黒いフードの旅人2
虎の姿となった哀れな旅人は、数日間森を彷徨い、人であった時では不可能だった狩りをし、火を起こせない事を嘆きながら、空腹に耐えきれず生肉を貪った。仕留めたばかりの獲物は、魚であれ、獣であれ、甘い血の匂いがする。人間であるという自尊心のため、ぐじゃぐじゃと不気味な内臓を食べる事はしないものの、そうして夜に月を見上げれば、李徴と名乗った通りだと旅人は涙した。虎に成り、森へと帰った旅人だが、怒りが鎮火し、再び胸内に潜んだ今、人に戻れるのではないかと淡い期待を抱いたのも、本当である。結果は数日経ってもご覧の通りのあり様で、ますます李徴ではないかと絶望した。
いつも寝床にしている洞窟の奥、軽く掘った穴の中には、古びたジャージと汚れたTシャツ、ビニルの草履がある。此処へ来てどれほどの時間が経ったのか、考えるだけ無駄であるも、旅人いや、故郷に戻れない追放人となった自分はどうすればいいのか思いもつかなかった。恐らく、布であるジャージとTシャツはなくなってしまうだろうと思いながらも、臭いものに蓋をするように土を被せる。再び掘りだすのは、真に孤独となった嘆きを慰める時に、ボロボロになったそれに絶望する時だろう。我ながら、自虐的だった。
ぽたぽたと、獣でも泣くのだなと感想を持ちながら、咽び泣く。自殺しようにも崖上に来れば足がすくんでそれ以上進まず、覚悟を決めて飛び下りれば、獣特有の身体能力で反射的に着地し、食を断てば、精神が脆弱のために獲物に食らいついた後、命を粗末にできぬと食らい。では、自身より強いモノに殺してもらおうと街道に姿を出せば人は拝み、熊に挑めば勝ってしまい、同じ虎を探すが、こんな浅い森には居ないようだった。
本当に自殺するつもりなら、他の土地へ移ってしまえば良い。それをしないのは、小心者の自分、傷つきたくない、死にたくないという願望があるせいではないか。どっちつかずの曖昧な自分にがっかりしながら、ではこれからどうするかも考え付かない。
――――――助けて。
言っても詮無い事とはわかりつつも、呟かれた自身の声は唸り声となった。さらに涙が零れ、交差した前足の上に頭を伏せる。地面に映る陰影は見事で、美しい満月であった。虎となった李徴は全てを諦め、友人に頼んだはずだったが、自分は頼れるものも居ない。獣の心にも、なってはいない。すんすんと鼻をすすって、泣き疲れるのを待ちながら寝るのが、今の生活だった。明日には、森を抜けて遠くへ行ってみようか。不意にそんな考えが浮かび、月を見上げる。人の時とは違い、今は虎の姿だ。動物は自然と避け、人は神聖視するためか害する事もない。両手が使えない分不便ではあるが、比較的安全に旅が出来ると思われた。そうなれば、早く休もう。再び顔を伏せて、今度は気持ち穏やかに眠れそうだと感じた旅人だが、また唐突に変な音を拾い顔を上げた。
身を潜めるこの森は、木々が若く浅い森である。虎である自身以上に脅威があるとは思えなかったが、それでも山の中。故郷の怪談では、迷い込んだ山中の廃墟で霊を見ただとか、邪視を代表とする妖怪の類が悪さをするなど、恐ろしい噂話を聞く場所だ。乱暴に前足で鼻先を撫でて、旅人は洞窟からぐっと半身を前へ進めた。月明かりに、明確に黄と黒の縞模様が現れる。鼻先を上げて風の匂いを確認すると、一つは人らしきものを得、もう一つ、何とも言えない変な臭いを拾った。動物でも、植物でも、火山のガスの臭いでもない。良い匂いではないそれらは、嗅いだ直後から旅人を不安にさせた。なんだか胸騒ぎがすると、旅人はそうっと洞窟を飛び出した。
自分が良く行動する範囲の木々には、丁度目の高さに爪で引っ掻いた印をつけている。変な臭いがするのはその範囲ぎりぎりの場所で、もしかすれば熊と人がかち合っているだけかもしれない。その時は安堵して寝床へ帰る気だった。長い下草に身を隠しながら見たそこには、予想通り人もいたのだが、相対しているのは熊ではなく、ヘドロのような黒い何かである。見た瞬間から、旅人には生理的な嫌悪が浮かんだ。ぐにぐにとして、不快な臭いを出し、気持ち悪い。この一言が特に強烈に心に響く。それと対している人は、冒険者らしき大柄の男であったが、装備はボロボロ、剣も黒いドロドロで切れ味が鈍り、重くなり、散々な状況だった。体力の続く限り、黒いヘドロの攻撃を避け、逃げる機会を窺っている様子であるが、息は切れ切れ、そう長くない時間でやられてしまいそうである。
正直、人間不信である旅人は、嫌な思いを押し殺して黒いドロドロに飛びかかり、冒険者を助けようとは思わなかった。第一この浅い森に、冒険者の格好をして入ってきたということは旅の途中集落に寄った者、旅人を私刑した酒場の一員かもしれないのだ。黒いドロドロは気になるものの、人が死ぬところも、この臭いを我慢して眺めるのも嫌であったので、旅人はそっとその場を後にしようと思った。
転機が訪れたのは、その時。「ぐあっ」という悲鳴と枝が折れる鈍い音が耳に届き、反射的に振り返った旅人の目に、黒いドロドロに片腕を取られ、吊り下げられた冒険者の姿が映った。枝の折れる音は、骨の折れる音だと理解する。それだけなら不快だと忘れてしまえるのだが、目が合ったと思った冒険者らしき男が、旅人の姿を認めて、にこりと場違いに微笑んだ。
――――――――――――ぅぐる…ぅああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁっ!!!
何の衝撃を受けたのか、旅人自身もわからなかったが、その瞬間、珍しく咆哮を上げて黒い何かに飛びかかっていた。前足が着いたのは、黒いドロドロの胴体の部分。それから夢中で前足の爪を剥き出しにし、そこを抉った。右手で、左手で、右手で、時に両手の爪を深く食い込ませ。それでは足りぬと、喉元らしきところに噛みつけば、ぐにゃりとした大嫌いなレバーの感触で、食いちぎって吐き出し、狂ったように黒い何かに思いつく限りの攻撃を繰り出していた。何が、したかったのだろう。感情を発露して攻撃し、それで肉体的に疲労、精神的に落ち着いた時、旅人は呆然と、黒い水たまりのようになった原型のないヘドロの上に立っていた。癖で唇を舐めたが、苦い、不味い。ぺっぺっと吐き出し、獣の口では上手くできないと悟った旅人は、いつも使う川へ行こうと、呆然と思った。それを制止する声。
「猛々しき、一の上帝っ!!」
叫ばれると共に、尻尾を引っ張られる感触。ここでも”上帝”なのかと、体に残る不快感で普段より機嫌の悪い旅人は、後ろ足と尻尾で無慈悲に冒険者を蹴飛ばした。彼は、片腕が完全に変な方向へ曲がっていたが、そんな事は知ったこっちゃない。肩越しに振り返りながら低く唸れば、脂汗を浮かべる冒険者は無理に体勢を変えた。それこそ、片腕なんかお構いなしの動作だった。逆に旅人が気持ち悪がったぐらいだが、彼は必死に旅人を追ってきたのだと訴える。つまり、あの、酒場の一員であった。
かっと頭に血が昇り、旅人は黒い何かに飛びかかった時のように大きく咆哮して冒険者を突き飛ばす。自身に浴びせられたあの暴力はこんなものではなかったし、屈辱もそれ以上だった。威嚇の声と、獲物を押さえつける体勢になれば、「お怒りも当然」と冒険者は言う。
―――――――――そんな、そんな、言葉で著せるモノじゃないっ!!!
精一杯の怒りを、憤慨を声に出せば、結局は獣の咆哮としかならなかった。それを耳で拾い、旅人は苛立たしげに冒険者の頭のすぐ脇、地面を叩き抉る。本当なら、頭を抱えてのた打ち回りたいところだ。こんな一人の男にぶつけても到底おさまるはずのない怒りで、酷く疲れた旅人はその男からのっそりと体を退けた。
―――――――――付き合ってられるか。
ため息を吐くように頭を振り、旅人は負傷した冒険者を放置して森の奥、自身の寝床へ足を向ける。
「お待ちください、上帝!」
片腕は折れており、体力的にも限界なのだろう。悲痛な声を上げる冒険者だが、旅人は振りかえらなかった。そうして冒険者である男もまた、簡易的な応急処置を施すと、何かを決意した顔で虎が去った方角を睨みつける。
「諦めません、俺は」