竜と草原の少女4
円形の断崖の上でそろりと行動に移った竜は、しかして、足場の悪さに四苦八苦する事となる。元々人間サイズが通っていた幅しかなく、今の巨体では平均台移動も良いところだ。しかも、人の時と違い、二足歩行が困難な体の構造。時折、足元の一部がカラカラと崖下に落ちて行くのを聞き、生唾を飲み込む状況である。緊張で普段より早い鼓動を感じ、集中を続けるためにふっと息を吐くと、眼下の村が見えた。どうやら入口付近に居たのを大きく円状に迂回し、村の深部側に来ている様子。確か、シーナの家は村外れだと言っていたと、左右を見渡せば、なるほど、深部のさらに奥、獣道の如き一本の土道があるのを発見する。村の荒廃具合からして、見た目だけならば、土道脇の雑草の丈が人の膝上ぐらいまで伸びきってしまっているのも可愛いものだと思えた。
『虐待、は、なさそうね』
もし、この村に他に住民がいなければそう考えただろうが、本当に稀に、家の窓の淵に人影を見るのだ。大半が村を棄てた中、それでも残っている人がいるのだろう。そうして、シーナの家に続くだろう道も、人が踏み固める程度に通われているという事が窺え、先ほど涙ぐみそうになりながら意気込んだ気持が、早とちりという名の元に、急速に恥ずかしさに変わっていく。こういう直情的なところが短所と、冷静になるように心中で呟くが、竜となった彼女はここまで来たのだからと村に、もっといえば、シーナの家の近くに降りれる道を探した。自身の周囲は良いものの、先ほどから益々濃くなる霧に不安気に空を仰ぐ。空はどんよりと、雨は降りそうにないが晴れないだろう曇り空で、動くには良いものの暗い気分になる。
―――――――――クルゥ…ルルル…
ため息が鳴き声となり、はっとして彼女は口を閉じた。人型だった時は顎関節症で、下手に横向きで寝ると朝から顎が外れていたのを思い出す。しっかり口が閉じれなくなっているのではと、何度か歯を噛み合わせた。逆に虎や竜の時の方が、具合が良いのはなぜだろう。考えるのが嫌になり、彼女は眼を閉じた。
――――――――――――――――――誰?
微かに。少し距離はあったが、確かにシーナの声が聞こえ、彼女は眼を開けた。右下は寒村、左は採石所並みの岩場。まず間違いなく、右側から聞こえるだろう声は、何故か正面、左側から聞こえた。霧のせいで、遠くの物は黒い影のような大雑把な形しかわからず、方向感覚が失われる。いやはや耳まで悪くなったかと、よたよたと先へ進みながら、彼女はまた気がついた。村を囲む円の、入口とは正反対の場所に、左の岩場からではあるが、何とか足場になっている個所を発見する。竜の身で丁度良い大きさなら、人が昇って来るのは大変だったろう。岩にしがみ付き、よじ登る人影。小さな白いハンカチのような影が近づいてくるのを見て、彼女は喜色を浮かべた。
『シーナ!』
手を振りたいところだが、巨体に似合わず短い手を振ったところで自分がバランスを崩すだけである。声をかければ盲目の少女、きっとこちらの声を拾うだろうと思っていた彼女だが、予想に反してシーナの姿は四苦八苦し、時に岩場から転げ落ちながら、それでも竜の巨体を無視して行った。思わず目を丸くする彼女だが、シーナの姿は、彼女の巨体、それをすり抜けて行ったのだ。触れた感触さえなかったので驚愕につられ、彼女は駆けて行くシーナの姿を追って首を巡らせる。妖精のように頼りなく岩場を歩く少女は、確かにシーナの姿をしている。けれど、数日前背中に乗せた少女は、確かに人の重みを持っていたのに、これは一体…。
『な、に、…これ…』
ぶわっと霧が動いたような気がした。と同時に片足底の足場が動く。体を捻りすぎたかと彼女は慌て、バランスを取ろうと尻尾を動かすが、それもまた、空を切っただけで重心が戻る事はなかった。最後のあがきと、翼を動かすよう背に力を込めたが、不格好な竜の体では思うようにいかず、しまったと後悔した時にはもう体が滑り落ちていた。岩場に尻餅をついたぐらいでどうこうなる竜の体ではないが、運悪く尻尾の付け根を角でやり、痛みに一時声が飲みこまれる。それからさらに落下の衝動が来、彼女は肩口から横倒しとなった。結構な高さがあったので、滑り落ちるようにして落下する。腕の先と、腿の付け根、耳元の一部を岩で擦った。ちりっという痛みが各所で出、彼女は『いっ』っと短く悲鳴を上げる。だが、まぁ、竜の巨体。それ程度で勢いが止まるはずもなく、逆に加速して肩近くの背中を岩でごりごりやりながら彼女は斜め後方へと落ちた。
ジャッジャッジャッジャッジャ…――――――ごんっ
魚の鱗取りみたいな、岩と体表の鱗が摩擦する音。しばらく続いたが、背中に沿う様に衝撃が来て、彼女の体はようやっと止まった。鈍くぶつかったが左程痛くないのを不思議に思い、背後を見上げると大樹があった。低木ばかりのこの辺にあって、立派な樹だ。一瞬呆気にとられた彼女だが、段差を気付かず踏み外したような気分でよっこいせと身を起こした。打ち身と擦りキズ程度で済んで良かったと、未だ慌てている心臓に手を当てる。驚愕したような、安堵したような、竜の体で何を心配しているんだと反省するような、何とも言えない気持ちになって、彼女は一呼吸だけ息を吐いた。
刹那、彼女は身に違和感を感じて自身を検分する。あの短い手が胸にあっさりと付いた、だけでなく、正座なんてとんでもない獣の体で、今、何故、横座りが出来ているのか。黄色と黒の縞模様が、見慣れた肌色へと変化しているのか。急に寒さを感じ、うぶ毛が、鳥肌が立っているのは何故か。恐る恐る持ちあげた掌が、綺麗な五本指となり、父親譲りの、女にしては大きな手となっているのは。
「どういう、事?」
クルル…と甘えた声も出せるようになった喉から出たのは、間違えようのない自分の、やや低めの声。やわらかい喉元、何も身に着けておらず冷える体。鱗の安定感のなくなった頼りない呈を抱き締め、彼女は一時自失したが、霧が立ち込め、どこか肌寒い現在、生存本能からか暖を取ろうと立ち上がる。
獣として過ごして幾許か。せめてモデル並みに美しい裸体であれば、これほど羞恥も湧かないのではないだろうか。乱れた無駄毛と弛んだ体では憤死確定と、女としての羞恥よりも矜持が彼女の恐怖を煽る。もはや葉っぱも可だ。最低限裸体を隠せるモノを!!
ぎっと殺気立って後ろを振り返った彼女は、大樹から折り採るのも止むなしと地面から這い出た根っこに足をかける。足の裏の感触を確かめて、裸足で捉まれば登れると意気込んだと同時に、背後の茂みが動く音がして飛び上がった。服を着ている時はガニ股でも平気だが、裸の今、自然と内股となりへっぴり腰で振り返る。そこは、岩がごろごろと剥き出しになった崖山の一縁だ。低木がまばらにあるから風の影響かもしれないが、音のした方を見れば、毛むくじゃらの影がある。
「イェ…っ!?」
四足の獣でなく、二本足。雪山に居るという猿人が、瞬時に脳裏を駆け巡る。だが、ここは雪山でもなければ、相手も白くはなく茶色。でも、でも、だ。異世界人である自分がここに居り、また虎や竜なんてとんでもない怪物になれるというなら、イエティの一体や二体、居るものかもしれない。声を出せば危険だ、相手の動向を窺うべきだとの心の声に従い、彼女は息を詰める。野生の熊の対処として目を逸らすなというのがあるが、あれは熊に限らず、全ての動物に有効だ。顔が怖いと周囲から言われていた自分、多少の虚勢になるかと眉根を寄せて睨めば、茶色の毛むくじゃらはこちらに何かを放り投げてきた。片手でぽいっと気軽に投げ込まれたものは、途中で岩に当りながらも転げて彼女の足元まで落下する。軽く片手で胸元を覆い、足は内股で、奥が見えないよう、また目を逸らさないよう、真下に重心を下げてしゃがむ。目は茶色の毛並みを凝視したまま、空いた片手で地面をまさぐると、指先に荒い布の感触があった。
―――布?
窺うように視線を向けていたが、思わず指先の感触を確かめ、はっとして元に戻す。何度か指先で擦ってみた。ゆっくりと体に引き寄せると、それは麻布である。人が使っていたのだろう、荒い生地には刺繍まであった。手にした物が信じられずにゆっくりと茶色の毛玉に視線を戻す彼女だが、こちらに布、いや、服を投げてきた茶色の毛並みは踵を返す処だった。
「あの―――っ!!」
出来る限りの大声で叫ぶ。すると一度だけ相手がこちらを見た。肩越しの視線だが、上下の毛並みに覆われた顔の、青い目がこちらを見る。人だ。単に毛皮の衣装を着た、人だ。裸を見られたという事より、何故、こんなにタイミング良く現れ、しかも望んでいるものを投げてよこしたのかの疑問が強く、彼女はさらに声を張り上げた。
「待って!! 待ってよ、お願い!! 貴方は、何で―――?」
ざっと石の欠片が落ちる音が響く。山中一体に響いた声に、絶対聞こえたと確信できたが、服を投げて寄越した人物は用は済んだとばかりにさっさと消えた。止まる気配がなかったので、彼女も声を上げながら頭から服を被り、岩をよじ登ろうと手を伸ばす。けれども、ちっぽけな人に戻ってしまった今、その大きな岩を登る事は難しく、遠ざかる足音が消えたとわかった彼女は、膝や脛を擦り剥くだけの無駄な行為を止めた。
一の大陸の境ということで政治的な点を慮り、自身で馬やラクダを駆る事が出来ない二の上帝は輿に揺られていた。周囲も最低限の護衛と装備で、何となく心許無い。万が一の場合、二の上帝こそが最高の武力であるのだが、盗賊など人相手では上帝も配慮に困るのである。その際の対処として連れてきたのは、信頼する武官とその部下であり、二の上帝に付き添う精鋭達。一の大陸がトチ狂って待ち伏せし、開戦を始める気がなければ、この武力でいいのだ。憂鬱になるのは宮も一緒だが、この場でため息が出てしまうのは、この霧のせいだろう。
無言で視線をよこす武官に、「何でもない」と告げるが、この霧、ただの霧ではなさそうだ。上帝の琴線に触れるとなれば魔の法や異形の可能性がある。ある、の、だが、何というか、あやふやなのだ。実態がない幻を見せられ、それに従って誘導されているような、まどろっこしく、腹立たしげな気分にさせられる。
一の大陸の上帝は風を操る虎で、そんな芸当は到底無理なのはわかりきっているものの、あそこの第五師団長は二代前の上帝の血を引く一族出身。特に魔の法に特化した人物で、日々魔の法の研鑽を積んでいるという噂である。こういった芸当も出来るのではと邪推するのだ。
代わって二の大陸は、大半が砂漠という生活環境の劣悪さと強烈な風土に目が向きやすく、優雅に魔の法の研究をするよりも武力で各部族を纏めて、如何に血を流さず少ない利権を手にするかに余念がない。言うなれば野蛮。現実的な判断で厳しく渡り歩く二の大陸の民にあり、異形を倒せる武力という点で、上帝に魅力があるわけではない。話合いよりもまずは殴り合いを、という気質の一方で、信心深い二の大陸の民は、神の使いとされる上帝に畏敬の念があるのだ。以前の上帝が人と子を成しており、魔の法に特化した血統が出来たとしても、各部族が象徴として取りあい、血を混ぜる事に余念がないこの大陸では、必然と攫われないよう宮の近くに住み、秘匿される事となる。が、浮名を流した先代も子に恵まれないどころか、成すことも難しいので、一の大陸よりも上帝の血を引く子が少ないのが幸いだ。何より、一の上帝と違い、二の上帝の姿は、甲虫。人であれば敬遠したいものだろう。
先代は男の身で気が楽だったろうと、二の上帝は思う。女の身ともなれば、周囲の無言の圧力が半端ないし、嫁げぬ我が身に焦りもする。生涯独身も結構だが、婆になって”処女王”などと言われ続けるなど苦痛の極みだ。昆虫の化身と番えと言われたら、確かに自身でも嫌悪を示すと理解できるだけに、彼女の婚活は至難を極める。いっそ、側近の武官を無理やり召抱え、悪女を気取ってみたい処だが、果たして、この鉄面皮は使い物になるのだろうか。人らしい感情の発露など、ほとんど見た事がない。おっと思考が余所にズレたと、二の上帝は不機嫌そうな思案顔を軽く上げた。
「―――村までは?」
「は。通常であれば、すでに到着している刻です」
「近い、というわけか。なるほど、わかった」
無駄口は叩かず、オブラートもない武官の言葉を聞き、さらに二の上帝はため息を吐く。この霧が異常であるのは、上帝だけでなく武官たちにもわかっているのだろう。二の上帝は、堅牢なる甲虫。風で霧を飛ばす事はできない。輿から下りて直に歩いた方がわかるものもあるが、どういった目的でこんな茶番を張ってあるのかも気になる。もうしばらく遊ばれてやるかと、二の上帝は扇子を広げて優雅にもたれかかった。尻は硬い輿のせいで鈍く痛いが、背中のクッションは中々心地が良い。何度か体を揺すって良い位置を確かめていた折り、上帝の耳に鋭く叫ぶ声が飛び込んだ。
『―――――――――待ってよ!!』
次いで、地を割るような禍々しい咆哮。一斉に金属の擦れる音が響き、周囲の武官たちが剣を抜いた。半円を描くような弧刃が、半月を映す泉のように輝く。上帝もまた、落ち着き払った顔をして輿の駆け布を持ちあげた。
「今のは?」
「見当もつきません。あのような獣の声は聞いたことがありません」
一番近くにある武官が答えた。今の質疑は遊びの様なものだ。何せ、先ほどの咆哮は、砂漠の先の大地に住むゾウよりもなお大きな生き物だと直感でわかる程の声量だったのだから。そんな巨大な生物は海のクジラか、二の上帝ぐらいしか居ない。
「随分と、まぁ、愉快な事」
とても愉快とは思えない声音で上帝が告げ、ゆっくりと輿を下ろすように指示する。彼女が前線に立つつもりでいると周囲は分かっているだろうに、近衛武官が拒否した。
「まだ、距離があるようです」
暗に、座っておけ、という。上帝が神の使いであるという畏怖と、血の気が多い性格であるという慣れを持つ彼は、一番槍に上帝を行かせないとの信念でもあるのか、指摘してきた。輿から上半身を出した上帝であるが、武官も頑固と知っているため半眼で返す。
「さよか。ならば、…駆け足っ」
声のした方角から、距離と獲物の大きさを測った彼らは一旦剣を仕舞い、上帝の声にざっと駆けだした。




