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KARINA  作者: 和砂
本編
2/51

黒いフードの旅人

 東部の街から数日、中規模の集落近くは、実り豊かな穏やかな森として知られる若い樹林がある。特に何の伝承も予言もない居たって普通の、国の一辺境であるが、この半年程、奇妙な報告が相次いでいた。曰く、黒い人ほどの影が道の先のほうを横切った。曰く、毛むくじゃらの何かが森の木の陰からこちらを窺っていた。曰く、魔女が住み着き始めた、等々。せいぜい噂程度のそれに調査隊が出るわけでなく、近隣の集落はおっかなびっくり街道を利用するようになった。目撃情報は相次ぐも、被害報告は皆無。そのうち集落の楽天家や怖いもの知らずがその噂を広め、怪異の街道として、一種観光名所のようになっている。そんな話を耳に入れた旅人は、大げさに身振りを入れる給仕娘に微かに押し殺した笑いを響かせた。

「何だい、あんたも肝試しに来た口じゃないのかい」

「いやいや、笑ってすまない。こっちには仕事で来たんだ。今の世の中じゃ、物騒な都会より堅実に稼げる田舎が良いのさ」

 どこの世も、都会の方が仕事に溢れているものだ。奇妙な事を言う旅人に、給仕娘は変な顔をした。

「こんな田舎で稼ぐったって、せいぜい、狩りぐらいだろう。あんた、狩人かい?」

「んー…狩りはできないわけじゃないが、俺は薬師見習いでね。師匠の言いつけで素材集めさ」

「ふん。いっぱしの口を聞くから独立しているかと思えば、見習いなの」

 医者代わりの薬師は重宝するが、その数は多く、時に田舎は平凡な能力の薬師がごまんといる。その見習いともなればさらに。当然見下すような給仕娘の態度に、薬師見習いの旅人は目深に被ったフードの下で困ったように笑った。

「別に誇張してあんたを口説いているわけでもないんだから、そう迷惑な顔しなさんな。串焼き、おかわり」

「鳥肌が立つような事を言わないどくれ」

 渡した皿を受け取り、大げさに肩をすくめて給仕娘はようやっと旅人の周囲から消える。初めて集落を訪れた人間は確かに珍しいので、旅人もその洗礼を受けていた。陰鬱な見た目に反して、顔は見えないものの、旅人はその全てに愛想よく答えていたのだが、唯一断るのは、酒である。

「あんた、下戸か」

 嘲笑交じりの声が届けば、旅人。

「あぁ。飲んだ翌日は酷いもんさ。身ぐるみはがされ、素っ裸でゴミ溜めの上に居るんだ。それから止めたよ」

 どこまでが冗談かわからないが、そんなぎりぎりのジョークも酒場の酔った雰囲気には合う。常連客から爆笑を受けるが侮辱に怒るでもなく、一番安い食事と一番安い飲み物、最後には数日持つのがせいぜいの、これまた格安の燻製を買って帰るのが、この旅人だった。どうも出入りの際は目立つ行動しかできず、さらに絡まれそうになるが、そこは看板娘が大声をあげて注意をそらすことで何とかなっていた。今日ものっそりと立ち上がり、丁寧に給仕娘がやってくるまで待って料金を払う旅人。看板娘が料金を確認して頷くのと、半月ほど前に街から来た集団が彼に声をかけるのは同時に起こった。

「おい、旅人さんよ。俺らも”旅人”なんだが、あんたは何と呼べばいい」

 一番新参な旅人はそのままで呼ばれていたが、彼らが尋ねたのは単なる好奇心だったのだろう。それも分かっているのか、旅人は指先が土で汚れた手を一度顎に当てて答えた。

「そうだな………我が身の人生を思えば、”リチョウ”が妥当かな」

 直後、旅人の言葉に、尋ねた一団だけでなく酒場の空気が凍った。ぴたりとやんだ喧騒に、旅人は不安そうに軽く左右を確認するが、近くで笑顔を浮かべていたはずの看板娘までが化け物を見る顔で旅人を見ているのだから、困惑は酷いものだった。何か禁句を言ったらしいことはわかった旅人が、窺うように看板娘を振り返るが、その視線に気がついた彼女は、途端に鬼の形相になったかと思うと、払ったばかりの金を旅人の顔面めがけて投げつけてきた。とっさの事にそれを片腕で打ち払うと、今度は先ほど陽気に酒を飲んでいた一団が旅人の方にじりじりと距離を詰めていた。

「ちょっと待ってくれっ。俺の出身は、他国なんだ。何がおかしかったのか、誰でも良いから教えてくれ」

 何かしら不穏なのはわかるし、嫌でも暴力の匂いがする空気だ。何もわからず理不尽にさらされるのは勘弁ならないと弁解を込めて叫べば、近寄った一団の先頭の男が歯をむき出しにした。

「馬鹿を言えっ! この三大陸の上帝の御名を語って、何が、わからない、だっ!!」

 その男の怒気があまりに激しく、旅人は「上帝?」とさらに尋ねるのが遅れた。次には力任せに襟首を掴まれ、喉ごと後ろの壁にぶつけられる。体は鈍く「ばんっ」と音がしたが、喉は一瞬折れたかと思うような一撃で、声さえ出せずに旅人はカウンタ角に背中を打つ。死んだ、と思った程の痛みの後、本番はこれからだった。生理的に浮いた涙目が、掴む男以外の暴力の存在を告げていたからだ。

「あっ、がががががぁっ」

 痛みが少しましになれば、声が出た。物を投げ捨てるような無遠慮さで酒場の中央に投げ出された旅人は、さらに机と椅子を巻き込んで倒れる。見た目通りの優男であるとわかり、さらに女性客や給仕娘たちも鈍器を手に詰め寄ってきていた。旅人は混乱していたが、どうも、名前、がいけないのだけはわかった。だからどうしたというのが旅人の感想だったが、もはや話ができる状況ではない。痛めつけるためか、ごほごほとせき込むのが落ち着くのを待つ酒場の人間が怖く、旅人は喉元を抑えて体を丸めて小さくしようとした。それも、襟首を外套ごと掴まれれば、「ひっ」と悲鳴が上がる。

「一つしかない名を語るだなんて……上帝に、呪いでもかける気か!!」

 最初に掴みかった男がそう猛り、固めた拳を顔面に向ける。まるで片手大の岩のようなそれが間近に迫ってくる気配に、咄嗟に旅人は目をつぶった。弱々しい旅人の動きに同情は感じられない。恐怖に固まる一方で、旅人の心中は理不尽に対する怒りが湧いた。

 ―――確かに、我が身を嘆くばかりで、母にも、祖父母にも孝行できたのかわからない自身であった。けれどれも、自分ができる精一杯で彼らの期待と要望に答え、答え続けて、自分の人生を軽く捨てていたのも本当だ。そんな言いなりで、そして苦しむ自分を変えたくて始めた事の何が悪かったというのか。それに対する罰がこれなのか。あんまりじゃないか。自身と同じ時代に生まれ、そうして、謳歌する人間もいるというのに、苦しむのが宿命なのか!

 そういった自身を焼き焦がす怒りが嫌で、けれどその感情こそが一番の原動力であり、根本を成す。怒りに身を焼かれ、後悔しつつも獣となる我が身を省みた、だからこそ、此処での名前は”リチョウ”。そう、決めたというのに。

 顔をそむけたが当たり、どれぐらいか意識が飛んだ。どうも、そのまま床に投げ捨てられたよう。気がついたときには床に寝そべった状態で、酷い頭痛が思考を支配していた。血の味が、口いっぱいにしている。どれほどの暴行を受けたのか、防衛本能で丸まった体は少しも動かず、酷い頭痛で目を開けていても視界が真っ赤に染まっている。これは死んだかと冷静に心中で呟けば、それほど冷静でなかったのか、涙がさらに溢れた。

 ―――――人間なんて、どこも碌なもんじゃねぇ。

 いつしか思った事が再び頭の中を支配し、旅人は傷ついて動かない体のまま、号泣した。当然慰めるものはなく、声がしたことでさらに加害者が戻ってくる気配がするだけだ。「理不尽じゃないか」「なぜ、自分なのだ」そういった感情は此処にやってきてからずっと、いや、やってくる以前からずっと心の中で燻ぶるように痛み、特に夜間、誰にも訴えられない言葉と気持ちと、自身でも表現できない思いで苛まれていたのだ。

 旅人は、弱々しく泣きながら思う。何を言えば伝わるのか、どうすれば話を聞いてくれるのか、心を砕いた分だけ傷つけられ、平気な振りをし、そんな精一杯の日常を作業のようにこなし、さらには憎みながらも一番愛している家族から引きはがされ。

 ―――――なぜ、私、なのだ。

 弱々しくすすり泣いていたはずの旅人の声は、その思いを境に、絶叫へと変化した。体は当然動かない。だが、その優男風からは想像できない声量で。警戒したらしい誰かが、武器になりそうな酒瓶を持って近づいてきたのが見え、怒りの絶頂にあった旅人は、無理に顔をそちらに向けると怒鳴った。

 ―――――ぎゃおおおぉぉぉぉぉぉぉぉおおぉぉぉぉおぉぉぉおおぉぉんっ!!!!

 寄れば殺す、と明確な殺意を伝えるはずだった言葉は、もはや人の声ではなく、巨大な怪物の声だった。旅人自身が驚いたのも一瞬。命の危機が迫った今そんなことはどうでもよく、心中の怒りが頭に昇ると共に、痛む体を無理に起こし床に片手をつければ、その手は尋常でない剛毛に覆われているではないか。いくら毛深い家系だったとはいえ、とても考えられない。驚きと、体を起こすために力を入れれば、指は隣同士くっつくように短くなり、とうとう丸い肉球を持つ獣の手となった。さらに力を込めたせいか、しゅっと玩具のように鋭い爪が伸びる。多少痛むが、体が先ほどと比べ物にならない程に、軽い。

 詰め寄っていた周囲を見渡せば、彼らは呆然とこちらを見上げていた。旅人が、なぜか立てないと思っていれば、なんてことはない、四つん這いで背中が天井についてしまい、動けないのだ。人から化け物へと変化してしまった旅人を見て、恐らく周囲は恐怖に慄くだろうと旅人は思っていた。この自身も焦がす怒りをぶつけてしまおうとも、思っていたのだ。

 けれども彼らは呆然としたのち、手にした鈍器や武器を投げ捨てて、こちらを見た。興奮した顔と違い、真っ青にさえなって、身を投げ出すように一斉に頭を垂れ始めたではないか。今更命乞いかと、旅人は不快そうに牙を剥き、唸る。苛立たしげに近くの机を粉砕すれば、最初に殴ってきた男が言った。

「一の大陸を納める、猛々しき上帝。御身は凛々しき黄虎なれば、我が身は地の賤しき養い子」

 どうやら”上帝”とやらと間違えているのは旅人にもわかった。上帝と同じ名を告げれば暴行に、姿を現わせば一瞬にして敬われる立場になるほどの存在であるのは、嫌というほど理解させられたのだが。声をかけられた事で不快感が増した旅人は、その男を片腕、いや前足で払いのける。彼は、「ぎゃ」と短く叫んで壁近くまで転がった。爪を出さなかったのは、旅人の最後の良心が咎めたためだ。殺すと思ったものの、無抵抗の相手を惨殺するほどの怒りではなかったというだけである。周囲がざわつく中、見た目以上にダメージを受けたらしい男が起き上がり、何を思ったか腰に佩いた剣を抜く。

「猛々し、き…上帝。ぉん、身、を汚しし、我が………贖罪を、……受け取り給え!!!」

 そうして口上を述べて、もたもたと、しかし真剣に男は自身の首後ろに剣を当てるではないか。周囲は止める気配はなく、ともすれば、暴行に参加していた看板娘まで恐ろしい叫びを上げながら、近くのテーブルのナイフを手に取る始末。一方的に殴って、そうして化け物になれば自殺を始めようとする周囲に、旅人は一瞬にして冷めた。

 ―――――――――自己満足の謝罪なんど、要らん!!!

 再度怒りが湧き、旅人は咆哮した。もはや人の言葉が話せないのだなと感じながら放った咆哮は、強引にでも風を呼んで狭い食堂の中を吹き荒れる。首を落とすはずだった男の剣を真っ二つに折り、看板娘のナイフを弾き飛ばし、様々な人間を旅人から円状に転がして、最後に旅人の正面に大穴を開けて去って行った。

 死ぬつもりだった周囲の人間の間抜け面を眺め、旅人はもう興味がなくなり、のっそりとその大穴から這い出る。通りかかったらしい酔っ払いが旅人を見上げ、瞬間目をむいて土下座するのも嫌悪の表情で見、吐き捨てるように唸った。もう嫌だと思うとこの四足で大地を蹴りたくなり、ぐいっと力を入れれば屋根ほどにも飛び上がる事が出来た。跳躍した時の風が、怒りを吹き飛ばすように気持ちよく、旅人はやっとほっとして夜風を肺に吸い込んだ。まだまだ人の濃い臭いが充満しているこの集落から抜け出したくて、旅人は屋根を飛び移りながら慣れた森へと帰っていった。


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