三の上帝3
その日、カンが退室してから部屋の鍵をかけ、彼女は髪を梳きながらベッドに腰掛けた。消灯前なのでベッドサイドに蝋燭があるだけの明かりである。温かな蝋燭の明かりに微笑む背後は、薄らと暗闇が控え、就寝前のホテル風の装いであった。そこに変な物音が聞こえ、彼女はびくりとする。高校時代に同居させてもらっていた祖父母宅は屋根裏にイタチやネズミが居たから、夜中に急に起こるタタタタタッやガタゴトなどの音は知っているのだが、それとは違うように聞こえた。カーテンは掛かっているものの、昼間の事もあって、分からない不気味さに恐ろしくなり、彼女は急いでベッドに潜り込もうと膝をかける。
その時、冬の夜のようなツンと乾いた風を嗅いだ。窓が開いていたかと、膝立ちのまま首をめぐらせようとして彼女は背後から上体を抱きしめられ、「ぎゃっ」と短く叫ぶ。女にしては厚みのある体を、それでも軽々とまわしてしまえる、硬く長い腕。ぎゅっと強めに抱かれて、お化けに怯える恐怖は消えて安堵が湧いた。これがお化けにはどうしても見えない。それにこの、女かと思うほど白い肌。
「……部屋に鍵がかかっていましたでしょう。無駄に魔の法をお使いになられるのもどうかと思います」
「何じゃ、驚かんのか」
努めて感情を抑えた低い声で声をかけると、肩辺りから笑い混じりに返事が来た。意識してしまうと、肩に顎が乗せられたのが、どうしようもなく気になる。恐らくニタニタと笑っているだろう白い男に、彼女は上体を拘束されたまま深呼吸した。
「十分驚いています。心臓がバクバクしているのは、お分かりかと思いますが」
言えば確かめるように拘束を強めては弱めを繰り返し、白い男は小さく笑いながら腕を解いた。それからばっと振り返った彼女の前で、両手を広げて肩を竦めた状態からくるりと回って振り返る。至近距離にいた事が気になったか、恐怖からの解放のためか、かっと頬が熱くなっている彼女の状態を見て、一瞬瞠目したかと思えば次にはニタリと笑った。
「最初から姿を隠していましたねっ」
幻影というだけあって、彼の魔の法は姿隠しを得意とするらしい。「それで良く抜け出していらっしゃるようです」とカンから聞いていた彼女は、これもそうだとピンと来た。それにも肩を竦めて見せた彼を睨むと、彼女はぶつぶつ文句を言いながらまだ中身のないクローゼットから上着を取りだして身につける。
「それで、ご用はなんですか」
「夫が妻の部屋に来るのに、理由が必要か?」
陳腐なセリフだったが色気たっぷりに言われ、そのご尊顔もあり、大変さまになっていた。だが、顔の良い男に言い寄られた事もなければ、一般の男にからかわれた体験しかない彼女はすぐに冷め、きっぱりと「当たり前です」と言い切った。大体、彼女の世界ではジェンダーが叫ばれ、プライバシーに煩い時代である。照れでなく、不快そうに彼女が言ったのがわかったのだろう、ニタリとした笑みは一瞬にしてつまらなさそうな顔になり、そうしてベッド前に戻ってくると、どっかりと腰かけた。
「昼間何があった」
それから気を変えたのか、いつものふざけた表情でなくいつになく真剣に尋ねてくる。昼間と言えば、カンが取り乱した文字の件が思い出された。カンはただの侍女で護衛でなく、彼女の監視も含まれているはずだから、彼女はてっきり上帝へと報告が行っていたと思っていたのだが、何があったのかを確信する声でなかったので、多少奇妙な思いをしながら彼女は口を開く。
「図書館で見つけた本に書いてあった文字が、忌まわしいものだったようです」
「本?」
「はい。赤い、薄い絵本の様なものです」
手でこれぐらいと示してみせると、彼は「読んだのか」と尋ねてきた。
「文字は読めませんで、最初の数ページだけ眺めただけです」
言えば、しばし眉根を寄せながらも「……書いて見せろ」と言った。ここには筆記用具はないと困惑すると、彼は宙に指をすっと横に引く。ふわっと冬の風の匂いがして、指を引いた辺りに霞がかかっていた。少し光って見えるそれを見て、恐らくと彼女は指を沿わせる。触れた部分が一段と輝くのに、予想が当たっていたと遠慮なく指を動かした。
じっと彼女の指先を睨みつけていた白い男の目は、段々と怪しくなっていき、魚眼のような呈を示す。それに気付かず、彼女の指は絵本に書かれたのよりは歪んでいる文字の形へ霞を動かした。
「――――――っ!!」
「出来ました」と声をかけようとした彼女だったが、そちらに顔を向けると彼の顔でなく手が見えて、衝撃に横倒れになる。ぎょろりとした目が、完成した文字を目にしたと同時に、白い男が短く叫んで彼女を突き飛ばすようにしてそれを掻き消したのだ。倒れてやっと白い男の険しい顔が見え、急な行動にびくりと彼女は床の上を飛び退き、両膝をついた状態で彼を見上げた。それまで彼女に気を向けていなかった白い男だが、数度呼吸を繰り返して少し落ち着いたか、床の彼女へと視線を向けてくる。
「……旦那様?」
視線が合ったのだが、彼女は困惑に顔を歪めた。普段余裕たっぷりにニタニタ笑うこの男が、真っ青になって、それも何処となく不安にむずがる子供のような、小さい頃の妹や弟のような顔をしているのである。年齢的には三歳程の記憶の筈の顔が、前にある。訝しく思いながらも、彼女はゆっくりと立ち上がろうとしたのだが、目に見えてびくりと彼が反応を示したので、元の姿勢に戻った。
「……どうされました、旦那様」
仕事柄なのか、人の本能なのか、怯えているとしか見えない白い男を前に、彼女は咄嗟に柔らかい声と微笑を浮かべた。それにぱっと顔を逸らされたのはちょっとショックだったが、どこまで意識があるのか、彼は苛立たしそうに両手を振ったかと思うと、目についたのだろうベッドの上のクッションを手に取る。それに力任せに摘まむと、引き裂く。冗談でなくばっと散らばる羽に目を丸くしながらも、男性は力が強いというのは本当なのかとそんな事を考えた。
ちらっと視線を感じると、彼は肩越しにこちらにも注意を払っている。目を丸くしている彼女を見たからなのか、さらにクッションを力任せに千切り、羽をばら撒き、ボロボロのクッションの端を持って振り回した。動物園で興奮した猿を見ている気分になりながらも、どこか理性が欠けているような彼に、そろそろと彼女は近寄った。
「ナナシさ…」
嫌がっている名前を名乗ったらどうだと声をかければ、ばっと顔にクッションを打ち付けられた。名前を嫌がってというより、近づいて来たので反射的にだろう。中身がほとんど入っていないので大変痛く、彼女は反射的に顔を庇って腕を上げた。さらにばしばしと叩きつけられ、及び腰になって後ろに下がろうとして転ぶ。そこに、わっと白い男が馬乗りになって、連続で叩きつけてくる。本当に猿みたいだと、普通に見ない麗しいお顔の男を思う。だが、先ほどまでむずがるような印象だったのに、今は愉快そうだ。人を無茶苦茶に打って喜ぶだなんて、嫌な喜び方だけれども。
「あはっ、あははっ」
本当に笑い声が聞こえた。声の感じから、人が痛がる事をわからず自分の楽しみのために動く子供に思えて、咄嗟に長子の血が騒いだのか、彼女はきっと彼の手を取ると、「やめなさいっ」と怒鳴った。その気になればとても通る声をしている彼女なので、声をぶつけられた彼は即座にびくっとする。
「退きなさい」
ここで肝心なのは、目を逸らさない事である。努めて低く、こちらが怒っている事を声で示しながら彼女は白い男を睨んだ。彼は、困った顔である。これまで楽しかったのに、予想に反して反撃されて、どうしたらいいか困っているような顔だ。掴んだ手首をゆっくりと力を入れて自分の体の正中から外させながら、彼女は肘をついて上体だけおこした。
「退いてください、ナナシ様」
ぎりりと痛くないだろう程度に圧力を加えて、ゆっくりと顔と声を向けると、困った顔のまま彼は素直に横にへたり込んだ。ようやく起きて同じく床に座ると、「ありがとう」と形ばかりの声をかける。そうしてまた反応がない事に気が付いた。今度は表情が抜けたようにぼうっとしている。
「本当にどうしたんですか、貴方」
あまりに麗しい顔をしているので覗きこむのは勇気がいったが、彼女はそろそろと声をかけておこなった。目は合っているのに、視線が動かない。すわ意識がないのかと、彼女は彼の両頬を挟んで片方を叩いた。
「ナナシ様!? わかりますか!?」
軽い刺激ではぼうっとしたままだ。意識消失の呈をしている彼だけに、後で何を言われるかわからないが、意を決して彼女は彼をばちんとひっぱたいた。
「痛いっ」
両頬を思いっきり挟むと、流石にそう言って視線が動いた。一瞬左右に揺れたものの、すぐ不埒者を見つけて焦点が合う。ぐわっと眉がつり上がり、怒りが見えて「ひっ」と彼女は手を放したが、すぐに「気が付きましたか」とほっとした。それにわけがわからない顔をした彼だったが、周囲に羽が散っているのを見て瞠目した。
「何じゃ、これは…」
「覚えてらっしゃらないのですか。全て旦那様がされましたよ」
「……少し待て。状況がよくわからん」
床から動かないまま、悩むように片手で額を押さえる彼。これで痴態を思い出してこちらに謝罪してくれればいいが、多分思い出してもないだろうなと彼女は思った。それより床に座らせたままでは悪いし、後片付けをしなければならないから彼女は彼の傍にスツールを持ってきて、促した。そこで彼は目を上げて彼女の姿を見、少し気まずそうに「そうか」と呟き、何度か振り払うようにため息と身じろぎを繰り返すと腰かけた。
「少し記憶がある。すまんな、嫁女」
どうも今日の彼は、普段に増して可笑しいらしい。謝罪なぞを口に出されたのは初めてで、彼女はすぐに心配顔になると「お休みになられてはいかがですか」と恐る恐る言った。羽を掃く手を止めてしまう。
「お疲れのように見受けられます」
やっと遠回しに言えば、先ほどのやり取りだけでどっと疲れたらしい彼が、扉でなくベッドに向かうのを呆然と見送った。ぼすりと盛大に寝ころばれた後、彼女は顔を顰めながら彼に近寄る。
「お休みでしたら、ご自分のお部屋にどうぞ」
言外に自分の寝床に帰れと言えば、少し調子を取り戻したらしい彼に見上げられ、「夫を追い出す気か」と短く苦言を言われた。そんなこと知った事かと冷ややかな目を寄越すと、腕を取られそうになり、さっと避ける。
「…」
ゆっくりと得物を定める目で起き上がる白い男に、じりっと構える彼女。お互い負けず嫌いな性質が今出て、そうして間合いを測っている二人だったが、男が長い衣を掃ったと当時に、彼女は箒を捨てて扉に向かって走っていた。距離的に彼女が有利であったものの、扉に手をかけて「やった」と顔をした彼女の前に、夜の風の匂いがして、男が憎々し気な顔で出現する。反射的に手で押しやる彼女。彼女の全体重を乗せた圧力をまともに受けた男は一瞬痛みにぐっと歯を噛み合わせるが、随分と苛立たしい顔をして無理矢理彼女の頭を押さえた。
「いだぁっ」
彼女もそうだが、男も遠慮なくやったものだから、ぎりりと締め付けられて彼女が悲鳴を上げる。押さえつけられた手を何とか剥がそうともがく彼女に、それで気が済んだか、白い男は顔を寄せた。
「今日の事はカンには言うな」
それが随分と弱々しい声に思えて、痛みを堪えながら見上げると、不思議な透明さで白い男が見ている。珍しい顔に彼女は一瞬状況を忘れたが、一瞬で表情が変わると、彼は「ふんっ」と彼女の頭を押しこんで床に転ばせた。




