レイモン編 5
男は名をレイモン=ミシェールといい、かつては旧ルセリナ王家に代々仕えた、騎士の家の出である。
しかしレイモンの母リリアーヌが、当時まだ完全には宮廷を掌握されていなかった際にマリナス教国のシンパとしてその手足となり旧ルセリナ王家派の勢力を削ぎに掛かっていた大臣の一人・カルヴェ伯爵に陥れられると、ミシェール家は騎士号を剥奪され、辺境へと流された。
以来、レイモンは何より直接的な母の仇であるカルヴェ伯爵と、カルヴェ伯爵がリリアーヌを陥れる遠因となったマリナス教国への報復を胸に、武芸を、魔術を修める道を歩むことにした。
平民に落とされ、かつなによりも男の身で、形式ではない真に身になる武芸や学問を修めることは、並大抵の努力では叶わなかった。だがレイモンはそれでも母の無念を晴らしたい一心で、その苦難の道を越えてきたのである。
そうして、実力も間違いないものになったと確信できるようになってから、レイモンはマリナス教国の手が未だ届いていない、南方は旧ルセリナ貴族連合国へと足を運び、そこで任官しようと考えた。
任官先は、旧ルセリナ時代の過去に、将軍職や大臣職、はては宰相職に就いた者すら輩出した、上流社会の主流を担った2家の大貴族たち。レイモンは大陸からのマリナス教国による干渉を排し、旧ルセリナ時代の秩序を回復させるのはこの貴族らをおいて他にない――そう考え、レイモンはその大貴族の片割れ、貴族連合国盟主・カスタニェーダ公爵の門を叩いた。
しかし、時はダヴィオニア魔導帝国の女尊男卑文化を色濃く引きずっていた時代のことである。男の身で官憲になろうなどと、痴者の妄想にも等しい話だった。
“なにをムキになっておる? わらわの側にあれば、いずれ自然にマリナスやそなたの仇は討たれるであろう。男ごときがなにを戦や政のことなど考ておる、以後は側に侍り、わらわを悦しませることだけ考えよ”
魔導貴族は、醜男と夜伽の務まらぬような男を裁判の手間なく死刑にする当然の権利を有する――暦が冥暦から大陸暦に移り変わり、千年も近くになれば冗談にしか聞こえないような話が実際にまかり通っていた時代、武と学を修めるに多大な苦難を越えてきた男子に下賜された言葉が、それであった。
いっそ、レイモンを侮辱する意図が込められていたのなら逆にまだ救いがあったろう。大いに反発し、相手を罵ることもできたろう。しかしタチが悪かったことに、カスタニェーダ公爵はそれで、レイモンに功徳を施した気になっていたのである。
自尊心を大いに傷つけられたレイモンは、次に北東の大貴族クレランボー侯爵の元を訪ねてみようと考えた。
もっとも、口に出して言えば簡単だが、それすら簡単に成し得たことではない。自身の欲望と何よりもメンツの問題で、絶世の美男子たるレイモンが自分の手元から去ることをよしとしなかったカスタニェーダ公爵が、実力行使でレイモンを手籠めにしようと追っ手を放ってきたからである。
何しろこの時代の魔術は、未だ帝国時代の水準が保たれていた剣呑極まりないもの、人の心の深奥にまで及ぶ。捕まれば直接脳に魅了の呪術紋様を刻み込まれ、以後はカスタニェーダ公爵に奉ずる以外なにも成し得ることの叶わぬ愛奴隷と成り下がるだけだ。そうなってしまえば将や武人としてどころか、一人の人間として終わったも同然である。断じて捕まる訳にはいかなかった。
そうして、カスタニェーダ公爵の追っ手を時に巻き、ときに返り討ち、七難八苦の逃避行の果てに、レイモンはクレランボー侯爵の元にたどり着き、仕官を申し出た。
しかし返ってきたものは、カスタニェーダ公爵の時と大差ない反応で。結果、レイモンは現存する旧ルセリナ勢力に愛想を尽かすより他になく、野に下り、マリナス教国関係者と、マリナス教国に尻尾を振る売国奴たちを標的とした山賊へと身を費やしたのだった。
義賊を気取るつもりはなかった。どんなに美辞麗句で自らの行為を着飾ったところで、強盗・窃盗の罪に変わりはないということを、レイモンは弁えるつもりでいた。
だが。
だがそれでも、最後の一線として。旧ルセリナ王国勢力と、民草にだけは手を出さないように努めてきた。それが、男の身でこの女尊男卑の激しい時代に立身を夢見たレイモンの、せめてもの矜恃だったのだ――
「――お前、行商や村の人間に直接手ぇ出したことないんだって? スパインのジュリエットっていえば、山賊なんてちゃっちゃと倒しちまおーってイメージ先行してるかも知れないけど、これでちゃあんと、噂は集めてみたんだぜー? それでさ、見当付けたんだよ。お前さん、正道を歩きたかったんじゃないのかなーって」
気を取り直したジュリエットが、腰に手を当て上半身を乗り出すようにレイモンに対して不敵に微笑む。
「だから、私のもんになんなよ。私の予想が外れてないならさ」
その態度に、しかしレイモンは頑なな表情を崩さない。なにしろ、マリナスの支配を嫌う者には期待の星とすら誇張でない、旧ルセリナの二大貴族・カスタニェーダ公爵にクレランボー侯爵からして、まるで自らを彼の古き者が一人“黄金の暴君”だとでも言わんばかりに、好色のみの視線を向けてきた前例が、レイモンの心を強ばらせているのだった。
だから、彼はこう口にせざるを得なかった。
「女、女と威張っているような者に従うつもりは、私はない。貴女がはて、そうした女でないという証拠はおありか」
と。スパインのジュリエットを、噂でのみしか知らぬレイモンとしては、致し方ないところであったろう。
だが、この物言いはジュリエットを痛く失望させた。
「な~んだ……くっだらね」
「……なに?」
「女だ男だ~って、んなこと言ってる時点でお前が一番そんな性別っての気にしてんじゃん。うわ小さっ。とんだ見込み違いだったぜぇ」
「なんだと……」
「前言てっか~い。お前みたいな○○○、いらねーや。私ら女に媚び売ってるのが似合いだぜ」
その台詞が、レイモンにもたらした変化は劇的だった。秀麗な顔を怒りで深紅に染め上げ、眉を剣呑な角度に釣り上げる。
「待て、スパイン国王……!」
後頭部で手を組み、踵を返して背を向けたジュリエットに、黒髪の青年は怒鳴る。レイモンとしては、ここまで言われてしまっては後には引けないのだった。
「今の発言、断じて看過し得ぬ。魔法の勝負を申し込む! スパイン王ジュリエット、男を恐れるのでなければ堂々と大言に相応しい実力を示されよ!」
「やめときなやめときな、綺麗なお顔に傷が付く前に。男の軽術なんて相手にする気にならないって」
軽術とは、重みも深みも籠もっていない魔法のことである。男の扱う魔法は、素質に優れたる女の扱うそれよりも軽い、というほどの意味もあり、大陸暦の時代、ないしは男尊女卑の感覚で当てはめれば“女の細腕”と似たようなニュアンスの言い分となるだろう。
「もはや問答は無用、受けぬと言ってもこちらから行かせてもらう!」
度重なるジュリエットの侮辱にレイモンの自尊心は限界を来たし、切れ長の瞳に殺意を宿らせ呪文を詠唱する。
高速、かつ美しい詠唱だった。その様は野生味と気品を兼ね備えた音楽家の演奏を思わせる。確かに、男だてらに女を魔法の標的とするだけのことはある才能と言えた。
だが――今回は、相手が悪かった。
「――警告はしたかんなぁ!」
そう言いつつも、むしろ表情を歓喜に振るわせて。ジュリエットは振り向きざま、純粋に魔力のみを発露しその勢いで電気の魔弾を弾き飛ばす。
まるで呼吸するかのようなタイミングと素早さで魔力を発露させたジュリエットに、レイモンは驚きのあまり目を剥いた。
しかしジュリエットはそんなことはお構いなしに、飢餓に苛まれる獣が獲物を見つけたかのような、獰猛な笑みと共に腰から二つの短剣を抜き放った。
そして、ジュリエットの口から呪文が紡がれた。
といって、魔法の詠唱ではない。2つの短剣の力を解放するための呪文である。
見た目は変わらぬ、だが明らかに質量が変わったことを示すべく、ジュリエットの足がわずかながらも地面にめりこんだ。その詠唱によって、右手の剣が焔色に煌めいたのと同時に重量が変わったのだ。
そして、再度の呪文により左の手にある剣は、万年雪に閉ざされた山にそびえる氷壁色に煌めき、ジュリエットはさらに地面にめり込んだ。
呪文によって封印施術が解除された二対の短剣が、今、魔力を急速に収斂させていっていた。
――“地獄の番剣”と“冥府の猟剣”……か!
ジュリエット=ブランシャールの母であり、スパイン王国の礎を築いたサビーヌ=ブランシャール。その国母が若かりしみぎりにエルクティア海洋に浮かぶ秘境島より蛇妃メデューサとの壮絶な死闘の末に持ち帰ったとされる、対の双剣。地獄へと続く門扉の番を務めるという焔の魔犬ケルベロスと、冥府にあって死者の魂を狩りたてるという氷の妖犬オルトロスの名を冠された2本の魔剣の名を、レイモンは脳裏にある知識の教典より索引した。
伝承に曰く、冥獄の双剣は湖を裂き丘を砕くとあるが――
レイモンは全身が震えるのを感じる。それを自身は惰弱による怯えからと自らをあざ笑ったが、実際には、今の世の一角を運営する支配階級者に“魔法力いと小さき男”ではなく“敵”として認識されたことに対する、それは武者震いであった。