迷子
扉に手をつく一瞬前の姿勢で彼女は座り込む。目の前には息を荒くした青い目の守人が、以前見た時と同じ毛皮の衣装で立っていた。ずっと走っていたせいか、なかなか呼吸が整わず、うっかり落としてしまった赤い本を目の前で拾われる。ぼうっと視線で追っていくと、険しい顔のままその本を眺めて、こちらに寄越してきた。カンに禁書だと聞いていたから、受け取っても良いものかと悩んでいると、彼は口元の布を緩めて声を出す。
「持っていなさい。これは処分してもまた必要な者の前に現れる」
無限ループの時から思っていたが、やはりこれは呪いが掛かっているようだ。益々受け取りたくなくなった彼女に無理矢理渡し、彼は立ち上がるよう促した。
「この西の棟は過去の魔の法で守られている。私とならば抜けられるから、来なさい」
「この本も持って行くのですか」
「そう。上帝にさえ渡らなければ問題ない」
声の調子から、どうも本を処分して再び行方不明にするより、多少リスクはあるが手元に置いておいた方が良いという判断の様だった。その保管者として選ばれても全く嬉しくない。苦い顔で立ちあがり、こちらを窺って歩きだした守人の後ろをついて行く。
完全に西の棟を抜ける前に、一か所だけ二人は寄り道をした。随分広くて天井も高い一等室のようなそこは、これまた古ぼけた調度品が置いてあり、彼に促されて猫足のソファに腰かける。古いながら座り心地は悪くない。ちょっと埃っぽいかなと思っていると、守人は立派な茶道具を持ってやって来た。出されたお茶は、カンが入れたのとは比べ物にならない、色のついたお湯のようなモノだったけれど。
「色々と疑問があるだろう。出来得る限りは答えよう」
「では………この本は何ですか」
他にも守人の正体とか、三の上帝がどう関係してくるとか色々聞けばいいのだろうが、まず一番実害が在りそうな本について尋ねた。目の前の人物は、困ったような、疲れ果てたような顔で軽く頷く。
「君は、3000年前、この世界の者が最初から皆、”魔の法”を使えたのを知っているだろうか。私はその時代に生きていた」
この世界の人間がそんなに長く生きれるのも、魔の法が当たり前に使えていたなんてのも初耳である。無言で目を丸くする彼女に気付いたか、「生まれ変わりというモノだが。わかるか?」と尋ねてくるので、慌てて頷く。
「だが、私が成人した時分から、次第に魔の法を使える人間が生まれなくなっていた。それについて、過去の学者は人間が魔の法を、所謂使いすぎによって世界を枯渇させてしまったと結論づけていたのだ。そうして、神に願った。己が失敗をどうにかして取り戻せないかと」
話の邪魔をしてはいけないと思いつつ、彼女は、この世界にやっぱり神が居るのかと眉根を寄せる。それをどう取ったかわからないが、守人は「浅ましいだろう?」と笑った。はっとして顔を上げれば、苦笑いされた様な気がする。
「だが、知らず知らず神を疲弊させていた事で神託は下りなかった。代わりに、魔の法を使えば使うほど、異形という反律の存在が出現するようになった。異形を倒すために再び魔の法を使い、我々は悪循環の中におり、とうとう、一番の禁忌を犯してしまったのだ」
「禁忌?」
「異世界から、魔の法を芽生えさせる存在を呼んだ。その時の王が、君の言う通り私で、やって来た女性が、最初の上帝…私の、妻だ」
神が降臨せしめたと言われるより余程現実的な話をされ、彼女は固まる。それより頭に浮かんだのは、”帰れる”という思いだった。一気に興奮してしまい、彼女は話の途中も忘れて身を乗り出した。
「帰れるんですね!!」
「何?」
いきなり喜色を満面にして詰め寄って来た彼女に、怪訝な顔をして身を引く守人。上手く意思が伝わっていないと、彼女はもう一度言った。
「異世界に干渉する術があるのでしょう、ここには!!」
在るとも無いとも言わず、弾む彼女をじっくり眺め、守人は慎重となった。
「―――君は、何だ」
「私は異世界から来たんです、こことは違う世界から」
もどかしく言えば、「それは無理だ」と即答が返って来て、彼女は鼻白む。一瞬言葉を失ったものの、すぐに言い募ろうとした彼女に両手を向け、守人は混乱する顔で「待て」と一言。
「当時、異世界に干渉するために用意した人間は、私と同じ力を持つ人間50人だ。現在では一人の上帝と同じ力を持つ人間を50人だぞ!? 現代で、異界に干渉するのは不可能だ。それでも、異界から来たと言うのか」
「一の大陸の森に居たんです。家の近所に居たのにっ。あちらは晩秋の夕方で、こちらは初夏の真昼ごろにっ」
悲痛な声で訴えれば、どこかで似たような状況にあった事があるのか、酷く嫌悪する表情ながら、落ち着く様に手で指示し、彼は咳払い一つ、「気を落ち着かせて聞いて欲しい」と前置きした。
その瞬間、彼女は目の前が真っ暗になった気がした。直後、倒れるようにしてぼすっとソファに落ちる。すっと守人が息を吸った音を拾った彼女は、俯いたまま、片手の平を見せ、一言、「もう、結構」と怒鳴るように言った。
「不可能に近い状態だというのも理解してます。その上で言われるというなら、召喚の術しかないと、そういうことでしょう?」
「…………そうだ」
少し間があったあとに、守人から肯定が返り、彼女は一層大きく震えた。勝手に頭が痺れるような感覚に陥り、眼球から涙が盛り上がってくる。守人に片手を伸ばしたまま下を向いていた彼女の顔から、一つ、二つと雫が零れた。真向かいから息を呑むような音が聞こえ、堪らなくなって彼女は両手で顔を覆った。ひぃひぃと呼吸が荒くなって、涙で顔面が痛痒い。もう何度もこの手の事で泣いているのに、涙は全く枯れない。日々生きるために食事をして、もう忘れるように努めて、それでも涙は枯れなかった。きっと死ぬまで枯れる事はないだろう。完全に心を壊しでもすれば、止まるのだろうか。
「ひぃひっ、ふふふ…」
泣きやもうと苦心して呼吸していたが、頭がハイになったのか笑いが出た。少し顔から両手を離す。
「ふはっ、はははっ」
確かに泣いているのに、笑いが止まない。呼吸をしているんだと思っても、勝手に顔が歪んでいるのが分かっていた。これまでにない程醜くなっているだろう顔を上げる勇気はなく、彼女は時々力任せに顔を押さえつけたり、呼吸のために手を離したりして、ずっと下を向き続ける。
守人は黙って見守ってくれていたが、しばらくその状態を繰り返すと、彼女は頭がくらくらし始めた。堪らず乱暴に顔を拭って顔を上げれば、真っ青になった守人の顔が見え、にたりと彼女は笑った。不気味な物を見る目に、勝手に異世界から召喚してくる狂った世界の住人に、思い知らせるように。この醜悪な顔が、貴方達のした事だと。だが、彼は真っ青の顔のままながら、気を入れるように真剣な顔をすると、「君が言った事は、真実なのだな」と、それだけ言って口をつぐんだ。
「――――――っ、うっ」
―――そう、そうですよ、私には、ちゃんと帰る家がある、家族がいる。
言葉にすることが出来なかったが、言われた瞬間に怒りの笑みは消え、悲しみがどっと押し寄せ、溺れた。窒息するかと思うほど、喉やら気道やらに空気がぐっと詰まり、膨らむ。呑み干したのは食道だったのだろうが、無理に押し込んだ反動は、胸の奥で痛みとなった。「かはっ」とせき込めば、流石に見ているだけでは心配になったのか、彼が隣に座り背を撫でる。
―――痛いよ、お母さん…。
そっと労わる手は、母と似ても似つかない硬くて大きな、父のものとも違う手で、その主に今の言葉は言えないまま、両目尻から頬をぐっと掴んで涙を耐える。このまま顔の肉が引き千切ってその痛みで、悲しみが誤魔化されれば良いのにと、手に力が籠もっていった。頭痛がより酷くなる。どれほど泣いたのか、喉も乾いた。そろそろ泣き疲れてきたのだと自分でわかる。労わるように肩と背に回された手は、敵にも等しいこの世界の住人のものだったが、それでも癒されるのだなと彼女は思った。彼女が泣きやんで来たのに気付いたか、さり気なく手は離れていく。
「私の妻も、そうして泣いた。君は、どこか彼女に似ている」
落ち着いたと思ったのだろう、彼の言葉に彼女は少し腹が立って言ってやった。「それこそ、貴方がたの身勝手な思いと感傷ですよ」と。ともかく、折角のドレスが台無しだ。両袖が涙やら鼻水やらでてらてらと光るのを何とか誤魔化そうとする彼女は、こっそり青い目の守人を盗み見る。女性が悲しみに打ちひしがれている間も眺めるだけ、お茶は出るがハンカチは出ないなど、彼はどこか気の使い方を知らない感じがすると、今頃になって半眼になった。まだ目元が痺れている気がして、彼女は指で擦る。
「それにしても、まだこの本について聞いていません」
自分で話を堰止めたのを棚に上げて彼女が言うと、守人は向かいのソファに座り直しながら頷いた。
「私と妻の関係は良好でなかったものの、子供には恵まれ、息子が生まれた。それがオルド……今の三の上帝だ」
魔の法とは違った”芽吹く力”を持つ彼女を召喚し、世界の魔の法の流れは少しずつ再生を始めたという。彼女が召喚されただけで異形の姿もぱたりと消えたというから、とても強い力を持った女性だったのだろう。その彼女は人々の羨望の圧力に負けて大人しくしていたが、次第に精神を病んで暴れるようになったらしい。
「あの、ナナシ、では」
夢の記憶では無理矢理娶ったと言われていたようだが、口にするべきか悩んでいると、様子を察したか、守人は「君はどこまで知っているんだ」と苦く言い、無理に結婚した事を認め、さらに彼女の心が病んだ事を告げた。それはそうだろうと、彼女は最初の上帝に酷く同情した。彼女の表情から何が言いたいかは分かっているようだが、触れずに守人は続ける。
「その名は母親がつけたのだ。自分が上帝となる時に名前は不要と”ナナシ”と名乗り、その息子にも同じ名を与えた。上帝としての名だと思ってくれて良い」
彼女が頷くと、彼は絵本の内容を簡単に教えてくれた。無理矢理娶った彼女の勘気だったのか、彼が多忙だったからなのか、子供が生まれてから母親に子供を取られ、会う事もままならなかったという。その間、二人きりで使用人も入れず、彼女の恨み辛みは全て子供に託された。母親が只人ならばまだよかったのだろうが、彼女のとても強い力と思いが息子の中に巣食い、こちらの世界の人間が手出しできぬ魔の法として完成してしまったのだと彼は言った。一種呪いのようなものだ。
「妻は、極度の心労からの衰弱死だった。そして目の前で母親が死ぬのを見、息子は暴走した。彼女の力を受け継いだ息子は、力の暴走のまま竜へと成り、大陸を引き裂く程の災厄を振りまいた。あの時、竜に瀕死の重傷を負わせて、私は力尽きた。そうして息子は瀕死の状態から、元の人の形に戻ったのだ」
「つまり、母親の事が書いてあるこの本が切っ掛けで、また彼が竜になってしまうかもしれないと?」
死んで転生した彼は、地位が高い人間だった事もあって、一連の物語が描かれたこの本を禁書とする。だが、転生するたびに必ずどこかで見かけるのだと言った。頷く守人に、彼女はさらに困った顔をした。先ほど追い駆けてきたあの状態で、白い男が竜へと変化して大暴れするなど悪夢以外の何物でもないだろうが、彼女が本を持っていたからと言って防げるものでもないと思うのだ。
「息子本人の前でなく、君の前に現れたことに意味があるのだろう」
「ナナシ様に見つかったとしても、私は責任持てませんっ」
あまりに願望が詰まった思考に、彼女は戦慄して強く言った。それに守人は苦笑すると、「だが」と彼女を見る。
「君は魔の法を使っていないのに、西の棟へ入り込み、今また彼女の残した魔の法へと干渉している」
「え?」
ぎょっとして一歩下がれば、魔の法の強い人間でなければ、毎回現れる不可思議な赤い本の影響化で、操られることなく行動する事は出来ない事らしい。また、本来ならば魔の法が使える者しか入れない場所に彼女が入りこんだ事に気付き、彼はやって来たのだと言う。
「息子は、君を新しき上帝だと言った。強ち間違いでもないかもしれない」
「――っ、やめてくださいっ」
反射的に叫んで、それからぞっとして、膝に置いた赤い本を再び見つめる。『上帝など、呪い以外の何物でもあるまい』と言った三の上帝と、『我が同胞を探している』と言った一の上帝の言葉が蘇った。まるで、三の上帝の代わりに自分が呪われそうだと思って、「無理です」と彼女は守人に押しつける。彼女の強い様子に気圧されたらしい守人は、押しつけられるまま立ち上がれず、その隙に彼女はさっと扉を開けて部屋から出た。
守人の強い守護から外れたせいか、再び彼女はどこかの廊下に出る。振り返るも、自分が出てきた部屋は周囲に見えない。だが、また何か押しつけられそうになるなら、一人で迷っている方がよっぽどましだ。窓から外を見れば、地上の庭では侍女たちの姿が見える。日は山間に掛かっていたが、沈む直前の赤よりは薄く、気休めばかりに時間があると分かった。セピア色の光が目に沁みる。ぐっと拳を握り、彼女は先の廊下に見える階段へと駆けだした。




