虚構と幻
泥と緊張の汗で、体中がべたついている。特に掌は不快で、発熱するような鈍い感覚のある顎から、じんじんとする肩口と胸部の痛みを押しのけても、一番に思った。肘をついてゆっくり体を起こすと、転がった枯れ枝とまばらな水気のない芝草が見えた。緑の割合は一割にも満たず、視界は茶けている。乾燥した日のグラウンドがこんな感じだなと思ったのは、うつ伏せに倒れた状態で地面がぼんやり温かかったからだろう。どこそこ打撲したせいなのか、どうも瞼が重く、体が回復を求めて眠くなっていると感じた。だが、直前まで行かなければと強く思っていたせいか、休憩もそこそこのろのろと体を起こす 。
本当に、思いの外地面が温かく、離れがたい。胡坐になると、ぼんやりした視界に、ペンキを落としたような赤い点があって、その色の濃さにぎょっとする。肌を擦ったより、肉が抉れた量の血で、恐らく感覚のない顎あたりだろう。打ったような鈍い痛みのせいで発熱しているだけでないのかと、慎重に触れると、べったりと洒落にならない量がついた。それでもぼたぼた血が垂れているわけでないので、それほど重症でもないのだろうか。あまり想像したくない。
――――――ゥグゥゥゥ…
呻くようにして手を戻せば、口から洩れたのは人の声でなく、獣。先ほど指で血を拭ったばかりなのに、おかしいなとぼんやり思った。単に喉の空気が漏れたのかとも思う。駄目だ、眠い。
すごく、眠いの。
ふらっと揺れる感覚で、慌てて目を開ける。地面は相変わらずの、茶けた地面。綿詰めの少ない安物のテディみたいに、ぶにょっと座り込んだ状態でいる。つま先部分は何故か石のように鋭い爪と鱗の太い足首で、尻尾の先が見える。動けと反射的に思うと、尻尾先がひょんっとした。
――――――ククゥ…
目をしょぼしょぼ瞬きさせて、眠気を追い出そうとするが、片目が閉じ、もう片方はつられて視界が狭まる。揺ら揺らとし、しばらくは単調な動きに景色を記憶していたが、ふと気がつくと、片目は薄く開けたままなのだろう空気の感覚がし、しかし見える景色は真っ黒になっている。体もかなり傾いて、片方の太股に肘が乗っていた。首が痛みを訴えるが、目を閉じて首を回しても、ちっとも動いた気がしない。
どうしても仕事に間に合うようにと、早朝に高速でカーブとトンネルの多い山中を走っていた記憶が浮かぶ。あのときも、眠気を誤魔化すように片目を閉じて、ほんの二秒程意識を飛ばしたり、起きたりしながら運転していた。よく、事故が起こらなかったもんだ。結構な車が走っていたのに。
『コ=ウソク?』
強烈な眠気のまま、目を閉じて前後に揺れていた処、聞き覚えのある声に彼女は目を開けた。投げ出したような、巨大な鱗の足の間に、中腰で膝に手を当て、軽く小首を傾げた白い少女がいる。テレビ化しかどっかの小説に出てくる幽霊の女の子みたいだな、と思った。白い髪、白いワンピースの、華奢な子。それが本当に不思議そうにこちらを眺めている。表情に警戒とか嫌悪がないのを見て、明らかに怪獣の目の前に居る事に『お嬢ちゃん危ないよ』と、眠気の中にあり心中で突っ込んだ。自分の新しい一面をうっかり知ってしまう。
『コ=ウソクって何?』
再度尋ねられ、この娘にはよくよく似たような質問のされ方をするなと、彼女は思った。確か、ちょっと前にも虐待について尋ねられて。そこまで考え、ぼんやりした中、一度瞬きして覚醒を呼び起こそうと努力した際、ため息みたいに声が漏れた。
「…シーナ?」
それには答えず、少女はますます小首をかしげる。こうも可愛らしい動作になるのは、年頃のせいか顔立ちか。そういえば、可愛らしいとは思っていた少女の顔立ちが、かなり整っているのに気付いた。こんなに美人だったかなと思い返すが、あのときは竜の姿だったし、きっと良く見ていなかったんだと納得する。
『どうして、ここに来たの?』
高速についての返答がなかった為か、次の質問が来た。これ、前にも言った気がするなぁとのんびり構えていると、少女は困った顔して、後ろに尻餅をつくようにして座り、足を伸ばす。『いやいや、だからね、もっと警戒心ってものを』と心中で突っ込みながらも、声に出すのが億劫で。
『見捨てておけば良かったじゃない。関係ないのに』
駄々をこねるように言われれば、目を閉じていたせいか、ぼんやりしていたせいか、頭に流れ込むように声がする。目は閉じている感覚がするのに、何故か瞼の裏には足元に座っているイメージと白い印象が強くて。
『それとも、会って話をして好意的だったから、縋ったの?』
――――――あぁ、それは、あるわ。
ただでさえ人見知りなのに、知らない場所だなんて警戒するでしょうと、同調を求めれば返答はない。けれど、そんな状況でうっかりボロを出せば集団に村八分にされるし、多少風変わりねと気にしないでくれるのって、有難いんだ。”ありがたい”って、有る事が難しいって、本当だね。
『ふふふ』と何か温かい気持ちになれば、少女は。
『村の状況は酷いもので、そこに住む年端もいかない、特別でもない少女に、縋るの?』
そこを考えると、縋ろうだなんて余裕のある大人ならないでしょう。そういう言い方をされると、そういうつもりでシーナを追い駆けたわけではないと考える。そう、シーナは言われた通り、庇護の対象として見た。もちろん精神的な依存はしていただろう。だって、やっと言葉が通じる、しかも怖がらない人がいて安心しないわけがない。だから、もっと言葉を聞いてもらえるよう、仲良くなりたかったんだろう。この巨体でできる事といえば、簡単な土木作業と、凶悪な人相を使った脅しぐらいしか思いつかないから、村に行けば何かしら起こると踏んだ。もしシーナが見た目通り虐げられていたら、凶悪な(人相の)私を制御できるとして村でも尊ばれるんじゃないかって。逆に受け入れられているなら、村の人に私の言葉を伝えてくれるんじゃないかって。
『相手に求めてばっかりだね』
――――――そうだろうか。win:winだと思うんだけれど。
竜の前に虎も体験した自分は、今更狩りにためらいはない。竜の姿であればより力も強くなり、武力や脅迫材料としても、道具的な便利さもあったはずだ。意思疎通だって、シーナが居ればできる。多少思う処もあるが、行動を制限しないようにお互い妥協すれば、見世物だってやっていいと思っていた。シーナぐらいの小さな子に頼むのだけは気が引けるが、あの少女は見た目よりもしっかりしているのが少し話しただけでもわかったから、信頼しても良いと思ったんだ。
『求めてばかりだよ。だって………自身の一生を捧げる事が出来るの?』
各個の解釈の仕方はそれぞれだが、急に重く、曖昧な話題になったなと、白い少女を促すように沈黙する。
『もし、貴方の言う通りになったとして、この村に、この少女に、一生を捧げて尽くせるの?』
言われた事は、考えないではなかった。理想通り、人と竜で良好な関係が取れるとしても、十人が十人共、そう考えているわけではないだろう。純粋に慕ってくれる人間、恐れを隠しながら接する人間、利用を考えだす人間、嫌悪する人間が居るに違いない。人間同士であっても、生理的に無理という場合もある。
何かの切っ掛け、竜でも対処できない事柄――天災や国家権力、はたまた疫病や死――に見舞われた際、竜と人との関係は崩れる。一方の神聖視や、一方の欲望で。または、竜の姿が変化したならば。無力な人に戻ったなら。より醜い化け物になったなら。神聖視される虎に戻ったならば。
『人との関係を厭い、貴方がここを去らない保証もない』
目を眇めた白い少女が、鋭くこちらを見る。他人との良好な関係を求めて、口先で様々と語って見ても、その心持ちがあるのかと、尋ねられた気分になる。何か知っているのか、半場確信している視線に見える。単なる被害妄想かも知れないのに、その目に見られるのを酷く嫌悪した。
『貴方に相手を受け入れる精神がないのに、相手に求めるの?』
はっきりと言葉にされてドキリとしたのに、やはり視界も思考も靄がかかった様だ。倒れかける意識を持ち直すのにも気を使っている為か、責めるような跳ね上がった語尾に、反射的に顔が歪む。上下に薄く影がかかる視界の中、白い肌に薄いベージュの唇のイメージが迫って来た。
『それでも、”私”は求めないと、言えるの?』
俯き加減の自身の顔は動かせない。血行が悪いのか、薄いベージュの、形の良い唇が近くまでやってきて問うた。繊細な両手が頬に触れる。くいっと顔を上げさせられ、顔を近づけられているのがわかった。それでも白い少女の表情は頭に入って来ず、薄く微笑んだような唇が見える。
『言葉にできない? では、私が貴方の代わりに言ってあげましょう』
――――――それを、偽善、と、言うんだよ。




