異邦人2
街道からひょいひょい慣れた帰路を歩く虎となった旅人は、無駄足を嘆いて嘆息した。どうしても出ていかない、頑固な同居人の容体がよろしくない。あのまま放置すれば命が危ないとわかるだけに、旅人は憂鬱そうに尻尾を振った。せめて人らしい食べ物でもと同情して街道まで下りてきたが、やってきたのは風変わりな一行で、自身の虎の身を有難がらなかったところから見ても、”上帝”とやらがいる大きな街から来たのだろうと思われた。再び旅人は嘆息する。怪異の街道、上帝の住む森との変な噂も、単なる虎が一匹住み着いていると報告されて終わるだろう。それでは稀にある通行人からの貢物が減ってしまうが、人を襲ったことなどないため、その後もペットのような扱いになるやもしれぬ。危険視され、討伐されるやもしれぬ。旅人自身の故郷に帰る方法など思いもつかず、過ごした月日で諦念が強い今、微かにある自殺願望が満たされる状況となっているのではないか。慰めを考え、自分の分の食事を確保しなければなと同時に思った旅人は、しかして、後方から響いてきた咆哮にびくりと身をすくませた。
この森の頂点は、せいぜい熊程度で、虎となった旅人以外で猛獣はいない。狼の遠吠えではなく、熊の唸り声でもなく、絶対にないはずの猛獣の雄叫びであった。他の猛獣に殺してもらおうと空想していた旅人であるが、凶悪なその声にやはり恐怖は湧きあがるもので、慌てて足元から葉の付いた適当な落ち枝を拾い、見える範囲の足跡を払った。払いながら後ろ向きに岩場へ進み、適当な藪の方向へ捨てると、足の泥を岩の角で払い、跡が残らないよう岩を駆け昇る。
幸いなことにこちらは風下。普段意識しない獣の感覚で空気を嗅ぐと、虎の自身よりも大きく、また強いだろうと脳内に響いてきた。野生の獣にない花のような香りもしたが、もしかすると、先ほど街道で会った一行が襲われたのかもしれない。いやいや、だが血の臭いもしないが、これはどういうことだ。一瞬で旅人をパニックにさせたのは、人と対応する時と違い、獣の感覚は本能に直接響くからか。とにかく、こちらへとやってくる存在は強大であり、命が惜しいならば逃げろと前頭に響いてくるのだ。足跡を消したつもりの旅人だが、それだけでは甘いと考え、さらに岩場を登る。頂上まで登った際、風が変わるのを感じ、さらに恐怖した。
川だ。天啓のように閃いたそれに従い、風向きを気にしながら岩場の別の方角を駆け下りる。小さいながらも水の筋が通り、それに旅人は足をつけた。そのまま水流を昇るように足を進め、もう一度気配を探ると、見当違いから先ほどの咆哮。気づかれなかったと安堵したのも一瞬、その声から相手が大柄の雄であり、大変気が立っているのがわかり、さらに戦慄する。たぶん、同種、虎、である。餌としてでなく、縄張り争いでなく、もうひとつの可能性が閃き、旅人は恐怖した。黒いフードをかぶっていた旅人、異なる世界からの異邦人である自身は、女性、なのである。女性らしい体をしていなかったため人の時ならいざ知らず、獣の基準など知らない。
唸りそうになるのを極力押し殺し、彼女は川を遡る。その途中、石垣を積んだような段差があり、そこを上がり、少し無理をして木の太い枝に飛びつくようにして地に着く。移動の際顎を打ったが、まさか、虎がそんな無様な移動を行うとは思うまい。一瞬眩んだ頭を振り、彼女はさらに用心深く岩場や泉で遠回りをして寝床に戻った。熱に浮かされた同居人が、死にそうな声で「上帝…」と呟くのにさえ、安堵する。
彼女が同居人の様子を窺うと、彼は死相のように巨大な隈と大きくコケた頬をしており、彼女の顔を曇らせた。見れば、彼の折れた腕は腫れ以外にも膿んでおり、なんとウジまで湧いている。逆に膿みが吸い出されると聞いたこともあるが、これでは彼の体力が尽きるのが早いだろう。斬る他、ないかもしれぬ。沈鬱に一度目を閉じた彼女は、再び寝床の入口まで足を進めると天を見上げた。日は天頂からずれたが、まだ明るい時分である。
―――――――――飛べれば、良いのに。
「ぅぐるぅ…」
純粋に空に憧れた幼児期と違い、切実に、祈りを込めて彼女は唸った。人の姿でなく、獣と成ったならば他にしがらみもないかと思えば、”上帝”などというわけのわからない存在と間違われて付きまとわれ、そうして今、安全だったはずの森には別の雄の虎が居る。なぜ、放っておいてくれないのか。故郷に戻れない見当もつかない哀れな存在であるのに、それこそ世界のどこかにはもっと不幸な存在がいるとでも言うように追いうちをかけてくる”神”いや、”運命”と呼ぶべきか。自身ではどうしようもないからこそ、”運命”と呼ぶのだろうが、諦めるにはまだまだ自分は若いのであろう。誰を恨めば、何を憎めばいいのか、わからない。
ふぅっと、静かな吐息に奥の男が反応した。熱やら痛みやらでほとんど寝たり起きたりのくせに、「如何なさいました」と必ず声をかけてくるのだ。上帝ではないとはっきり伝える事ができたら、彼はここまで酷い有様ではなかったろう。まぁ、勝手に勘違いしたという奴の部もあるが、ここまで酷くさせたのは彼女にも罪がある。彼を連れていく事が出来ずとも、人を連れてきたり、本気で追い出せば良かったのだ。それをしなかったのは、ようやっと家として慣れてきた森に人を入れたくなかったのと、どこか、話し相手が欲しかったのかもしれない。
―――――――――ぐぅおぉおおおおぉぉぉぉおおおおぉぉぉぉおおおぉおぉんっ
はっと、彼女は顔を上げた。先ほど撒いた雄の虎の声だ。見当違いだが、確かに近い。ちらっと横を見て、ようやく彼女は思い至った。彼女の行動範囲に印があるのだ。毎日水浴びをしていたとはいえ、獣の身、体臭が残っているのかもしれない。まだ、人としても結婚もしてないというのに、虎となったからと、雄と番う気はない。単に縄張り争いであれば、そのまま寝床を譲れば良いだけかもしれないが、と彼女は思案する。今は、餌になりそうな、瀕死の人間が一人いるのだ。運ばなければと、彼女は頭を悩ませた。
―――――――――翼があれば。虎でなく、何か、別の…
「上帝、……」
微かに呼ばれ、肩越しに振り返ると、男は無理に上半身を起こそうと苦心していた。そのまま死ぬんじゃないかという顔色に彼女は眉根を寄せる。脂汗をかき、普通の顔が醜い顔となっている男だが、無理に笑みを浮かべると切れ切れと告げた。
「お逃げください。ここは、わたくしが…」
そうして剣を杖代わりに立とうとして、倒れる。彼は何故か勘が良い。だが、彼女はかっと吠えた。
―――――――――馬鹿を言うなっ!!!
怒りの咆哮は、寝床にしている洞窟に反響し外に響いた。すぐに呼応するよう雄の虎の吠え声が森に響く。びくりと、その時ばかりは彼女も怯えた。自分が不利益を被るだろうに、こんな瀕死の面倒まで見、自身のお人よし具合に彼女は歯ぎしりする。いつも、こうだ。どれだけ頑張ってみても、両親は離婚し、職場ではやりすぎだと爪弾きされ、家庭でも社会でも孤立する。
―――――――――なぁ、神様。私は、一体、どうすれば良かったんだ?
ぽたりときっかけに、顔の表情は固まっているくせに、目から怒号の涙が出た。大地は地獄へとつながっているというから、毎日青空に向かってお祈りをした。どうか、母と父が喧嘩をしないように。誰も、不幸にならないようにと。結局、願いは叶わず、ちっぽけな自分を見ている神はいないのだろう、自身の力でなんとかしなければならないだろうと、少しでも高潔であろうとした、のに。
私はきっと、悲しいのだろう。前足の間に落ちる涙にそう思えば、一方で胸中をドスドスと無遠慮に叩く音がする。鼓動ではない。そんな生々しい音ではなく、もっと熱く焦がすような、吐き出してしまいたいような、重く、苦く、熱く。心臓の横に何かの種でもあり、それが内側から外へ芽を突き出すように。自身の疲れ切った心身などお構いなしに、激しく燃えたてと掻き立てる。
―――――――――怒りだ。
かっと目の前が赤く染まる。血が全身でなく、脳天を突き上げる。心の奥で、”優しく弱い自分”が「もうやめてくれ」と涙も枯れ果てた様子で訴えるのに、心中から渦を巻く感情は止まらない。きっと今に、自身さえも燃料にし、焼きつくして、そうして消えるのだろう。これが、生きる、苦しみか。
胸中の痛みに突き上げられるように、自然と四足から二本の足で立つ。肩を竦めたくなりそうすれば、背後にバサリと何か伸びた。寝床の洞窟の下には、強大な、虎より大きな影。シルエットは、冗談みたいな怪物の姿をしていた。竜である。叫ぶわけにはいかず、「ふぅっ」と吐息を吐けば、小さく炎が。
―――――――――ははっ…
どんな姿をしているか見当はついたが、表情まではわからない。酷く自嘲していることだけは間違いないが、ともあれ彼女はぬっと後ろ、ずいぶん小さくなった洞窟の内部に首を突っ込んだ。男と目が合う。変身したところを見ていたのだろう、完全に固まっている男の胴体を咥えた。体力的にも抵抗はないが、一度息を詰めるのを感じる。
幼い頃何度も見た夢は、化け物に追いかけられる悪夢と、空が飛びたくて何度も飛び上がるのに、結局大地に引っ張られて落ちる悪夢の二つ。化け物自身には、自分がなってしまった。だから、どうか。
―――――――――飛んで。
口を引き結ぶわけにはいかない彼女は、ふわりと浮いた体に安堵し、きりっと空を見上げた。