地上に存在していたのだと――レイモンは最後の矜恃のために、雄叫びをあげつつ防護魔法に全身全霊を注ぎ込んだ。
「――へー、まだ生きてんだ」
魔剣の焔が、ジュリエットの前方とその周辺を穿ち、削り取っていた。
そんな、猛犬に焼き尽くされた焦土の中で。全身から煙を吹き上げ、這い蹲りなりながらも、灰塵に帰せずレイモンは現世に留まっていた。
小なりとはいえルセリナの支配階級に名を連ね、魔導貴族としての知識と魔術を修得している女の本気を相手に生き残れた男は、あるいは史上でレイモンが初めてであるかも知れぬ。
しかしそれも、あとわずかであろうと思われる。人間は、ああまで焼け焦げて生き続けることが叶う生物ではない。
「いや実際、男だてらに大したもんだよ――だが、こうなっちゃ殺してやるのが情けだな」
そう言って、ジュリエットは剣の腹で自分の肩を叩きつつ、急速に“生物”から“炭化した肉の塊”に過ぎなくなりつつあるレイモンへと歩み寄っていく。
その行為、その台詞。そこから導き出される、次に起こるであろうことが何なのか――どれほど蒙昧愚劣な人間であろうと、理解できない者はそこに存在しなかった。
「ダメ、ジュリちゃん!」
そんなジュリエットに後ろから飛びつき、声高に止めた者がいた。
それを、ジュリエットは驚かなかった。あるいは彼女なら止めるかもしれぬと、予測はしていたことであったから。
だが。
「ユル、助からないなら苦しみを短くしてやるのも慈悲なんだぞ」
「大丈夫! わたしが助けるから!」
「助からないものを――て、……は?」
「うん。だから、殺しちゃダメだよジュリちゃん?」
言うと、ユルは両手を眼前で合わせて目を閉じ、その場に両膝を付く。それは、魔導帝国終焉と共に失われたとされる神の慈愛、その恩恵を授かるための儀式の一環であった。
「お、おいユル……!?」
知識には知っていた。だが、一国の王として多種多様な人間と接するジュリエットですら、その場に居合わせるのはこれが初めて。
何百年も昔、魔導帝国の終末にて。人が自分たちの試行錯誤の末に、人造の神を生み出したその罪によって。今では人類のほんの一部、天より認められし限られた者たちのみに垂らされるのみになったとされる、奇跡の名に相応しき聖霊たちの慈愛――
次の瞬間。死に掛けていたレイモンの身体が光の柱に包まれ、余人をして“奇跡”と呼ばしめる現象、一瞬にその致命傷が快癒するという事態を、ジュリエットは目の当たりにした。