異形の王 前篇
toruto様の感想で舞い上がったため、番外編をアップします。
前後編の二部構成予定。
白い雪の中に、ひょこっと何かが動く。木立の中からそれに気付いていた彼は、音を立てないよう矢を番えて息を殺した。目を凝らすと雪の中に長い耳が見える。ぎりっと弓を引き絞り、目を細め、機を見て指を放そうと神経を集中した頃合いだった。
「―――っ!?」
一瞬の苦痛に顔を顰めて、同時に思わず手が滑り、見当外れな方向に落ちた矢。それに怯えて獲物はどこかへ駆けて行ってしまう。ちっと舌打ちし、彼は弓を下ろして、何度か左右に頭を振った。
―――――とても大きな声で、耳を掴まれ、叫ばれたと思った。
これまでずっと雪深い森の深くに住んで、狩った獲物の毛皮で深く深く顔を隠し生きてきた彼にとって、その感覚は初めてである。はっと顔を上げた瞬間、毛皮の帽子から立った耳が零れそうになり、慌てて押し隠した。そして、もう一度耳を澄ます。そこいらの野兎よりも性能の良い耳が何かの音を聞き漏らす事はないはずなのに、先ほどの声は聞こえない。そもそも、まるで記憶から呼び出されるかのような、脳裏に響く音とは何だと彼は困惑に目を細めた。彼は大きく息を吐いて取り落としてしまった弓を拾い、もう一度周囲を見回す。シンと静まり返った森はいつも通りのはずなのに、やけに胸騒ぎがして居心地が悪い。
こういう勘を信じる性質ではなかったが、彼は急ぎ住処へ戻ると感情に現れた変化は著明で、すぐにでもこの場から離れたくなり、低く唸った。数年かけて人間らしい住処にした愛着ある自然洞窟なのに、酷く不快に感じてしまう。始終ソワソワ苛々と歩きまわって気を紛らわさないと雄叫びでも上げてしまいそうな心理状態に、魔の法と呼ばれる上帝に近しい者達が使える何かしらを疑ってしまうが、だからといって解決策が浮かぶわけでもない。結局、四日、彼は耐えた。長かったのか短かったのか、住処に留まることで心理的な負担がかかり、少しやつれた彼は限界を感じ、簡素なそこの、生きる為に必要な道具のみ手に取っての旅支度の後、出立した。
それから二日程雪深い森を突っ切っている。どこまでも白い林の中だ。人のモノより細長くなった鼻先の先、何か動く影を捕えて、彼は意外な思いで目を凝らす。常に狩っている獲物ではない、大きな、のっそりと移動する一団を見つけて瞠目した。ここは、街道から外れた、冬などは特に人の入らない森の中である。それなのに、まるで行商隊ほどの人数が、ぞろぞろと一方向を目指して歩いている。こちらからは薄ぼんやりとした影としか見えていないが、彼は警戒するようにマフラーを目元に引きあげた。
どうにか人に見えるような姿にするのに、いつも彼は苦労している。例えば、顔を隠す毛皮の帽子とマフラー、例えば、彼の腰の巻いた毛皮帯を模したもの。前者は獲物の毛皮をなめして作り、後者はなんと、実は自身の尻尾である。彼は、異形と融合した人間だった。只人に見つかってしまえば、すぐにでも憲兵に捕えられるだろう。
警戒から、そろそろと木々や雪の丘に身を隠しながら近づいて、一団を確認していた彼は、急に殺気を感じて身を翻していた。
――――――ガウゥッ
狼のような声がして、彼が居た場所の雪がぼふっと舞う。半身を起こしてそれを確認する彼に、人ほどの大きさもある狼が「グゥル」と牙を剥いて唸った。灰色がかった毛並みの狼だ。自身も同じ狼系の異形であったので、敵愾心が湧いて彼はぐっと睨むと、弓に手をかける。気付いた狼が弓に噛みついてこようとして、彼はさらに転がって避けた。その動作と同時に矢を番えて引くと、比較的近くで「ワンッ」との声も拾う。何の音か確認する前に、彼の目の前には村娘のような衣装の、顔が犬の娘が両手を広げて狼の前に飛び出してきた。
「止せ、リン」
呆然としたのは狼も同じだったらしく、奴は大きく口を開けて制止の声を上げた。人の声だ。驚愕に矢を番えたままの手を下ろし、彼は二人をまじまじと見る。娘の方は、彼と同じく異形混じりなのだろうとわかったが、この巨大な狼は何だ。「グウゥ」と微かに震える娘が虚勢を張って威嚇する中、彼はゆっくりと矢を戻し、弓を背負い、ぐっと帽子とマフラを外して見せた。それに狼は「何と」と驚いたが、次にはコロコロと笑い声を上げる。それが、三の上帝の屋敷に閉じ込められていたという異形の人々と彼との、最初に出会った件だ。
☆ ☆ ☆
力ある角人と他種族の男性が荷を引き、女子供は寄り添うようにして雪の中を進む。寒さに弱い蜥蜴人を守るように獣人が周囲に付き、威圧的な巨大狼の爺さんや獣人の若者が周囲の警戒に当たっているようだった。自然洞窟の住居を捨て、当てもない旅から一団に加わった彼は、今、巨大狼の隣に居る。あの巨大な狼はセンと言い、彼と同じく異形混じりであった。元々三の大陸での著名な学者であり、異形の研究から異形混じりの研究をしていたらしいと、同行する同種の異形混じりや本人から話を聞く。センを気にかけて世話をする、あの犬の頭の娘がリンという、元旅籠屋の娘らしいのもその話の流れで聞いた。
彼らは元々三の上帝が構えた屋敷に囚われていたらしい。三の上帝といえば、異形混じりを生かしたまま捕える事で知れている。何かの実験に使うだとか、城に連れていかれて殺されるのだとか色々噂はあるが、その真相――より異形に耐えうる人を作る為の実験と異形混じりの保護――を彼はようやく知った。そんな上帝がとうとう追放を言いだしたのかと思ったが、そうでないらしい。
セン達一団は、ある者の指示を受けて三の大陸から出るべく移動していると言う。その者のお陰で、彼らは屋敷から出て森に入る事が出来たらしい。彼は、特に興味が引かれる内容でもなかったからだろう、身分の高いものが気まぐれを起こしたのかと簡単に考えた。
それでは、三の上帝の扱いに耐えかねて、人の入って来ない砂漠や荒野に行くのかと尋ねると、前者は濁したが、後者は違うとセンは言った。何ともあやふやな話で、不思議に首を傾げる彼に、センは先の不安などないと言ったようにカラカラと笑ったものの、楽観視しているのは彼とその支持者だけの様で、他は仕方がないとでも言うような雰囲気がある。一瞬、センの言動に舌打ちのような悪態が聞こえたが、彼は新参者が集団を乱してはいけないと、大人しく気付かない振りをした。
「ふぅむ。魔の法か…」
身の上話から、住処を捨てる事になってしまった彼の衝動について話を聞き、センは思案気に唸った。聞けば、セン達一行は、そんな音を聞いた記憶はないと言う。ただ、逃亡を手伝ったある者から、屋敷から出て南の海へ行くように言われて以降、どんなに非協力的な人物だろうとも、その言に逆らえなくなったと言った。
「皆、留まり続けると落ち着かなくなってしまってな」
次第に一団の間に緊張と苛立ちが募り、乱闘でも起こしそうな雰囲気になってしまうという。似たような強迫観念に曝されている一団と彼だったが、センは、魔の法の気配はしないと断言した。至極真面目に頷いたセンは、「暗い話ばかりでは気も沈む」と、愉快な噂話をするように少し声を顰めた。弾むような声とその顔は大変愉快そうである。
「我らは、伝説に立ち会う証人となるやもしれぬ」
そうしてニッとセンは笑った。どういうことだと、話が見えずに困惑する彼に、センはここまで至った自身の見解を述べる。そもそも、このような大きな範囲――彼と屋敷は随分と離れていた――に魔の法をかける事が出来るのは、上帝以外にあり得ないのだ。異形を生み出さぬように、人を害さぬように霧の魔の法をかけ続け、さらに異形混じりを集めている三の上帝がそのような魔の法をかける意味がないし、この奇妙な状況は魔の法によるものの気配がないと、センは言う。上帝程の力を持ち、かつ魔の法でもないとすると、センは過去の文献にあった”天啓”というモノではないかと話した。彼もまた無学な平民であったから、それは何だと尋ねると、過去、始まりの上帝が降臨した際に、彼女が害されることなく世界に降り立つよう、世界中がその状況を理解し、実行したという話をしてくれる。突拍子もない話だなと彼は苦笑いしたが、確かにこの奇妙な強迫観念を体験している今は、笑えない。では、異形混じりを天が助けてくれるつもりなのかと冗談交じりに、皮肉交じりに言った彼に、センは穏やかな目をして「恐らくな」と、どこか確信した声音で言った。
☆ ☆ ☆
一団は南を目指して進んでいる。この一団やセンと行動している間、彼はあの変な強迫観念に悩まされることはなかった。強ちセンの言う事も間違っていないのではと信じる気持ちになったのは、ここ数日で異形混じりの人数がさらに増えた事にある。皆が皆、海を目指して南下しているらしく、そのうち合流してしまうのだ。霧の中を一足早く先に行くのは、翼を持つ鳥人種で、彼らもまた隠れ里を捨てて一団に加わっている。さらに驚く事に、霧に紛れてやって来ないはずの異形の姿もちらほら見たと彼らに教えられて、彼は何かしらの”天啓”が働いているのだろうと畏怖を持って過ごした。
そうしていると、センの言う”ある者”の存在も気になり出した。どういった人物かと問うと、それは、風変わりな異国の顔立ちをした女と共にやって来た、黒い竜の異形まじりらしい。竜だなどと、お伽噺にでも出てくれば良い方で、そんなものが存在しているとは思わなかった彼は、その時ばかりは話半分で聞いていたのだが、センにもそれがわかっているようでコロコロと笑った。その黒い竜の異形混じりは、やって来た当初から相当の魔の法を使っていたらしく、それだけでも普通の人間や異形混じりとは違うのに、在る時を境にさらに劇的な変化を遂げたと言う。それはいつだと問うと、センは困ったように、しかし坊主の悪戯を告げ口するかのように可笑しみを込めて「恋を自覚した時だよ」と言った。何だそれはと、彼が鼻白んだのも仕方がない事だろう。
「自身にとって大切なモノを自覚されたのだろう。覚悟を持って男は一人前となる。そういう点では鈍い御仁なのだろうな」
随分と情けない男だと彼は鼻で笑ったが、「儂も覚えがあるでな」と軽くセンは流した。しかし、理由はともかく、”天啓”が下り、その者の命には逆らい難い何かがあるという事から、まるで上帝のようだと言えば、「そうやもしれぬ」と難しい顔をされた。何か気にかかる事があるのかと問えば、その者の主人であるらしい、異国風の顔立ちの女もまた特異な存在なのだと言う。
「異世界から来たと言うのだよ、彼女は。まるで最初の上帝のようにな」
それこそお伽噺だと彼は笑ったが、即座に近くで聞いていたリンに唸られる。どうやら彼女はその主人とやらに何か義理立てしているらしいと察して彼が口を噤むと、彼女は不満そうに唸ったが、それきりやめた。
「儂らが再び監禁されそうになった時に、身を呈して庇うような、そんな女子よ」
ぽそりとセンにも付け加えられ、流石に彼は稀有な事と、真顔になった。異形混じりは只人には嫌われ、差別され、下手をすれば虐げられる。そんな素振りをほとんど見せない人物ならば、これまでの異形混じりの境遇の落差もあって、信用したくなるものだろう。ともあれ、見た事も話した事もない人物に、彼は話半分に聞いた。
「彼女もまた、上帝のように姿を変えられる存在らしい。それで、彼の人を助けたのが縁だと言っていた」
それでは、上帝が二人いるようだと彼が唸ると、「左様」とセンも難しい顔をする。ただ、センが言うには、件の黒い竜の異形混じりは彼女を主とし、私的にも敬愛しているという話であった。自然と彼は、野鳥に見られる番のイメージが浮かぶ。これまで上帝は各大陸に一人。新しき上帝が誕生するかもしれない事や、二人の上帝が生まれるのやもしれない事から、センは後に伝説となるだろう、そんな神話の時代のような興奮を感じるのだと、年甲斐もない目で笑った。




