KARINA
日を追う毎に記憶が美化されていくのが自分でもわかる。あの時、失意に泣き暮れていた彼女の顔は、目を閉じて思い出すにこちらを見て微笑み、差し出した手の上に貴婦人のようにそっと手を置いてくれるのだ。一瞬の自分の妄想に笑みが浮かんだが、次には黒い影が彼女を覆い、消える。それと同時に集中が途切れて、折角の風の魔の法が霧散し、「ちっ」と彼は舌打ちした。
「どうも、上手く魔の法を紡げませんな。流石、三の上帝といったところですか」
今にも虎の化身となって走りだしそうな自分の主人を見ながら、彼を補佐しているインは軽口を叩く。各上帝の魔の法の力関係で風の魔の法が霧や幻影の魔の法よりも強いとされているが、長く生きているためか、それとも三の大陸というあの白い上帝に有利な土地のためか、濃い霧が一の上帝の邪魔をして、侍女を探すのが困難になっていた。
正直、インにも第二師団長であるリキにも、何故あの異国風の侍女に一の上帝が拘るのか分からないでいる。だが、これまで飄々としつつもどこか一線を引いていた一の上帝の珍しい我儘とあって、出来得る限りは協力したいし、彼に甘い自国の王からの言伝が彼らの背を後押しした。それに、ここまで来たのならと諦めも含めての追従だ。第二師団長のリキは、守人と呼ばれる影の存在に邪魔をされながらも宮の裏側から、インや一の上帝は、魔の法を使って宮全体を探っているのだが、成果は芳しくない。
「気配は近い。ここに居るはずだ」
苦々しく言い、一の上帝、リチョウは精悍な顔を陰らせる。彼は二の大陸での事を回想して、悔しそうに拳を握った。
二の上帝も出てきての大立ち回りだったというのに、彼らはあっさりと異国の侍女を連れ去られてしまった。
一晩明けてから二の上帝と会合を取り持ったリチョウだったが、二の上帝であるカフカはむしろ、魔の法を使う異形の存在を気にして、連れ去られた侍女は諦めろと言ってきた。見ず知らずの彼女を、扱いに困ったからとはいえ、一度は懐に入れて自身の侍女にする程である。後見としての責任はないのかと訴えたリチョウに、「それよりも二の大陸の上帝としての責任がある」と凛々しい顔で言いきった二の上帝。
現実主義の彼女らしい言動であったし、実際、上に立つ者として彼女は正しい。けれど、侍女そのものが目的であった彼にしてみればそんな風に諦め切れるはずもなく、侍女が連れ去られた三の大陸に、一と二の大陸で圧力をかけるよう協力を願った。だが予想通り、カフカはリチョウの意見をばっさり切り、これ以上は時間の無駄と、彼とその従者を一の大陸へと追い出したのである。
頭では、一の上帝もカフカの言い分も自分の立場もわかってはいたが諦めるには若すぎ、全てを投げ出しても良いとさえ思って王都まで駆け、困惑する親父殿に土下座して頼み込んだ。あまりに必死になりすぎ、泣きながら親父殿に詰め寄った記憶がある。親父殿は大変難しい顔をしていたが、最後の最後には、自分にも覚えがあると父親らしい顔をして彼を送りだした。打算もあるとリチョウに正直に打ち明け、今後の策について息子殿も交えて話し合い、これだけ時間をかけて三の大陸へと渡って来たのだ。
親父殿には本当に良くしてもらっている。当然良い顔をしていないリキにも、もはやこれまでと諦め顔のインにも、自分を上帝として慕ってくれる一の大陸の民にも。けれど、二の上帝にも三の上帝にも会い、彼らのように強く立てずにいる未熟な自分が何処かにあって、それがずっと支えになってくれるだろう誰かを求めているのだ。依存したいわけではない。ただ、分かち合いたい。同じ思いを、上帝であるカフカもナナシも抱いていると思っていた。けれど、彼らは一の上帝であるリチョウと違い、もっとずっと大人だった。
それでなくても、あの虎の姿を見た時、自分の中の何かが強く強く訴えたのだ。求めていた存在が現れたと。あの時の胸内に湧いた希望が、自分の足を動かしている。何を思って三の上帝が彼女を隠しているのかがわからないが、見つけてしまえば、一の大陸に現れた彼女である。天の意思が自身に遣わしたと言っても良い。きっと元の場所へと返るはずだと、彼は信じている。
「俺は外へ出る」
「リキをお待ちください。お約束を違えるのであれば、一の大陸へと戻るよう誓われましたな?」
一の上帝である彼を取り押さえる事はイン達にも困難だが、一の大陸に不利益になる事はリチョウも本意ではない。まんじりとした気分を晴らすため、風の魔の法が少しでも上手く紡げるようにするため、庭にでも出ようかとしていたリチョウは、そう念を押されてがっくりと椅子に腰を下ろした。深く深くため息を吐き、二の大陸の時に、もっと早く侍女を確保できていればと落ち込む。思えば、もう一歩と言うことろで毎回毎回邪魔が入るものだ。一度目は自分の目が節穴で彼女に逃げられ、二度目は彼女とわからずに、三度目はあの黒い竜に。あの黒い竜の異形、次に遭う事があれば容赦しないと、頭を抱えたままの姿勢で、リチョウは眼光鋭く目を細めた。
「お待たせしましたかな」
そんな折、待ち人である第二師団長のリキが戻ってくる。反射的に立ち上がったリチョウは、しかして彼の体中に傷を見つけて顔を顰めた。その変化に苦く笑ったリキは、「御無礼を許されよ」と床に倒れ込むようにして座りこむ。魔の法の使い手であろうとも、その体技剣技で薙ぎ倒してきた彼の、予想外な姿にリチョウは愕然とした。
「守人と言いましたかな。奴ら、インにも劣らぬ魔の法の使い手で、少々手こずりました」
「ほう。貴方が言うほどとなれば、大変な腕なのでしょう」
リキのこんな姿は珍しいも、戦場では良くある事とインは別段そこまで気にならず、彼の言の方に興味深そうにする。インの言ににやりと笑い、リキは彼の興味があるだろう事を簡潔に話すと、途端にインは気色ばんだ。
「なんと。それはもしや、失われし法では?」
「そんなものまであるのか。なるほど、普段の魔の法の使い手と勝手が違うはず」
体の傷などどこ吹く風。楽し気に会話する二人を待ち、リチョウは「すまない」と押し殺した声を出した。鼻で笑うようにしてリキ。
「今更ですな、若。そう思うのでしたら、元からこの様な無茶をするのはお止め頂きたい。やるのでしたら、俺が退職してからどうぞと、申しました」
「否は聞きませんぞ、若。無事に帰りましたら、私はしばらく務めは休みますゆえ」
いつぞの会話を思い出す二人の気遣いに、リチョウは失言を悔いるように頬を染めると、「恩に着る」と気合いを入れなおした。イン達はリチョウの顔色が戻ったのにお互い視線を交わし、インは早速リキの治療の手伝いを始める。彼の手の届かない場所を手当てしながら。
「しかしながら、現状あまりよろしくありませんな。外は霧が深い、侍女殿は見当たらない、三の若き王は一の大陸の港が欲しい、さらに、若は腰が据わらない、と」
包帯を伸ばしながら言うインに、リキは当て布を咥えながら脇下を処置した。
「その事だがな、イン殿。貴殿が言った通り、魔の法が掛かっているとされる西の棟、その警備が厳重なのだ。それまではこちらを窺うだけだった守人たちは、俺がそこを窺おうとした途端に牙を剥いた。いくら上帝の私室があそこにあると言っても、あれだけ足繁く通うのだ、何かあるのは間違いない」
「でしょうなぁ。何せ、若の魔の法も侵入出来ぬ、霧の城ですからなぁ」
お互いの情報を簡単に交換し、次いでリチョウは「何か手はあるか」とリキを窺い、彼の返事を聞く前に、小さな違和感を感じて顔を上げた。
「どうされましたか」
インが不思議そうにリチョウに声をかける。「しっ」と鋭く言い、リチョウは微かに感じるカタカタという音を探った。次いで、リキもまた険しい顔をする。遠く響くようだったその音は次第に足元から競り上がり、小から大へと体に伝わってくる。瞬間、ガタンッと備え付けの家具が揺れた。
「なん…っ、大地が…!?」
「伏せろっ!!!!」
一瞬の事に、リキは反射的にリチョウとインを抱き込んで、倒れ伏した。
やる事が出来ると生き生きと輝きだす二の上帝を、護衛の目として窺い、武官は姿勢を正した。最近の彼女は宮に眠る古い文献を引っぱり出して、必要な情報を得ようと夜もほとんど眠らずに向き合っている。たまに体が熱意についていかずに寝落ちするのを、寝所まで運ぶのが目下彼の役目であった。
「ふぅー…む、どこにも見当たらんのぅ」
頬杖をついた状態で目を瞬かせている二の上帝、カフカは、今日も黙って視界の端に控える武官を見る。次の書類を持ってこいとの合図に、彼は用意していた一抱えを彼女の前に置いた。望んだのは彼女だというのに、「気が滅入るな」と苦言を言われる。それでも武官の態度や表情には一切の変化はないのだが。
「一の上帝の言では、意志を持っていたとの事。普段相対する異形とは違って当然と考えますが」
「だからこそ、先代らが残したモノに何かないかと探っているのだろうが。原因がなくて事象が起こるものか。あの廃村についても、戸籍にないとはどういうことだ? 何か見落としがあったはずじゃ」
そう悪態をつきながら、カフカは次の書物に手を伸ばす。武官は特に反論せず、軽く頷いて一歩下がった。けれど、ふと風の気配が変わったように感じてその場で足を止める。
「カフカ様」
「んー?」
額に軽く指を添えつつ本を読む彼女は、武官の声に適当に返事をした。まるで気にしていない様子だったが、武官がじりじりと距離を詰めてくると不思議そうに彼を見上げる。
「………来ますっ」
言って、武官は腰に差した剣を抜く。同時に、ぴくっと即座に反応して椅子から翻ったカフカの位置に、ぶわっと黒い影が立ち上った。さっと身を翻して武官の隣に並ぶカフカは、小さく「異形?」と驚きを顕す。が、それも武官が一太刀の元に切り捨てると、奇妙な事とだけ思って即座に忘れようとした。宮に出てくる事は珍しいが、全くないというわけでもなかったからだ。けれど、武官が一向に剣を納めようとしない事に違和感を覚える。
「………何だ?」
言ったのは、カフカではなく、武官。彼の驚異的な第六感は、一の大陸にあれば魔の法と呼ばれたものかもしれない。彼はその奇妙な感覚に困惑して、珍しく言葉に出していた。異形の気配だと思っていた。けれど、斬り捨てても予感が止まらない。覚悟を決めてカフカの手を取ると、「な、なんじゃ?」と困惑する彼女を引っ張って屋外まで走った。そこで二人は、驚愕の光景を目にする。
「あれは、砂クジラか?」
「いえ、…違うっ」
宮のある城下町の先、広大な砂漠からこちらに向かってくる巨大な群れ。航路ではないが、砂漠に生きるクジラかとカフカが尋ねるが、武官は戦慄を込めて否定した。砂の海を泳いでくる影は、真っ黒。頭で認識すると同時に武官は声を張り上げていた。
「全軍、戦闘態勢に入れ――――――っ」
同時にカフカもまた、それの正体を見る。同時に彼女も服を脱ぎ払い、甲虫へと化身していた。城下町に向かってくるのは、巨大な異形の大きな群れ。もう避難する間などない。なぜ気付かなかったかと歯を食いしばりながら、異常な事態に彼女は全力で防壁の魔の法を張った。




