迷子4
不思議な程体が軽い。爪先で立っていても地面からの反発力さえ感じて、ふわふわと浮いている気分だ。そっと足を蹴ると、風が吹いて背を押す様に一跳びでずっと前に着地する。青みがかった廊下の、庭に面する窓からは木漏れ日が差して温かく、小鳥の囀りも聞こえて、優雅な気分で彼女は先に進んだ。
その廊下を歩いていたら、いつの間にか足は古ぼけた赤い絨毯の上にあった。顔を上げると、大きな扉。そしてその横には、白いカーテンのお化けのような印象の、気分を害した表情で腕組みする”旦那様”の姿。
「面白い物など何もないぞ」
温かい木漏れ日の中、白く長い髪と優美な衣装、麗しいご尊顔の彼は、そう言って腕組みを解いて手を差し出してくる。自然と片手が伸びて彼の手に乗せると、ふわりとしていた体がすとんと着地した。ここに彼女が来る事は分かっていた様子だが、それでも自嘲するような雰囲気に、彼女は困った顔をする。
「お嫌でしたら…」
仮にも旦那様である。彼の嫌がる事はすまいと言えば、白い男は何とも答えず「母に呼ばれたか」と尋ね返された。彼の言う母とは、恐らく夢に見る白い美女だろう。良く似ているのもあるし、三の大陸に来てからよくよく彼女の夢を見るとあって、多分そうだと頷いた。
「ならば、ワシが出来る事などないぞ。精々、愚痴に引きづられんようにな」
力関係は彼よりも母親の方が強いらしい。急に姑と会う決心をした途端に夫に見捨てられたような気分になって眉根を寄せる彼女の背を、苦笑いと共に押し、彼は扉をゆっくりと開けた。
きいっと油が掠れてきた蝶番の音と共に、ふわりと温かな春の風が吹いて彼女の髪を揺らす。眩しく思って目を細めると、大きく揺れる白いカーテンと、その手前にこれまた白い女性が居て、ゆっくりとこちらに顔を向けてきた。
『哀れな子』
白い男そっくりのオパールの瞳が、痛ましそうに細められる。扉が閉まる前だったか、一瞬だけ背後の白い男がびくりと体を揺らすのを感じたが、すぐに扉が閉まって彼女は一歩前に出た。異様に若くて美人な女性を前に、彼女は一歩踏み出す毎に緊張していくのがわかる。見た目が意地悪な白い男そっくりなのと、とんでもない美人なのとで、嫌な事を言われたらしばらくは立ち直れない程にダメージを受けるだろうと思われた。
そんな彼女が女性の前までやってくると、細い若枝のような白い手を差し出される。反射的に手を出した彼女の手を滑り、前腕まで色っぽく触られ、彼女はぎょっと半歩下がった。
『おいでなさい、可哀そうな子』
催促され、うっと思いながらも彼女はゆっくりと女性の前で膝立ちになった。両腕を組み、祈るように目を閉じると、さらっと髪や布が擦れる音がして、顔の横に女性が近寄って来たのが分かる。その途端、それまで温かだった室温が一気に下がり、首筋には凍える吐息まで感じて彼女は身を竦めた。音だけのホラーハウスのように、耳元にはカチカチと女性が歯軋りする音が聞こえ、冷気でも吐くような声で『何故なの』と尋ねられる。元来、お化け屋敷は苦手だ。体に感じる寒さもあって、ぶるぶると勝手に体が震えだすのを、歯を食いしばって耐えていると、頬を撫でられ「ひゃっ」と声が出た。
『お前は憎んでいるのではないの? 怒っているのではないの? 勝手にこの世界に連れて来られて』
頬を撫でていた手が上を向かせるように動き、彼女はぎゅっと目を閉じたまま、それに従った。尋ねられた事は最もだったので、目は閉じたまま一度頷くと、『では、何故』ともう一度尋ねられる。しかしどういう意味での何故なのかわからなかったので、そのまま黙っていると、今度は冷たい腕が体の中心、あってないような胸の真ん中を滑って落ちた。
「ひぃやぁ…!」
手は組んでいる。どうやって胸の中心なんぞを触られたんだと疑問に思う一方、口からは情けない悲鳴が出て彼女はますます身を竦めた。恐ろしすぎて目を開けるなんて出来そうにない。しかし、寒い。次第に二の腕と太股が辛くなって、彼女は下を向いて身を竦め、両腕を抱きしめた。じんわりの自分の体温を肌に感じて暖を取っていると、何の反応もなくなったので、彼女は薄目を開けて膝先の床を眺める。白い肌やワンピースは見当たらない。あれっと思って顔を上げた彼女の目の前に、麗しい顔があって逆にびっくりした。
「な、…びっ、…くり、す…」
思わず声をかければ、間近で見ていた彼女にがっしりと頭を抱え込まれて、「をぅ」と呻き声が出た。顔が、近い。白い男の嫌がらせでも、ここまで近いのは無かったのではないか。緊張に硬直する自身を感じていると、白い女性は彼女の目を覗き込むようにして見、目が触れあうのではというぐらい近づいてくる。
『何故なの? あなたは許せるの?』
この近い距離を止めたくて、彼女は顔を背けながら言った。ずっと考えている事だった。故郷に帰ると言う事を、片時も忘れた事なんてない。それでも―――。
「わからない…わからないんですっ。どうしたいのか、どうしたらいいのか。貴女も、そうだったんじゃないんですか?!」
掴まれているのは頭だが、抱き寄せられるようにして背けた首に何かが触れる。冷たいっと思った直後には、かっとお酒を飲んだ時のように熱くなる、何か。触れた瞬間「あっ」と声を上げて、彼女は身を硬くした。冷たくて熱い何か変な物は、沁み入るように首筋から内部に向かってくるようである。それが心臓部に触れた時に、どくんと重く動いて、かっかっと熱くなってきた。この感じは覚えがあり、彼女は呻く。
「怒ってるんですね」
心臓に入ったそれは、どくんっと押し出されて左腕の付け根から全身に回り、首元から競り上がってくる。つんっと勝手に鼻先と目に刺激が来て、苦し気に彼女は頭を振った。この感じはと、目に涙を溜めながら。
「悲しいんですね」
怒りながら泣き、体は熱いのに、手先からはすっと体温が消えていく。寒さも相まってさらにガタガタと震えだして、彼女はぎゅっと自身を抱きしめた。
「苦しい…寂しい……わかります。私も、そうだもの」
こんなに苦しくて寒いから、耐えきれずに体を抱きしめるのだ。でも一人でどう頑張ってもこの寒さは消えず、無条件で抱きしめてくれた故郷をどうしても想ってしまう。この女性はこんなにも悲しんでいて、誰かの力が必要なのだ。力を下さいと、彼女は念じた。ぐっと一度目を閉じて気合いを入れると、目を開けて前を見る。美しい女性は、真っ黒いドロドロした何かに変わっていた。どこか見覚えがある、その姿。一の大陸で見た異形とそっくりのそれに、意を決して彼女は抱きついた。虎の時は嫌な匂いと感触を受けていたそれは、元があの美女なせいか良い匂いがして、ふわりと温かくさえあった。抱き潰してしまえるような柔らかさはなく、個体を感じる硬さをぐっと手を伸ばして抱き締める。
「一人で泣かないでください。私も、一緒に、考えるから」
言って、自然と涙が零れた。確かに、私たちは一人ぼっちだ。この世界に来てやっと、そう自分でも認めたのかもしれない。
恐らく自身は、彼女を母の代わりとして見ていたのではないか。
余程、母の呪いじみた力が強いのか、日中のほとんどを眠り続ける彼女。その様を見守りながら白い男は、自身もまた母の呪力を持て余していたのだろうと思った。
二人だけの世界で完結させようとした母と、母の姿ばかりを追い駆ける父の姿から、望まれた子ではないと子供心に参っていたのかもしれない。それがよくよく歪んだ形で現れ、時折、彼の意識を奪う様にして彼を行動させる。世界を恨むと言った母の繰り言に操られるかのような奇妙な体験だが、面倒だと言い訳して、それを受け入れてしまっていたのではないかと考えるのだ。
彼女を最初に見つけた時も、何かに導かれるようにして他の大陸へ足を向けていた。黄と黒の珍妙な色の竜を見た時、彼がはっきりと彼女の人としての姿を捉えていたのは、母の呪力のせいだろう。そのためか、彼女に何かの引力を感じて支配したいと強烈に思ったのは、最初に言った通り、彼女を母の代わりとして、恨み事を言いたかったからなのかもしれない。事実、異形となりし者どもの残滓と戯れる彼女に霧の魔の法をかけて惑わせ、人へ戻る暗示が上手く成功した時は奇妙な愉悦が湧き起こったし、彼女の記憶や人格を白昼に晒して、その偽善じみた行動を指摘した時の彼女の表情から痛快な気分になった。異形の姿をしているのに魔の法を使う奇妙さといい、母の呪力に反応する特異な存在といい、この世界でただ一人だと言われていた異界の人間である母を彷彿とさせたのだろう。ともすれば、こちらを見ていた様で見ていなかった母への思慕と子供の頃の挫折感を彼女に投影していたからこそ、彼女の負の表情が痛快だったのか。やりすぎてしまった事により、彼女の拒絶から暗示や魔の法が薄れて、彼女が異形として閉じこもってしまい、二の上帝が介入してきてしまったが、これで彼女と縁が切れるとは微塵にも思わなかった。このすぐ後には、黒い竜の、異形の男が彼女を連れて来、自然と笑みが浮かんだものだ。
どちらにしろ、あまり良い感情を持っていなかった自覚はある。だから三の大陸に来てからも彼女を困らせたり、再び異形となるよう牢に押し込んだりも、無理矢理婚姻を結んだりもした。以前の自分なら、失意にくれるだろう彼女を放置し、あの手この手でいびり倒していたと思うが、すっかり母の呪力が抜けてしまった今思うのは、申し訳なさと、異界から来たという彼女の孤独への共感である。勝手な思いだとは思うのだが、こうして彼女に寄り添うと心地が良い。強い眠りのせいもあるだろうが逃げ出さず、声をかければ返事をし、可もなく不可もなくただ傍に居る。それが静かで平穏で、今になって母が子と二人きりの完結した世界を求めていた理由が分かり、彼もまた母の性格を受け継いでいると苦く笑った。
彼女は、彼女自身話していたように、他の世界からやってきたのだろう。母の時のような明確な原因なんてわからないが、この世界に呼ばれてやって来たのは間違いないはずだ。でなければ、上帝達のように自然と魔の法が使える事もなければ、母の特異な呪力に反応をする事もないだろう。彼から見ても彼女に何ら特別な力は見えないし、彼女自身に自覚はなし、むしろ認める事を恐れているようだが、まず間違いない。それが、彼に会う為だとしたら、これ以上もない喜びなのだがと、彼は彼女の頭を撫でた。そうでなくとも、情や興味が湧いた今、もはや彼女を手放す気はない。二人完結した世界だろうと構わないと薄く笑い、それには一の上帝の存在が目下の問題と、思案した。
三の大陸に囚われていると言いたげな目を見ていると、単に「妻だ」と紹介したぐらいでは引き下がりそうにないように思う。まさか駆け落ちはすまいよと頭を悩ませる一方、思い込みの激しさや一の大陸の”常識”から、黒い竜となった彼女を仇として襲いかかりそうで困る。私室に立ち入るなと忠告したが、幾許の効果があるものかと、彼は守人の言を思い出して唸った。時間がないと、彼女を見る。
「早く目覚めよ」
意識だけでなく、上帝としての力に。母の召喚もそうだが、意味なくこの世界に引き込まれるはずもないのは、世界の意思を薄ぼんやりと感じる上帝として言える。彼女の役割が母の負の感情の昇華であれば、このまま竜の姿であるはずもなく、人に戻り、竜の姿を取る上帝として成るだろう。それだけ、母の力は強い。
「そうなれば……、」
―――お前と。
幸福な想像をした彼は、眠る黒い竜を穏やかに見たが、かたんっと微かな音が天井の明りとりの窓から聞こえ、険しい顔をしてそこを見上げた。日の差し込む時間帯、逆光で黒い影しかわからないが、誰か窓に張り付いてこちらを見ている。線の細い印象の一の上帝でもないし、守人であるはずもない。竜の姿が見られたかと緊張した彼だったが、件の人物は天窓を器用に外すと、そこからロープを使ってするすると下りてくる。距離が足りず、最後はどすんと飛び降りたのは、中肉中背の如何にも騎士然とした男で、その平凡な顔に見覚えがあった白い男は怪訝な顔をした。ここにはいないはずの人物である。
「御方」
防寒着の所々に雪を残し、今やって来たばかりと言った風体の騎士が破顔する。数ヶ月前に会った時と違い、影の体でなく、今度ははっきり人だとわかる肌と顔立ちを持っていた。ただ、髪と目の色は二の大陸の民の様な黒で、直毛の髪だけが違う。顔立ちは一の大陸のものなのに、眠る彼女の人の姿と似たような雰囲気を持つ彼の姿に、微かに三の上帝は眉根を寄せた。
「お前…」
一瞬呆気に取られるが、次には傲慢にも見える程ゆっくりと、長く白い髪を掻きあげる三の上帝。魔の法がかかる西の棟にあって一番効果が薄い天井から入って来たのだろうが、その気配を直前まで気付けなかった三の上帝は、眠る彼女の騎士であったことで拍子抜けするような、妻の回りに居る目障りな人物を見つけて苛立たしいような、そんな気分だ。あの屋敷を出る際、微妙な距離感を持つ騎士に最後通告と釘をさすつもりで言ったが、今となっては余計なひと言だったと思える。現に、黒い竜の姿をしている彼女を目にして、曖昧な距離で動揺していた過去など忘れたように、恋人を見つけたかのような笑みを浮かべていた。
「ナナシ様には、ご機嫌麗しく」
「気安く呼ぶなと言った」
いつかのセリフを繰り返して、しかし、その時と違う心情で二人は向かい合った。どちらとも何も言う事なく、むしろ三の上帝が、彼女の騎士、ギョウの出方を窺っている感の間が流れる。どういった心境の変化があったのか、晴れやかな表情さえしているギョウは、騎士の礼を取った後、苦笑するように言った。
「三の君には感謝せねば。私が決意出来たのは、貴方様のお陰です」
少し寂しげな顔で竜を眺めた彼は、痛ましい表情の中にも敵意に似た光を灯してナナシを見ている。以前の自分なら何と言っただろうかと思いながら、ナナシの口は動く。
「もはや、そやつはワシの妻じゃ」
「存じております」
宮への旅路の中で情報や噂を得ていたのかそう言うが、目を細めて竜を眺める姿に弁えているようには見えず、そのまま何とも言えないままでいると、ギョウはさらに「それでも、私は、御方をお慕いしていると言えます」と笑って言った。
「御方がご決意された事を、私には覆す事はできません。ですが、一番に傍に侍るのは私です。貴方ではない」
明確に鋭い視線が返って来て、ナナシは自然とにたりとした狂気じみた笑みを浮かべていた。無性に腹が立って、自然と「ふざけるな」と言葉が出る。
「ワシの妻となった女だ。そやつが竜となったのは、ワシと契った為でもある。今更、お前にやる気はない」
余所の男の妻となったからには覚悟しているだろう事も、はっきり言えば傷となる。そう先手を取ろうとしたナナシであるが、それも含めて覚悟していたのか、ギョウに変化はない。
「それは、どうでしょうか…」
「なに?」
思わせぶりに笑顔を浮かべたギョウの言葉に、一瞬寒気を感じて尋ね返したナナシだったが、刹那襲ってきた衝撃に無様に倒れ伏した。




