転機3
随分と強い風が吹くなと、窓を揺らすカーテンを見ながら思ったのは、宵の星が昇った頃だった。それからすぐに部屋の外に物音を聞いた気がして、小さな恐怖心を押さえて伺った先には、ここ数日何度か会ったことのある、金の髪に毛先が黒と少し変わった色を持つ人物だった。また青い髪のインという人の施術を頼んできたのだろうかと、そんなことを考えている間に髪を掴まれ、引っ張られる。何をしに来たのだと見れば、緊張に固まった怖い顔で、一二もなく、害される恐怖を覚えて逃げ出したくなった。二の上帝の客人であるなら世間体があると言葉でやりとりすれば、カフカ様に黙っているよう言われた事を告げられ混乱する。彼女に確認しようと踵を返せば、呼び止められ、そんなことをしなくても足の遅い自身であるし追いかけようとすればできたろうにしない点に足を止めて振り返っていた。
「探していた、って。貴方が私を此処へ召喚んだの?」
指先を握られて、子供にされるような感覚を受ければ、もっと重要な事を言われて胸が逸った。握っていて貰って良かったかもしれない。急に指先から力が抜けていく様な、痺れた感じがするから。
「いいや。降臨させたのは、神だろう。上帝は須らく、神の意志により降臨する」
「神……」
また突拍子もない事を言われたが、こんなわけのわからない状況にあって、何か常識を疑うなんて無意味だ。実際、自身も虎や竜などに変身したし、不意に頭の中に言葉が浮かび、魔法、らしきものも使った事がある。決して自分の都合の良い時に都合が良く使えたわけではないが、確かに、使った事があった。だから、今更“神”ぐらい何でもない。驚きはするが、それぐらいだ。むしろ、それの居場所を知っているなら聞かなければと気を急く。
「そういう者が居るらしい。俺も会った事はないが、声を聞いた事はある。一の大陸を統べろ、とな」
神の声なんて一度も聞いた事はないが、そういうものらしい。居場所を知らないとわかりがっかりしたが、同じように此処に連れてこられたなら、自分と同じかもしれないと、彼女は握られた手を逆に握り返した。
「あ、貴方も此処に連れてこられたの!? カフカ様も!? 別の、世界から」
「え…?」
期待を込めて訴えると、何を言われたかわからないという顔が返ってきて、彼女は一気に冷めた。違うのだと、理解するのは苦しかったが、二呼吸で飲み込む。もっと、情報が欲しい。
「わ、私は、別の世界に居たの。きちんと両親が居て、一族が居て、普通の人と同じようにしていたの。何故此処に来たか、わからないの。貴方は…貴方は何か知っているんでしょう!?」
「…何と?」
「お願いしますっ、私を帰してください…!!」
やっと会えたと言いながら、こちらの言葉には困惑している様子の彼に、それでも上帝という特別な存在だからと必死に頭を下げた。どうか、どうか、元に戻してくださいと。抑えていた涙は、今まで言えなかった言葉を叫んだことで溢れだし、大泣きで彼に縋りついていた。本当に帰してくれるなら、今なら靴だって舐められる。何を言われても実行できると、その時は本当に思っていた。偶然にも手に入ったチャンスだと思って。
「帰る……? 貴方は降臨した上帝だろう?」
「違う、違う! 私は上帝なんかじゃないっ。向こうの世界では普通の人間だったの」
詰め寄られて困惑する青年の顔が見えたが、知った事ではないと捲し立てた。どうしてわからないのか、こちらが理解できないとさらに詰め寄って。だが、彼は困惑顔で何とか笑みを浮かべると、落ち着けと肩を押さえた。
「治めるべき土地へ向かわれれば、自ずと自らの役割がわかるはずだ。俺もそうだった」
「違う…私はっ」
「酷な事を言うようだが、降臨した上帝が天へ帰った話などは聞かぬ。一度降臨した以上、上帝はその土地を治めるのが道理」
言ってしまって、青年はふと嫌悪の表情を浮かべた。どう諭していいかと言った顔から、何か思いもかけぬ言葉を吐いたのかもしれないが、そんなことは本当にどうでもよかった。ただ、こちらが違うと言っているのに、上帝だと決めつけて話をされるのが不愉快で、ばっと手を振り払う。「あ」と悲しげな声が聞こえたが、知った事か。カッとする性格だから、一度こうなると感情を鎮めるのは自分でも難しい。
「じゃあ、貴方は、誘拐されてきたような人間に、それが義務だからと、そう言うの! 関係がないのに!!」
そうだ、自分は関係がないのだ。こんな世界、見たことも聞いたこともない。自分が特別な血筋なんてものでなく、ただの田舎の土地持ちの家系だって知っている。こんな見知らぬ場所で何かしろと心構えをしたこともなく、成人して親の影響力が弱まって、いざ自分の人生を作って行こうと考えていた矢先に、見知らぬ土地に放り出されるだなんて考えた事もなかった。
「それは……待て、俺が言いたいのは…」
「訳知り顔で、近寄らないでよっ」
ぶわっと、何故か風の勢いが強まる。けれど何もおかしいことでないと、自分で思った。感情に風が反応しているような気がしているのだ。特別な事など何もないと言いながら、この可笑しな状況を甘受している矛盾にも気づいているというのに、目の前の彼の言葉を素直に受け入れることなどできなかった。だって、こんなこと、一度もなかったんだもの。
ばっと、両目から涙が流れた。目頭が痛いぐらいで、歪んでいく顔をお得意の無表情で止める事もできない。目の前の彼が悪いわけではないのだが、これまで感じていた理不尽をはっきりと告げてきた事で、彼を憎む対象に据え置いてしまった。そんな罪悪感も感じながら、この世界の代表として彼を詰る。
「帰してっ。元の場所に、私が生きていた場所に、私の人生を置いてきた場所に!!」
「侍女殿…」
「出来る事なら何でもするっ、だから…帰してよぉ…」
自己嫌悪で死にそうだ。こう言っても仕方がないとか、彼に八つ当たりをしても意味がないとか、とうとう口で言ってしまったとか、そんな冷静な部分も脳内に残っていて、けれど目から額が熱くて、泣き疲れてしまったか、膝から座り込んだ。それでも苦しくて悲しいから、肩を震わせて、顔を拭って、涙が止まるまで四苦八苦していると、そっとしゃがみ込む気配がした。少し吐きだしてしまうと冷静になるようで、何だか申し訳なく見上げると、眉を吊り上げたような顔があって驚く。
「俺は幼少より降臨した上帝故、貴女の話は良くわからん。だが、本意でなく降臨したというなら、この世の神が俺の願いを叶えてくれたのかも知れぬ。俺は、一人きりの上帝でなく、同じ仲間が欲しかった」
「何…」
「先ほどは道理と言ったがな、俺も疑問だったのだ。たった一人で生きていて、皆が俺を崇めて、孤独であった」
我が身に降りかかった不条理も少しは抑えられるようになったので、怒りと嫌悪に痺れる頭で彼の言葉を考える。そういえば、上帝は世界にたった三人しかいないのだと、どこかの街で教えてもらった。今の自分と同じだとは決して思えないが、彼らも彼らで何か不条理を感じているのかもしれないとぼんやり考えた。そんな抜け殻になりかけている自分に、彼はもう一度手を差し出す。
「一の、俺の大陸へ参られよ、侍女殿。貴女が失ってしまったモノにはならぬかもしれぬが、俺が共に在ると約束する」
ごくごく真剣に伝えられた言葉は、彼の視線の強さも相まって、真心と思えた。差し出された手が、初めて自分に向けられた好意を思い出させ、不意にあの旅人の声が浮かぶ。
―――――『御方』
この世も絶望だけでなく、自分に向けられる好意もあるのだ。旅人に押されて、捨てたものではないと思えた気持ちがあっけなく霧散して喚き散らしてしまったのも、真心を向けられて恥じている。悲しいだけでなく、何故か切ない気持ちになって、再び涙が溢れた。帰りたい気持ちはまだ十二分にあるが、こうして向けられる好意を無碍にも出来ない。どっちつかずな自分への嫌悪の涙かもしれないと、ぼんやり考えながら、辛抱強く待ってくれている青年をもう一度確認した。
金の髪なのに、毛先は黒い風変りな頭と、青い目。凛々しい顔立ちは若々しく、童顔でなければ自分より年下かもしれない。こんな見ず知らずの人間、それも大して美しくも特別でもない人間に向けられている不思議を感じて、泣いたまま、くっと苦笑してしまった。
私の祖母はお見合い結婚だったらしい。それも、両親に外食に行くと騙されて見合いさせられ、断ることが出来る時代でなかったからそのまま嫁に。それも煩い姑と小姑が何人もいる様な家に嫁いだと。結婚は我慢と諦めと言ったその口で、けれど全く良い事がないというわけではないと言った。勢いもあると、世には聞く。
縁かなと、泣きながら彼女は思った。結婚という人生の一大決心と似た状況にあるだろうと思うのだ。今迄の人生を捨てて、前向きに新しい人生を歩む。別れが唐突で理不尽だったから、こんなに悲しいのかもしれない。でも、亡くなったと聞いたあの人も、この人も、きちんと私と向き合おうとしてくれている。今迄を完全に捨て去る事は無理かもしれないが、何とかやって行こうという気持ちを思い起こさせてくれるかもしれない。そんな希望を感じられる人の行動だった。だから、泣き笑いのまま手を延ばそうとした。
―――――――――『御方』
心の中に声が浮かぶ。まるで再び背中を押されているようだと苦笑しかけて、目の前の相手が不思議そうに周囲を見渡したのを見て、手を止めた。
「すまぬ、侍女殿。今、何か言われたか」
「え?」
「あぁ、いや、何でも…」
きっと、何でもないと言おうとしたのだろう。それがわかったが、一層強く風が吹いたと思った瞬間、目の前に巨大な虎が居り、悲鳴を上げて後ずさった。一瞬、その虎がちらりとこちらを見たと思ったが、直後こちらに背を向けて上空を仰ぎ、つられて見上げる。月が二つ輝いていた。これまで一つしかなかった月が二つあると、ぽかんとしているのと前の虎が大きく吠えたのは同時だった。庭に吹き込んできていた風が大きく逆巻く。意図されたような風は、恐らく一の上帝らしい前の虎がしているのだろうとわかったが、頭の方は上から降ってくるような風を感じ、髪先が上下に激しく動いて顔に当たり、目を閉じた。
――――――侍女殿!!
今度は現実の、一の上帝の声だとはっきりわかって目を開けると、目の前には虎でなく、二つの月。その後、何かに倒され、胴体を鷲掴みにされる。瞬間、ぐっと、特に掴まれた腹のあたりに重力を感じて体が浮いた。
「は…!?」
頭の方にあった、上から降るような風が全身を包む。もがきたいも、両腕ごと胴体を握られているらしく、ぎゅっと圧迫を感じて諦めた。肌に触れるのは、黒く冷たい、少しささくれた感触で、それが夜と同じ黒の鱗であると気づく。ぐっと、力任せに首をもたげれば、二つの月―――いや、金の目がこちらを見ていた。
――――――御方。お迎えに上がりました。
それは、あの旅人と同じ声で言った。




