迷子3
「カリナ」
耳元で声をかけられて、彼女は覚醒した。抱きしめられて頭を撫でられている様だ。うっとりと瞬きすれば、目尻の辺りを撫でられる。体の下にはさらさらした布の感触と、体の周囲に毛皮のようなぬくぬくと温かな気配があって、さらにうっとりと彼女はまたたいた。自分はどうしたのだろうかと彼女がぼんやりしていると、視界いっぱいに白い男の姿が映り、『旦那様』と彼女は口を開こうとする。けれど、声は出ず、白い男は苦笑するように言った。
「無理にしゃべらなくともよい。お前の声は魔の法で聞こえている」
そうかと納得して眠るように目を閉じると、大きな鼻息が起こって布を巻きあげた。ふと、彼女は体に違和感を感じる。白い男が自身の鼻先を撫でてくれているのだが、その面積が随分と小さく、さらに自身の鼻先が尖っているような気がするのである。一度気になった違和感は消えず、彼女は眠気を殺して目を開けた。鼻先が見える。色は黒で艶めいていて、ギョウのように美しいと思った。それから体を身じろぎすれば、背中から何かが立ちあがるような感覚。ぐっと伸びをするように体を起こせば、「こら、暴れるな」との声が下から聞こえ、びたんと尻尾が動いた。
『尻尾?』
「なんじゃ、鈍い奴だな。その姿でもう何か月も眠っていたというのに」
笑い交じりに言われて、彼女は困惑顔で一度体を横たえた。まだ起き上がるには体が辛いのだ。すると、横たえた体を乗り越えて首元にやって来た白い男は、そこがまるで玉座であるかのように腰かける。すると、彼女でも不思議な程ぴたりとして、その姿勢で彼は再び彼女の頭を撫でた。
「どうもお前がワシの呪いを引き継いだようでな、今は竜で居るのよ。どうだ、何か不調はあるか」
『体が痛いです。足や内臓辺りが』
三の上帝が竜に成った時のように暴れでもして攻撃されたのだろうかと心配する彼女に、三の上帝は少しバツの悪い顔をして頭を撫でてきた。額だけでなく、頬や顎の下までも撫でてくれるので不思議に思えば、「次からは加減してやる」との声。やはり暴れたのだろうかと思って『ご迷惑を…』と言えば、「何、夫の務めよ」と言われた。そう言えば、婚姻の儀式はどうなっただろうかと問えば、どうも眠った竜の姿のままだったので、秘密裏に行われたらしい。
『何から何まで、ご迷惑を…』
「案ずるな、これで晴れて夫婦となった。今は体を休めるが良い」
妙に彼が優しいなと、若干気味悪く感じながらも、本来ならば自分がなるはずだった呪いを彼女が引き継いだ事で後ろめたさを感じているのかもしれないと思う事にした。それにしても、本当に体が億劫だ。目を閉じて眠りの体勢に入った彼女の耳に、扉が開く音が聞こえてくる。
「大伯父上。またここでしたか」
「何だ、甥子よ。新婚の邪魔をするでないよ」
呆れた若い声に、不機嫌そうに返す白い男の声。すぅすぅとしながら彼女が耳を澄ませていると、若い声は「用もないのに、こんな巨大な異形の傍に来ようとはしませんよ」と苦言を言った。やはり自分は竜の姿になっているんだなと、自然と納得してしまって彼女は眠りに落ちる。彼女が完全に寝入った気配を感じて、それまでにたにたと笑みを浮かべていた白い男は、途端に眉を吊り上げた。
「口が過ぎるぞ、王よ。災厄が降り懸からず済んだのは、こやつが呪いを引き受けた為だ」
「……申し訳ありません」
長く生きている三の上帝と違い、災厄を知らない今の王は、上帝の役割についても疑問に思っている。魔の法の回復と異形の抑制のために三の大陸中に立ちこめる霧のせいで、他の大陸との交流が上手くいかないのが一番の原因だ。それには他の大陸と交流を持ちたくないといった三の上帝の意向も含まれており、それも対立の原因となっている。これまで古文書や青い目の守人の存在、不安定な三の上帝の様子から災厄の話が真実であると頭で納得しているものの、もう千年以上も前の事とどこか他人事に思っている節があった。それが、どこの馬の骨とも知れない女を目の前の男が連れ帰り、そうして呪いを肩代わりして眠りについたとなれば、呪いの影響を考慮しなくて良いという事だ。早速、一の大陸へと使者をやった王を、三の上帝は険しい顔で見ていた。
「用がなければ、戻れ。王は楽な仕事ではないだろう」
「用はありますとも。そろそろ宮にも、王城にもお顔をお出しください。新婚新婚と、もう数カ月も眠った竜の傍に座っているだけではないですか。夜は戻って来て頂いて結構。昼間は仕事をしてください」
人に執着する性格ではなかったと思いながら、まだ渋る三の上帝を見て、若い王は続けた。
「先立つ物がなければ、彼女の寝所を造るのもままなりませんよ。何せ、それだけ巨大ですからね」
宮の自室にも戻ろうとせず、三の上帝は寝むる竜の棲む西の棟へ布やクッションを大量に持ち込み、彼女の体の回りを整えた。それから毎日竜の部屋に籠もっては、彼女が目覚めるのを待っていた様子である。先ほど起きていたのは見たから、婚姻の儀の借りも含めて、そろそろ働いてもらわないと困る。しばし嫌そうに若い王を睨んでいた三の上帝だったが、寝息を立てる黒い竜の顔に視線を落とすと、ため息を吐いた。
「良かろう。あの小僧が参るのだったな」
「お願い致します、幻惑の君」
頭を下げる若い王に、三の上帝は「ちっ」と舌打ちした。
霧の魔の法が一等得意とあってか、そのイメージから作り出された裾の長い衣装を纏い、三の上帝は用意された上座に腰かける。裾を払い、不機嫌そうなまま頬杖をついた彼を、鋭い眼差しで迎えたのは金の髪に青い目の、一の上帝。準備が半年単位で掛かる正式な面会ではなく、より手早く会う為か、彼は一の大陸のいち貴族としてやって来ている設定であった。その方がこちらとしても面倒がなくて良いのだが、一の大陸との交流を狙う三の大陸の王は、丁寧に彼を接待しており、色々と残念な事になっている。それをわかっているのかいないのか、年若い上帝は挑むような目付きで三の上帝を見上げていた。
「お目通り叶い、光栄でございます。幻惑の君」
「ご託は良い。要件を聞こう」
何やら含むような彼の視線に、無用な腹の探り合いは不要と三の上帝は言った。正直、彼が何の目的で来たのかが図りかねている処であったので、まずは話を聞くしかあるまい。普段の、自国の貴族たちと話をするような気分で足を組んだ彼だったが、睨む視線の青年が「では」と続けた言葉に眉を顰めた。
「なに?」
「侍女をお返しくださいと申しました。黒髪黒い瞳の、異国風の顔立ちをした女性です。竜の異形に攫われた後、この大陸へと渡っているのは間違いございません」
確信を持って言えるのは、奴が風を使う上帝だからだろう。身分を隠したかったのではないかと思いながらも、件の人物に心当たりがありすぎる三の上帝は、しばし目を閉じて考えた。元々カリナは、彼女の従者が連れてきた旅人も同然の身分だったのだが、今は自分の妻であるのだ。二の大陸では異形と戯れる奇異な人間であったが、一体いつ侍女になったのかも疑問である。恐らく二の上帝に拾われた後だと考え、それにしてはと、薄く目を開いて一の上帝を無表情で観察した。彼女とこの青年との接点がわからん。ため息を吐く様に深く呼吸し、彼は口を開いた。
「使者殿。その侍女の捜索には力を貸そうが、異形に攫われた者をワシが全て知るわけではないよ。ここ一月に救助した人間は、役人にでも聞いてくれ」
「いえ、間違いなく、この城に居るはずです。一の上帝より言を承っております」
本人の癖に白々しくも言う青年に、三の上帝は渋い顔をした。
「申し訳ないが、たかが侍女。何をそんなに気にかけておるのか。諜報の書でも持っているのか?」
「彼女は……、一の上帝が宮に迎えたいと」
思わず噴き出しそうになり、自然に三の上帝は拳を一つ口元に持って行って咳払いした。顔の表情が変わらぬ性質で良かったと思いながら、その片隅で、あの年増はどこで年下の男を誑し込んだのかと考える。想像つくものでもなかったので、もう一度思案するように目を閉じてから開け、彼は青年を見た。
「王の許可さえあれば宮の中を動いてもワシは何も言わん。ただ、ワシの私室だけは立ち入らないで頂こう」
人の姿ならば、自分の嫁として紹介すればいいだけだが、竜の姿のカリナを見られればどうかは心配である。異形となりし者同様、時間をおいて体に馴染めば元に戻る可能性もあり、今は自室に匿い、時間を稼ごうと考えた。
「お心遣い感謝いたします」
「では、ワシは休む。ゆるりとなされよ、若き使者殿」
最後の最後まで疑いの眼差しで見られて閉口しながら、用は済んだとばかりに彼は退室する。背後では、熱心に一の大陸とのパイプを作ろうとする三の大陸の王と、困惑する一の上帝の声が聞こえ、ゆっくりと扉が閉められて三の上帝はほっと息を吐いた。部屋に帰り、彼女が起きていたら真っ先に一の上帝との関係を聞かねばならないと思いながら足を進めると、青い目の男が物影に見る。
「何だ」
父親の生まれ変わりとは知りながらも、生まれ変わったのだから別の人生を楽しめば良いといつも思う。だが、罪の意識なのか、母の面影にまだ囚われているのか、彼は三の上帝の傍を離れようとはしなかった。今も何か気になる事があってだろう。声をかければ、「宮に賊が入り込んだ」と簡単に忠告される。それを排除する仕事だろうと視線を向ければ、既に何戦かやり合っているのか傷だらけで、流石に眉を顰めた。
「親の庇護が必要なワシでもないぞ。休め」
「一人は追い返した。他は影が探っている」
「物騒な事だな。あの若造め…」
青い目の守人が”一人”というのだから、恐らく一の上帝についてきた護衛だろうとすぐ思った。三の大陸が、奴の言う”侍女”を捕えているとでも思っているのか。厄介事を呼び込むだなんて、全く傍迷惑な嫁女だなと彼は、青い目の男を下げると眉根を寄せた顔のまま、部屋に入った。
今、彼の私室はカリナの眠る西の棟となっている。過去の魔の法の影響なのか、改めて三の上帝が張った魔の法の影響か、入れば外気よりも冷やりとして、四隅は霜が降るように白っぽい。吐く息さえも白っぽいが、三の上帝は何故か平気だった。精神的にも同様で、もう母の部屋を遠目に見て怯える必要もなく、最奥の扉を開ければ、それなりに情の湧いた嫁女が鎮座しているのだからかもしれない。
『旦那様…?』
「起きていたか、丁度良い」
白い部屋にいた黒い竜が、僅かに頭を上げて声をかけてきた。衣装はそのまま、バサリと靡かせると定位置に腰かけ、彼女の鼻先を撫でながら彼は声をかける。
「お前が浮気性とは知らなんだ。一の小僧とはどういう関係か」
『いきなり何をおっしゃるのですか。一の上帝ですか? 二の大陸でお会いしました。不思議な方です』
「あの小僧の横恋慕か。なるほどな」
本当に関係が薄かったのだろう、簡単に言われて鼻で笑いながら白い男は黒い竜を撫でる。まだ眠いのか、時折「くぅる」と甘えてくるのを可愛く思いながらも、「ワシの嫁女は、不細工の癖に、男をその気にさせるのが上手いな」と皮肉を言ってしまう。反論する元気もないのか、『そうですか』と素っ気なく顔を背けられた。
「気を悪くするなよ」
『知りません』
眠いのもあって機嫌が悪いだろう彼女のツンとしたのにも、ふっと破顔してしまう。たった一度抱いただけの女に気が惹かれるのも不思議だが、やはり身の内から母の恨み言が幾分か薄らいだのが原因だろう。知らず知らず、重かったのだろうなと彼は改めて思った。
「早く戻れ。一度は顔を見せねば、あの小僧、宮を逆さにしかねん」
『そう、ですね。異形では、きっと討伐されてしまうでしょう』
言葉の端々から一の上帝が来ていると気付いたのだろう彼女は、何か思い出す様に言った。一瞬眠気を振り払ったような目をしたのに気付き、白い男。
「変な所で冷静だな、お前は」
ゆっくりと首を起こすので、白い男は自然と立ち上がった。それに向きあうように、彼女。
『旦那さまこそ、上帝なのに、私を匿って良いのですか』
「嫁を売るほど薄情でないぞ」
少し気を悪くした男の表情を見て、彼女は一瞬言葉を失くすと、次には疲れたような、納得したような、首を下げて元の位置に戻った。他に何も言わないので、再び座り直した後「照れたか」とからかえば、さらに無言を貫くので、可愛くなり口付てやる。びたんっと尻尾が硬直して落ちたので、図星なのだろう。
「安心せよ。ワシが守ってやる」
西の棟は魔の法で守られている。さらに三の上帝である自身が本気で魔の法を使えば、いくら相性の悪い風の魔の法をもつ一の上帝だろうが、負ける事はないだろう。存外真剣に言った言葉に、小さく、本当に小さくカリナが返した。
『……お怪我はなさりませんように』
一度その立場になれば、どこまでも可愛い嫁女だ。




