三の上帝2
宮での生活は、彼女の想像とはちょっと違っていた。上帝であるナナシとは違い、彼女はただ部屋に籠っていれば良いだけの話で、あまりに退屈な彼女は、出られる庭や人目のない図書館へと足を運ぶ。てっきり、礼儀作法だの歴史の勉強などが入るものだと思っていたのだが、「そのような事は必要ありません」と彼女はあって無き者とも言える扱いであった。果たして、それほど彼の上帝に人望がないのか、上帝の妻というのは刺身のツマのようなものなのかと悩むが、しなくて良いならそれに越した事はない。雪の積もる寒い庭にも探せば花はあり、雪かきついでに目立たない端の方で雪だるまを作ってみたりした。
ここでの彼女の苦手は、人、である。上帝の前では出来た使用人よろしく頭を下げた彼らだが、呼び出しを無視すること7割、先の準備をすっぽかすこと6割、こうして使用人が居ないのを良い事に抜け出した先で彼女の悪口を聞く事8割と、彼女の宮に対する信頼はなくなった。
なぜこうまで嫌われているのかはわからないが、唯一心当たりのある、彼女がセン達と共に居た事実に関しては、悪口の内容からも上帝が公言しているわけではなく、直接の原因があるようではないようだと考える。どれも品がないとか、女性らしくないとか、見目が悪いとか、黙っていて不気味とかそういう内容だった。正直間違ってもいないし、話す機会を作らない相手からそう言われてもと、窓の下でしゃがみながら彼女は思う。今回は、部屋付きの侍女たちの会話だった。碌に顔を見た事もない相手に無茶苦茶言われている現状は、過去にもよくよくあった事なのだが、また最初から体験するのかと気が滅入る。
この状況になって初めて彼女は、嫌味を言いながらも相手をしてくれる三の上帝を恋しく思ったし、彼があの性格なのは、この宮のせいなのではとも思った。彼は忙しいらしく、ここ数日顔を見ていない。このまま忘れ去られる可能性も否定できないと、彼女はこっそり使用人の小間使いのような仕事を探しているが、成果は思わしくなかった。
庭に居て体が冷えた頃、ふらりと人気のない図書館へ忍び込む。暖を取りながら彼女は絵本を数冊見つけて、これまた隅の方で読み始めた。この世界に来た当初から、言葉はわかるものの文字はわからない。ただ綺麗な絵を見て内容を想像するだけだが、それでも何もないよりは楽しめた。
今回手にした本は、センが以前話していた上帝に関する昔話のようだと、一度ざっと眺めた彼女は再び最初からページをめくる。一番目のページには、竜になった時にも見た、この世界の円状の大陸があった。最初はこうした綺麗な円だったろうそれに、一人の女神が降り立っている。あぁ、これが最初の上帝かと彼女はページをめくろうとして、ふと止めた。全体的に白く、儚い印象の彼女の絵をどこかで見た気になってよくよく眺めていると、三の上帝が思い浮かぶ。彼女の血族ならば似ていて当然とある意味納得して、次のページをめくった。
人々に崇められる女神だが、その次の次のページでは泣き顔となっていた。それに、不覚にもツンと来たのは、同じ事を思ったからだろう。言葉らしい括弧の中身は読めなかったが、恐らく『帰りたい』だ。それから先を読むのをやめ、彼女は何度もその括弧の中身を指でなぞった。貴女だけじゃない、私もそうだと、気持ちを沿わせるように何度も。
書き順はともかく、その文字らしく書けるようになった頃には、日が傾きかけて、本棚のある図書館内は暗がりに沈んでいた。慌てて立ち上がり元の場所に本を戻すと、施錠の為に回って来た執事らしき人に会釈をして外へ出る。ちっと舌打ちされたような気もしたが、気にするまい。宮というには、使用人の柄が悪いなと再度思い部屋へ向かおうとすると、これまで気にならなかった西の棟が見えた。
常は宮の影になっているそこは、夕日が強い今、存在感のある建物になっている。宮の構造は、三の上帝の謁見所が東棟の南寄りにあり、彼女の部屋は東棟の北寄り、さらに使用人の居る東棟の西、その奥が図書館と、東棟より規模の小さい西の棟で構成されていた。普段から人が多い東棟の内部を簡単に案内されたが、西の棟はまだ行っていない事に気づき、しかし日が落ちたので彼女は部屋に戻る事にする。今まで部屋で侍女が待機していたことなど全くなかった彼女が気軽に扉を開けると、左右から飛びつくようにして侍女達に腕を取られて流石にびっくりした。
「お戻りにならて良かったですわ」
言われて室内を見れば、やや険しい顔をした三の上帝が居り、明らかに不機嫌そうな彼の前に引き摺られて座らせられる。不可解な侍女の行動と、嫌われている自覚のある三の上帝の存在に、彼女は怪訝な顔をした。
「ワシを出迎えぬか、嫁女。何処へ行っていた」
「申し訳ございません。図書館で本を眺めていたら、遅くなりまして」
「もう少し遅ければ、侍女だけでなく兵も向かわせていたところだ」
暗に逃亡出来ると思ったのかと言われたのか、心配をかけるなと言われたのか迷うところだが、恐らく前者だろうそれに、彼女は事の重大さがわかっていない愚か者の顔で「はぁ」と頷く。
「ご心配をおかけいたしましたようで。しかし、旦那様。この部屋は普段から人が居りませんし、私は文字が書けませんし、どこへ行くのか伝える術も何があるのか聞く術もないので、困っております」
いけしゃあしゃあと現状の不満を織り混ぜて口を開けば、それに微かに眉根を寄せた彼は肩越しに、珍しく揃って侍る侍女たちを見た。苦々しい顔で振り仰がれているとわかっているのだろう、彼女たちは揃って青い顔である。だが、三の上帝は侍女ではなく彼女に苦言を申した。
「しかし、どこそこ勝手に出歩けば、供の者が探しまわらねばならん。それを踏まえて言っているのか」
明らかに仕事を放棄した侍女を分かっているだろうそのセリフに、主人としての寛大さを見れば良いのか、彼女への嫌がらせととれば良いのか。似たような事を実家でも言われていたなと、変な懐かしさと怒りを覚えながらも、彼女はにっこりと無理に微笑む。ほっとしている侍女たちに冷たい視線を寄越せば、感情が出やすいのだろう一人がふんっと鼻を鳴らしてきた。本当に、自分は何だと思われているのやらと彼女は思う。
「何をしているの? お茶を御出しして」
明らかに年下の彼女たちに上帝の前を指せば、それには慌てたように走って行く数名。基本的に仕事が出来ないのだなと、行動を見て彼女は感じた。それから三の上帝に向き直り、ぐらぐらする怒りを感じながらも、「軽率でした。気をつけます」とだけ返す。随分頭に来ているなと感じながら、苛立たしい存在から視線を外せば、部屋の隅、昨日まで花瓶が置かれていた場所に見知らぬ物体を見つけて、眉を顰めた。彼女が怒りに震えているのがわかっているのか、ニヤニヤした笑い顔でなく不機嫌そうな顔の上帝が、運ばれてきた茶に手をつけて視線を向ける。当然、彼女の前には茶は出されないのを、彼も黙認していた。
というより、と彼女はゆっくりと侍女たちを振り返った。ぎろりとした鋭い目をしているので、気の弱い数名はびくりと顔を背けたものの、気の強いらしい二人は一等綺麗な笑顔を見せる。花瓶台に置かれたものは、侍女に給仕されない彼女が、昨日まで使って部屋に置いていたティーカップだ。中に花もつけない小さな観葉植物が植えられて、まるで植木鉢のようにしてソーサラー付きで置いてある。気付いてしまうと眩暈がするようだった。この分だと、持ってきた数少ない服の裾がほつれていたり、青い目の人に貰ったドレスのレースの一部が、記憶のないまま引っかけたように破れてしまっていたのも、彼女たちの可能性が色濃くなってきた。可笑しいとは思っていたのだ、ずっと。
「ところで、どうされたのです、こんな時間に」
長く、ゆっくりと息を吐くと、嘘くさい笑みを浮かべたまま、彼女は上帝を見た。それにちらりと視線を動かして花瓶台を見ようとした彼だったが、首をめぐらせなければ無理だとわかり、途中で彼女に顔を向ける。扉へ合図をすると、一人の侍女を連れてきた。
「カンと申します」
そう丁寧に礼をした彼女は、意志の強そうな顔を上げた。出来るお姉さん風の彼女は、どこか苦手意識を持ちそうなタイプであったが、真っ直ぐに彼女の目を見てくるところは好感が持て、彼女も愛想笑い程度に表情を作る。
「彼女は?」
「お前の侍女兼護衛だ。不自由しているようだと、側近に言われてな」
「どなたでしょう」
そんな好意的な人物がいただろうかと一瞬素顔に戻ってしまった彼女に、三の上帝はようやくニタリと笑った。特に何か仕掛けてくるわけでもなかったが、彼のその表情は苦手なので、彼女はきゅっと唇を閉める。
「青い目の男よ。お前の服を届けさせただろう?」
「あぁ。しばらくお見かけいたしませんでしたが、そうですか」
影が薄いぐらいに接点がないのに、どこか親切だなと彼女は思うと、上帝が「アレは、影だからな。どこにでも目がある」と言った。恐らく隠密のような人なのだろう。王族だと頷いたようだがと一瞬疑問に思うが、そこにも何が理由があるのだろう。思いもよらぬ好意を受け、彼女は先ほどの怒りが和らぐようだった。
だが、こんな事になる前に手配してくれなかったのは何故か、普段通りの嫌がらせかと、三の上帝を見る。するとニタニタと笑っていた彼は、何だと言わんばかりに眉を顰めた。もしかすると、とここで彼女は一つ思いつく。彼は生れてからずっと敬われる立場だったので、彼女のような中途半端な立場のモノへの気遣いを知らないのではないかと。それでも、現状を分かっていながら彼女の待遇を暗に示した事に、彼女は彼を許すつもりはなくなった。
「カンは、王宮の侍女だ。王より譲り受けてきた」
「そうですか。そんな優秀な方が付いてくださるのですね、心強いです」
王宮の侍女といえば、超一流の職人だろう。凄い待遇だなと改めて微笑み、「カリナです。よろしくお願いしますね」と声をかける。それに黙って一礼する彼女にさらに笑みを深めた後、彼女はまだ居るのかと言った視線を彼に向けた。それに気付いたのか、「なんだ、嫁女。愛しい夫だぞ」と彼も挑発的に笑う。
「いいえ、何でもありません」
ここで突っかかれば突っかかっただけ、彼は居座るつもりだろう。そうしおらしく頭を下げると、時間もおしていたのか、しぶしぶと言ったように三の上帝は立ち上がった。ため息交じりに一言。
「ここの侍女は、使用人頭に任せていたが、一人で十分ならカンだけをつけさせよう」
温情だろうか。それともこの現状を知らなかった事への代償だろうか。思わぬ優しさを見せられて彼女は、ふわっと微笑んでしまった。
「そうしていただけると助かります、旦那様」
それからの日々は彼女にとって快適だった。これまで日々の食事もまばらだった彼女は、三食きちんとカンに配膳され、午後のお茶、入浴も追加される。これまでの侍女と違い、呼ばなくとも来てくれるので、こちらの方が申し訳ない気分だった。
「ありがとうございます」
温かい窓辺でお茶を出されれば、自然と敬語を使ってしまう。それに「奥さま、必要ありません」と何度も返していたカンであったが、改める様子のない彼女に今は軽く会釈するだけに留めていた。
聞けば、彼女は青い目の人の部下でもあるらしい。本当は世話係など不本意だろうに、仕事だからときちんとしてくれるカンに、彼女は大変な好感と信頼を持った。だから、上帝の妻としてどういった事が必要なのかなど、今後に必要な事を教授してもらうつもりで、気をつけて声をかけるようにしている。
基本的に、式典などの行事は王族や上帝が出れば良いので、その妻が出てくる事は婚姻の儀式ぐらいであるらしい。その作法については、もう少し足腰を鍛えなければならないというので、彼女の指導の下、筋トレが開始されたが、これまで虎や竜となった期間が多いためか、それとも元からなのかすぐにへばってしまい、毎日コツコツとやらされている。変わった事と言えば、それぐらいだ。
「そう言えば、カンさん。西の棟なのですが」
お茶に口をつけながら、前々から気になっていた、西の棟に何があるかを尋ねようとした彼女に、カンは鋭く「奥さま」と制止の声をかけた。ぐっとお茶を吐き出しそうになって、彼女は慌てて口元を抑える。見れば、強気な表情はそのまま、嫌に真剣に、そして青ざめるような彼女がいた。
「あの場は立ち入りを禁じられています。決して、出歩かれませんように」
”青髭”に出てくる禁じられた部屋を言い含まれているかのような気分に陥りながら、彼女は軽く咳き込んで頷いた。立ち入り禁止とは穏やかではないなと思いつつも、危険だったり不気味だったり、忌諱される場所だったりするのだろう。好き好んで肝試しに行くタイプでなかったので、彼女も素直に頷いた。ほっとしたようなカンの顔を見てお茶を終えると、彼女は予ねてから文字の勉強をしたいと思っていたとカンに強請った。彼女も勤務時間中は一緒にいるので、是非にとお願いすれば、すぐに「畏まりました」と用意する。
「では、まず文字を書いてみましょう」
差し出されたのは、砂の入った浅い箱と棒。それを使って一文字を10-20回ほど練習していく。単純作業の繰り返しなのだが、小学校時、平仮名を覚えるのが苦痛だった時のような記憶が蘇ってきて、最後の文字を書き終える頃には、疲労から顔色が悪くなったようだ。
「急がせすぎました」
小さく謝罪するカンに首を横に振り、そういえばと彼女は一つだけ書ける文字を彼女に披露する事にした。絵本のセリフ部分だと思うと前置きを置いた上で書いた言葉を目にしたカンは、今度は彼女が真っ青になって、衝動的だろう、砂箱を叩き落とす。
「―――奥さまっ」
悲鳴のように呼ばれると、がっと両肩を掴まれた。あまりに悲痛な声だったのでびくりと身を竦める彼女の様子を察したのか、掴んだ手はそのまま何度か呼吸を整えると、カンはやおら真剣な目で彼女を凝視した。
「どちらで、これを?」
「と…しょかん、ですが」
言えば、彼女は一度外に出て、彼女が手配した衛兵に一言伝言を寄越したらしい。すぐにバタバタと走る音が聞こえて遠くなり、それと同時にカンも戻って来た。
「あまり、良い言葉では、ない、ようですね?」
戸惑っている彼女と落ちた砂箱を見たカンは、元通りの様子に戻ると「申し訳ありません」と簡易的に掃除をして片付け、次いで「お手数ですが」と彼女を見る。
「例の本は、この国で発禁されて久しい物です。どこにあったか教えていただけますか」
まさかの禁書だったのかと驚愕する彼女は、一二もなく頷き、カンを伴って早速図書館へと向かった。
「―――あれ?」
だが、カンがやってきたあの日、本を押しこんでいた場所に赤い背表紙のそれはなく、彼女は恐る恐るカンを振り返る。道中、どこかそよそよしくなったカンの態度に怯えていたからだが、鋭く彼女はそこを見ると、慎重に本の隙間を広げて言った。
「確かに本があったようですね。本が引き摺られた後が、…ほら、ここに」
見れば埃を動かした後があり、彼女はほっとしてそれを見る。カンもしばらく考えるように沈黙していたが、薄暗くなってくる窓の外を見て、「戻りましょう」と促してきた。
「ところで、薄い絵本だったのですが、どうして禁書なんですか」
「全部お読みになったのでは?」
「いいえ。途中の、あの言葉がある場面が気になって手が止まってしまったので、全部は見ていないのです」
「言葉もわかりませんし」と最もな事をいえば、そうだったとでもいうように微苦笑するカン。
「過去にあった忌まわしい出来事を描いた本なのです。一般の者は見た事もないでしょう」
「そ、そんなに、禍々しいものだったのですか」
センから聞いたお伽噺ではなかったようだ。続きを見なくて良かったと心底ほっとし、次に見つけた時は彼女に渡すよう約束する。そこでやっと、硬い顔をしていたカンは微笑んだ。
「ところで、あの文字に意味はあるんですか」
折角覚えたのに使えないとわかってがっかりする彼女だが、何かの呪いの言葉では困ると尋ねる。すると、カンは難しい顔で「読めないんです」と言う。
「あれはこの世界のどの大陸にもない文字で、誰も読めないんですよ。奥さまは異国の方のようですが、心当たりは―――…?」
「ないです。私の国の文字は、絵を元に出来た文字でして、あのような形の物ではないんです」
うっかり異世界の知識を話してしまい、「あっ」と思った時にはカンが興味深そうにこちらを見ていた。
「では、奥さま。奥さまの国の言葉を、ワタクシにも教えていただけますか」
「え、えぇ」
二の大陸に居た時も、極東の田舎の出だという設定だったから、大丈夫だろう。先ほどまで文字を教えてほしいと言っていた自分と同じ顔をしているように見えて、彼女は戸惑いながらも頷いた。




