転機
気がつけば辺り一面丈の短い草の生える、硬い大地の上に居た。『あぁ、これは夢だな』と歩きながら侍女は思う。あの日、二の上帝に連れてこられた日から、繰り返し見ている夢だ。体はふわふわと希薄な存在感なのに、足取りだけは現実よりも重くて難儀する。感覚に敏感なのか、記憶力が良いのか、捨ててきたはずのビニル草履の感触が足の裏にあり、けれど体は侍女服である薄い貫頭衣が滑っていた。混ざっているのだ。
「シーナ。居るんでしょう」
何度も見ているために次の展開はわかりきっている。結局は一緒なのだからと早めに声をかけるが、気配も影もない。ただ、硬い大地と深い霧が周囲にあった。ふと、首筋に寒気を感じた。不味いと侍女が思ったのは、これまた馴染みある感覚だからである。体が眠っているのに脳だけが起きて活動的になっているからだとか知識として知っているが、実際遭ってみるとパニック以外の何物でもない金縛り、その前兆だ。ただ真っ暗な中動けないのなら無理やり寝付けと努力するのだろうが、彼女の場合、既に夢の中にいるから厄介だ。キンっと耳鳴りがして、居ないはずなのに背後やら頭上やら、とにかく見えそうで見えない位置に人の気配を感じ、また大勢の人の声のような雑音まで聞こえてくる。それから首筋からぞわぞわと寒さに震えるような感覚が全身を走るのだ。
「っ、ぅあ」
ぐっと震えと圧迫を感じ、一瞬解放され、それからまた震えと圧迫が来る。その間絶えず人の気配はするし、子供が走り回るような声やら、「うわわわわわぁ」だとか喚く声が圧迫する間も解放されてからもするのだ。目は開けていないことは分かっているが、脳裏に夢の情景が出ていて、もう、怖くてたまらない。体はピクリとも、それこそ手を動かそうとか、目を開けろだとか、目一杯思っていても全く反応してくれないのに、ぶるぶるとした震えやら圧迫は絶えず襲ってくる。逆に目を閉じたいと思っても、これが夢の情景で目を開けてない事もぼんやりわかっているから、もう、恐ろしくて恐ろしくてたまらない。声を、上げなければ。誰でも良いから気がついて起こしに来てくれれば。そう、声を―――。
『―――貴女の嘆きが世界を救う』
「ひゃあぁ、うっ!?」
精一杯力んで上げた声はそれほどでもなく、変な呻きとして口から出て侍女は覚醒した。横向きに寝ていた身体を丸めるようにして布を被り、霞む視界を一度閉じる。薄目越しに見た外はまだまだ暗く、丑三つ時の呈をしていて、それがまた先ほどの金縛りと相まって恐ろしい。胸の奥がドキドキとするのは、金縛りの恐怖なのか、それとも目覚める瞬間思い出した、シーナの最後の言葉のせいなのか。さらにぎゅっと丸まりながら侍女は考えた。
あの廃村で経験したことは、一体何だったのだろうか。今ではシーナは一種の幽霊か、もしかすれば自分が見たがった幻かもしれないと思い始めている。特に崖から落ちた後の事が曖昧すぎる為、幻覚だと思いたいのだが―――、ふと彼女は部屋の奥のクローゼットを見た。それまで虎で過ごしていたため服は着ていなかったのだが、二の上帝の前で人に戻った際、(斬られて使い物にならなくなった)毛皮の衣装を着ていた。
二の上帝に話した際、青い目の人物は恐らく三の大陸の民だろうとの話であった。そんなところ行った事もなければ、これまでの人生の中でも交友関係が少なく、ほとんど家族としか過ごしていなかった自身には、誰だかの心当たりもない。一体、この世界に来た事といい、何に巻き込まれてしまったのだろう。胸が詰まり重く息を吐けば、窓からは夜風が入り込む。少し肌寒いそれは、夜が深くなった事を教えてくれた。さらに肩を抱くようにして丸まり、また考える。
次に印象深いのは最初シーナだと思っていた白い男だ。彼がどういう存在なのか、何故だかこちらに悪意を向けていた様な気がする。崖から落ちたあたりから色々と曖昧なのも、彼が何かしたからではと考えるのは、最後、より深くなった霧と同化して消えてしまったからだろうか。白く、オパールの義眼でも嵌めているのか、七色に輝く瞳と、血の気の失せた白い唇が印象に残っている。彼にも、シーナが最後に言ったような事を言われた気がした。
私の嘆きとはなんだろうか。この世界に来て、途方に暮れている事を指しているのか。それが何の役に立つのだろう。精々退屈している底意地の悪い神の道楽にでもなっていると言うのだろうか。馬鹿馬鹿しい。元の世界でも、人と上手く付き合えなかった。役に立っていたのかさえ実感できない。それが、この世界で何かあるとも思えなかった。現に、物珍しさから尋ねてくる人々の中に溶け込めているかと言われれば、生来の根暗さが災いして一線を引いた場所でしか付き合えない。
そこまで考えると、心中が熱を持ったように苦しくなる。どこにいても変わらない、変われない自分を、最も自分が知っている。何だかさらに苦しくなったようで、仰向けに変わると深呼吸した。目を開ければ、部屋の中に居るのに、天井も近くに見えているのに、やけに広く感じる。自分が小さくなったような気がして、変にナーバスになっているなと、彼女は苦笑した。結局眠られずに床を起き出し、床に足を着けた。
ひんやりと冷たいなと、そのまま腰かけていると視界が微かに揺れる違和感。思わず震度1-2ぐらいかなと考えるのはお国柄なのか。数秒してもまだ揺れている感覚に、嫌に長いなと思った。横揺れは後者で来るらしいからそろそろ終わりかなとぼんやり考える。そういえば、ここに来る前、実家でも同じような地震が続いていたなと思った。変な所で共通点などいらないのだが、あの時はそんなに不安ではなかったのに、今では何かにつけて心が揺らぐ。帰りたいな、と声に出すとどうにかなってしまいそうで、慌てて彼女は毛布を引っ張った。
彼女の施術を受けてから、他の、特に自分で行う運動が物足りなくなってきたと第五師団長は感じていた。一度楽というモノを知ってしまうと人間ダメになるなと我慢し、魔の法を紡ぐ。澱みが溜まりやすい地形という事で周囲は閉鎖的であるも、霧などなく、精々蒸し暑いぐらいであった。それは隣にいる一の上帝も同じようで、こっそりと風を操っている。ご自分だけでなく、私にもどうぞと言ってやりたいぐらいだ。
「如何ですか、若。異形の集合体があったという話は理解できなくもないですが、それがどう竜の形を取るのか私にはさっぱりで」
「そうだな、澱みやすいがそれだけだ。あの、縞模様の奇妙な竜とはならんだろう」
「そもそも、あの森も若く、異形が出る程でもなかったと思いますがな」
「では、アレはなんだったというのだ。文句を言わずに働け」
軽口を叩きながらも二人は魔の法を操るが、二の上帝が処理しただけあって、周囲は綺麗なものだ。特に異形達の残滓があるわけでもなく、本当に綺麗さっぱりである。ただ―――。
「三の大陸の介入というのも、あながち間違いではありませんな」
崖の周辺を歩いていた第五師団長が、そう言いながら下草を分けた。隠れるようにして人の足跡が残っており、意思を持って人が隠れていたのがわかる。さらに跡から人数を割り出している第二師団長と違い、そこに魔の法、特に穏形の法を見つけた第五師団長は眉根を寄せた。
「意図はわからんが、結構な人間が居た様だ」
「えぇ、大規模の魔の法もあります。ただ、二の上帝が気づかぬはずもないと思いますが」
第二師団長に第五師団長が答えると、一の上帝は背後についてきた輿を振り返る。タイミングよく御簾の向こうから女性の声がした。二の上帝だ。
「申し訳ないが、妾は上帝の中でも魔の法には疎い。それに、三の大陸の介入があったというなら、姿を見せぬ三の上帝の事もある。妾は堅牢、奴は幻覚。分が悪いというもの」
「確かに。幻覚は、風で吹き飛ばすしかないと、そういう力関係だからな」
一の上帝が話せば、第五師団長は興味深そうにそちらを見る。先代の書物から得た上帝の知識であり、流石の第五師団長も知らなかったらしい。
「で、あれば、我らが見たのも幻の可能性がありますな」
顔を上げながら告げたのは第二師団長である。あの時は一の上帝に同行していたが、当時の彼は尋常でなかったと第二師団長は考えている。三の上帝がどういった能力があるかもわからないが、動揺した人間は冷静さを欠いているものだ。苦い事を言われて、一瞬鼻白んだ一の上帝だが、次には。
「だが、警戒は怠るものではない。三の大陸が異形やら幻を使って介入してきたとして、その意図もわからんではないか」
「尤もです。上帝におかれましては、益々自国の守護に勤めて頂かなければ。で、ありましょう、“カフカ”様」
一の上帝が返した事に、当てこすって背後を振り向いた第二師団長に、一の上帝は益々鼻白んだ。昨夜もそうだが、早く戻れと彼は言っている。確かに、他の上帝に会うという目標は、失意と共に達成されたわけであり、竜の異形についても三の大陸の介入が一の大陸から始まったとすれば、その調査に戻らねばならない。そろそろ休暇は終わりかと一の上帝も感じているが、こう開けっ広げに言われるのも面白いものではなかった。それなのに、誰に向かって言ったのかわかった二の上帝もまた、真面目くさって鷹揚に頷く。
「その通りだとも。妾もこの調査が終われば、また宮に戻らねばならん」
ぷっと第五師団長が肩を震わせた。二人の間に参加はしないものの、概ね同意見である。益々面白くなさそうに片眉を上げて黙した一の上帝に変わり、第二師団長が二の上帝の側近である武官と情報交換に行ってしまった。
「そう、しょげかえられますな、若。また機会もありましょう」
「ほう、いつだ。言ってみろ」
「おっと、これは藪蛇」
おどけて肩を竦めた第五師団長と入れ違いに輿から声がした。
「では、この場の浄化は済んだとそれで良いか」
「えぇ。流石は二の上帝。惚れ惚れするほど綺麗にされています」
「ふん。名高い第五師団の長に言われるのも、悪くない」
にやりと笑み、二の上帝が輿を上げるよう合図する。帰還の気配に第五師団長らが動けば、一の上帝がしゃがみ込んでいた。その手には、数本の黒い糸のような物があり、彼はそれを撫でているようであった。
「若」
「あ、…あぁ、今行く」
一瞬不思議そうな表情をするが、次にはその手にしたものを捨てて、彼もまた輿を追いかけた。




