迷子2
窓の外は日が沈んだ直後の薄暗い中に、一番星が見えた。足を止める。それまでずっと歩き詰めで、体の末端は冷えるのに額には汗が出、ちょっと体を休めると汗で胴体も冷えた。はぁっと指先に息を吹きかけても梨のつぶてで、一瞬を我慢して首に手を当てる。ぶるっと体が震え、それでもまだ彼女は西の棟から出られずにいた。
手に赤い本はないので、もう用無しと放り出してくれればいいのにと、何度目か思う。このまま夜になっても、幸いな事に部屋はあるのだし、そこのベッドを拝借しようと考え、目につく場所は片っ端から開け放っていた。できれば、居なくなったことに気付いてカンあたりが迎えに来てくれるといいのだけれどと、彼女は小さくため息を吐く。
妙に温かな風が服に絡んで通り過ぎた。実際は夕方の冷たい風で指先が凍えたのだが、顔や首に当たる部分に巻きつくような感触を受けて彼女は片手で髪を払っていた。そして、自分の指の冷たさに「ひゃっ」と悲鳴が出る。冬の朝、急に温かくなった日に出る、濃霧の中を行動している気分だ。
同時に二の大陸に居た頃、こんな感覚をずっと過ごしていたのも思い出す。あの時はどうしたのだっけと考えても、結局は二の上帝に助け出されるまで、夢の中をふわふわ過ごしていた事しか思い出せなかった。一度だけ、強い霧を払った事があったが、あの時は、怒りのままに風を呼び込んだのだ。わかったからどうという事はないのだけれど。
今は怒りよりも恐怖や寂しさしか感じない。せめて西の棟を出てから守人に本を押しつければ良かったと彼女は思った。そこに、夜の風の匂いが舞い込んでくる。すわ守人かと身構えた彼女の前方には、少し距離を置いて呆れたように腕組みする白い男の姿があった。
「旦那様」
嘘みたいだと呆然と言えば、白い男は腕組みを解いて歩み寄ってくる。赤い本を持っている時に見た、異様な雰囲気は今はない。正直、これほど彼を有難いとか、待っていたとか思った事はなかったなと感じた。彼は目前で足を止めるとじっとこちらを見下ろして、黙りこむ。何か口がもごもごしているなとじっと見ていると、バツの悪い顔になった。
「聞いたのか、あれから」
多分、父親の転生した守人の事だろうと思い、「はい」と返すと「そうか」と短く答えられる。そのまま二人して何も声をかけれずにいたのだが、「戻るぞ」と彼は言って踵を返した。慌てて後を追っていくと、左手側に青っぽい廊下が見える。ふと気になって目をやれば「母の部屋だ」と前を向きつつ白い男。
「昨夜と同じく、ワシにはそれなりに記憶は残っている。どうも、母の残した言葉の中に魔の法が発動する鍵があるようだが、面倒で試した事はない。逆に過剰にワシを囲おうとするアレやカンが異常なのだ」
「皆さん、旦那様の御身が心配なのでしょう」
「だろうな。ワシが居らねば、母の”芽吹く力”は消える」
竜となって暴れる事を心配しているのかと思えばそうでないらしい。きょとんとすると「それは聞かなんだか」と少しだけ白い男が振り返った。
「今や魔の法は、母の残したワシの中の力で、ぎりぎりの状態で世界を巡っている。あれが呪いを受けて転生する以前は消費は大きいが効率の良い魔の法の使い手が多く居た。今は消費は軽いが効率が悪く、その分異形が生まれやすい。異形とはな、その身を犠牲にして世界に魔の法を返す、毒された世界を浄化する存在よ。故に人にとっては有害となる。今や人は世界にとって有害だからな」
「では、センさん達は?」
「あれは、異形に適応出来た稀有な人だ。これから時が流れれば、いずれ人よりも奴らの数が増えるだろう。そうして世界は回るとワシは思う。いや、母が言った事だ」
再び歩き出す白い男の後ろを小走りでついて行きながら、彼女はもう一つ声をかけた。
「三の上帝は、もしや、旦那様がずっとお一人で務められていたのですか」
「上帝は天から降りてくるなど言うがな、ワシの母以外はここに在った数種の魂で、次々に循環させて使われているだけにすぎん。ワシも死ねば使われるかもしれんが、母が長寿の種族だったのよ。もう千年もここに坐して眺めているが、まだまだ死ぬ気配はない。儘ならぬものじゃ」
さっさとこちらに気を使わず歩いている白い男。彼女は彼に着いて行くのと一緒に、この人は疲れているんだなと思った。仕事の事で疲れる事は当然だろうが、きっと家族の中でも立ち位置が分からず、不安定なままとにかく進むだけ進んでいる状態なんだろう。慣れない家庭の外での生活と不安定な両親、不和の多い一族。権利よりも義務を、私益よりも公益を尊ぶ家風の中に置かれて、分からなくなった自分の意思。もう戻らぬ時間が、人生や人格の形成に重要だったモノだったのに、奪われた者。似ているなと、彼女は思った。
「オルド様」
ぴくりと足を止めて、白い男は不機嫌に振り返る。父親が教えたとわかっているからか、「言っておくが…」と再度注意しようとした彼に、彼女はしかと目を合わせて言った。
「貴方を信じようと思います。私の背の君。どうぞ、安らかにお眠りできますよう」
彼の肌が病的に白いのはなぜか。生まれもあるだろうが、薄らと化粧をしているのに彼女も気付いていた。血の気の引いた顔が不眠から来ていると気付いたのは、彼が不安定な精神を持っているのと、昼の明るい時間に昼寝を取っている事に気付いてからだ。彼女自身も、生まれてすぐから過敏で寝つきが悪かった事もあり、同じ気配を彼に感じたのだ。
僅かに瞠目した白い男は、「気付いていたか」と苦く言った。彼の血流が上がって血色がよくなれば、目の下にはっきりと大きな隈を見る事が出来る。ため息のような大きな呼吸の後、彼は大股で彼女の前までやって来たので、叩かれるかなと彼女は少し不安に思った。名前は彼にとっては、ある意味禁忌のようだから。だが、彼は、「カリナ」と短く呼んで挑むような少し気に障る笑みを浮かべて、威圧的に言った。
「母もそうだったと聞く。お前が納得できる時まで待ってやろう。だから、次にワシの真名を呼ぶ時は、お前の真名をワシに明かせ。偽名だろう、”カリナ(お前の名)”は」
「ワシは、勘が良い方でな」と、秘密を一方的に知っているわけではないと白い男はにやりとする。言われて彼女もかっと頬を赤らめた。ばれているとは思っていなかったのと、こちらが秘密を抱えたままで今のセリフを言ったと言う事は、とても格好がつかないと思ったのだ。事実、彼は厭味ったらしく口を開く。
「お前の偽善がどこまで出来るか、付き合ってやろう。ワシに同情でもしたのか」
古来よりその土地の食べ物を口にしたり、名を口にすれば、隠されてしまった土地から離れられなくなるという迷信がある。食事は生きていくために必要だったから諦めたが、彼女はまだ”帰れる”事に拘っており、咄嗟に頭に浮かんだ偽名で過ごそうと決めたのだ。それも看過されてしまい、彼女は困って変な笑みを浮かべる。だが、それまで「待ってやる」と言った彼の好意に甘える事にした。嫌味ったらしいが、優しいところもあるのだ、この人は。だからこそ、信じてみようと思ったのだ。それは決して愛情ではないけれど。
「同情ではいけませんか? これが私の勘違いだったとしても、見て感じた事は私のものです」
「浅慮な愚か者だな、お前は」
強気に言えば、「負けたわ」と苦笑しながら男が彼女の手を取る。両手を両手で持ち上げられ、見守る彼女の前で彼はその包み込んだ両手の甲へと口付た。びくりとした彼女の驚いた顔を見て軽く鼻で笑い、白い男は彼女の掌を返してそこにも口付をした。そうして舌で何かを描く様に舐めるものだから、驚愕した彼女が手を引こうと暴れる。くすぐったいと笑いを堪える彼女の手を、痛いぐらいに握り締めて最後まで舌で何か描くと、彼は目を上げて鋭く彼女を見た。それまで困ったように身を引こうとしていた彼女は、視線に射抜かれてさらに及び腰になった。下がろうとする彼女の尻に手を回して抱き寄せると、彼。
「煽ったのはお前だ。責任を取ってもらう」
「だ、旦那様!?」
頭の上から降って来た声と、すっかり暗くなってしまった周囲を感じれば、及び腰がさらに引き腰になる。そこに腰を撫でられ、彼女の背筋は伸びた。かちんと固まってしまったのがわかったか、至極愉快そうな声が降ってくる。
「なに、ワシにも経験はある。安心して身を任せるが良い」
「私はそういうつもりでは、な、………こ、っ……ここで?」
真っ赤どころか、物凄い顔になっているのではないかと彼女は思った。腰に回った手もそうだが、いつの間にか膝の間に押しつけるように男の膝を受け入れてしまっている。すっと膝を上下されて、彼女の心臓は暴れ出した。縋るように見上げれば、目が合う前にぎゅっと頭を抱え込まれて視界が塞がれた。いつの間にか、背に窓枠の硬い凸が当たっている。
「…部屋なら良いか」
普段の彼であれば、より悠長に年増やら何だと言うだろう。だが性急な言葉で尋ね返され、彼女は恐怖で震えた。駄目だと、彼女は一気に熱が引いた。足が震える。抱き込まれて胸に押しつけられた横耳からは、彼の早い鼓動も聞こえていて、ますます恐ろしくなった。恐怖に我を忘れた彼女が、我を取り返す頃には、適当な部屋の寝台に腰かけさせられており、寄りかけられるようにして体側を撫でられていて悲鳴を上げた。
「気絶でもしていれば良かったろうに」
彼女の状態を正しくわかっていたのは、彼のようだ。少し同情めいた目を細められたが、そんなものを見ている余裕はなかった。すぐさま彼を突き飛ばして立ち上がろうとした彼女を押し倒し、パニックに陥って両手で拒否する彼女を軽くいなす。
「だんっ、…やめっ、ちがっ…」
今まで見た中でも一番の絶望顔。同じ様なのは彼女が気落ちしていた二の大陸の時に、彼は何度か見ていた。不思議な魔の法を使う彼女を見つけてあの場の異形との様子を眺めていたが、それが今自分の下に居る。奇妙に思いながら彼は抱きしめるようにして彼女を拘束した。
「いっ……やぁ……っ!!」
夢を見た。目の前に女の人が居る。とても綺麗な人だ。どこかで見た意地の悪い男の人と良く似た顔の女の人。どこの誰だったか知っているはずなのに、体が疲れているせいか思い出せない。最初は体の倦怠感だけだったが、そこから首の痛みや両足の付け根の脱臼するかのような痛み、引き攣る内臓を思い出して彼女は呻いた。崩れ落ちるようにして座りこんでいる彼女の前までやって来て、綺麗な女の人はそっとしゃがんで彼女の肩に手を置く。
『憎いでしょう』と言われて、何の事か彼女は首を捻った。ぽかんとする彼女をよそに、綺麗な女の人は続いて『悲しいでしょう』と言った。それには思い当たる節があったから、一つ頷けば、『帰りたいでしょう』と続けられた。それにも頷く。何処に居るかはわからないが、ここが家でない事は分かっている。どうやって帰って良いのかわからないが、ゆっくり、確実に家から遠ざけられている気配だけはあって、それが不安で不安でしょうがない。
『怖いです』と言えば、綺麗な女の人は肩に置いた手を、ゆっくりと抱き締める為に回してくれた。肩に頭を預けさせられ、撫でられる。温かくて気持ちいい。とても儚い女性だったから、こちらが脱力したら潰れないかと心配だったものの、撫でられるのが気持ちよくて次第に、緊張の力が抜けていく。そうして体の痛みから眠気が差し、うつらうつらし始めた所でまた女の人から声がかかった。
『悲しいでしょう、見知らぬ場所で』
あまりに優しい声で言われるので、涙が出てきた。頭を撫でられながら、ぐずつけば、ぎゅっと抱き込まれる。
『苦しいでしょう、一人ぼっちで』
大丈夫だと言うように抱きしめられ、それが誰かの感触に似ていると思った時には、無意識に『お母さん』と呼んでいた。笑うでもなく、ただ撫でてくれる女の人。
『憎いでしょう、攫われて』
耳元で囁かれる、少し毒を持った言葉。憎いと言うには、悲しみが大きすぎて『わからないの』と言えば、ゆっくりと離され、目が合った。何色にも見えるオパールの目が見ている。鼻をすすりながらそれを見ていれば、『貴方を一人ぼっちにしたこの世界が憎くはないの』と尋ねられる。そういう怒りが今は湧いてこなくて、もう一度『わからないの』と答えれば、彼女は同じ様な、悲しみと怒りを伏せた目で口を開いた。
『私は―――』




