二章 体育祭-2
すっかり遅くなって家に帰ると、母は瓶や缶に囲まれ、たるんだ腹を出してリビングで大きな鼾をかいていた。
その様子から察するに、今日、剛史は来ないらしい。
僕は少しだけ安心し、冷凍食品を解凍して夕食にした。
剛史が来ない場合の僕の食事は、いつも冷凍食品だった。母はとうに親の責務を放棄し、僕のために料理など作らなくなっていた。
せっかく料理の腕を磨いても、もうする気も起こらなかった。
料理の腕を磨いたのも母のためだ。料理をすると母のことを思い出す。母が変わったせいで、料理の技術を身につけたことも無駄と思うようになっていた。
学校で摂る昼食も、行きがけのコンビニで買ってくるおにぎりやサンドイッチだ。それも三日に二回食べればいいほうで、三日でパンひとつ、なんてこともある。栄養が偏り過ぎていることは嫌というほど自覚している。
高城の母がたまに作ってくれる食事を除けば、もう一年以上、こんな食生活が続いている。
――今日もわたしのご飯を食べられます。
嬉しそうに言う神崎の言葉が、脳裏に再生された。
(きっと、手料理なんだろう)
鼾だけが聞こえるリビングで、味気のないピラフを食べながら、少しだけ羨ましいと思った。
それを片付け、部屋に戻る。
いつも通り電気もつけず、暗い部屋の中で自分を責める時間だ。
なのに、どうしたことか、今日は自虐に集中できない。
過去のことを思い出そうとしても、自らの愚かさを考えてみようとしても、目を閉じると浮かんでくる映像はただひとつ。
(ああ……)
あの女の子の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
僕に笑いかけてくれた、ふんわりとした笑顔が、くっきりと映し出されるのだ。
これでは、自分を責めることができない。
ただひたすら、あの女の子のことばかりを考えてしまう。
(僕はどうしてしまったんだ……あんな女の子、別にどうということでもないのに……)
その晩、僕はいつもとは違う理由で、眠ることができなかった。
週が明けた。今週の土曜日には体育祭が開かれる。
今週は授業時間内で体育を大幅に増やし、団体競技の練習を行うという。面倒で仕方がなかった。
だからと言って普通に教室で授業を受けているのがいいと言うわけでもなく、結局は日々に充足していないために、どんなことが起こっても僕は不満になる、それだけのことだ。
(……こんな風な毎日もいつか変わって、楽しくて仕方がないようになるのだろうか)
他の生徒たちに混ざって学校への道を歩きながら、そう思う。思ってすぐに、そんなことは起こり得ない、と打ち消す。
僕は、母親と剛史の道具として、あいつらが死ぬまで働かされるのだ。
高校を出たら、大学も行かせてもらえず働かされるとのことだ。
僕が働けるようになったら剛史は仕事を辞め、母と二人して無職になって僕が稼いだ金をすべて酒や賭け事に費やして楽しく生きると、そう聞いている。
もはや逃げ道など、どこにもないのだ。行方をくらまして逃げようとしても、この情報化社会の日本だ、どこへ逃げても見つかってしまうだろう。第一、逃げたところでその後はどうする。なんのあても人脈もない、なんの能力も資格もない高卒の男が一人だけで生きていけるほど、この世界は優しくはない。
結局、あの二人の道具になるか、それが嫌なら自害してこの世そのものから逃げを打つしか残されていないのだ。
ならばいっそ、感情を殺して機械のようにただ生きていようと、そう決めた。
あいつらが死ねば、その時僕は自由になれる。そのころ僕が何歳になっているか、分からないけれど。ストレスのなさそうな二人だ、きっと長生きするのだろう。
「…………」
考えれば考えるほど鬱屈した気分になる。
やはり僕は、もう駄目なのだろうか。
どこで失敗してしまったのだ。
僕が何をしてしまったのだ。
もしかしたら。
「生まれてきたこと……それ自体が失敗か……」
いつも以上に憂鬱なまま学校に着き、階段を上がり、廊下を進み、自分の教室のドアを開け中に入る。
友人などいない三組の教室。僕が入ってきたところでせいぜい声をかけてくるのはあの三人組くらいで、あとはみんなめいめいのグループで談笑していたり自習していたりして僕に絡んでくることなどまずない。僕など、いてもいなくても教室内の空気が変わることなどないのだ。
そのはずなのだが。
今日は教室に入ってきた途端、その中がいつもとは違う妙な空気に変わるのが分かった。皆が一様に、こちらをじっと見ている。
(なんだ……?)
もしやズボンの窓が全開なのかと自分の服装をちらと見たが、どこにも隙はない。
そこかしこで、顔を見合わせて囁きあう様子も見て取れる。
妙に感じが悪い。教室内というよりはクラス全体の雰囲気が妙だ。
(……不愉快な。そこらの男を捕まえて聞き出すか)
鞄を自分の机の上に乱暴に置き、周囲を見回す。
僕の一番近くで囁きあう男二人組が目に入った。その片方、小柄で眼鏡を掛けている軟弱そうな男子生徒に近寄る。そいつは僕が近づいてくるのが分かるなり逃げようとしたが、その前に大股で詰め寄り腕を伸ばして捕まえた。
「おい、野口」
「ひいっ」
手の力のみで、軟弱な男の手首をギリギリと締め上げる。獲物が悲鳴をあげたその時、僕も同じように後ろから肩を捕まえられた。
「上杉、やっと来たか。ちょっとこっち来い」
小声で囁かれる。高城の声だった。
「……ふん」
不機嫌に任せ、捕まえた獲物を遠慮なく突き飛ばして高城についていく。背後で、物がロッカーにぶち当たる大きな音がしたが気にしない。
「お前、金曜に何をやらかした」
高城は階段を上がり、いつかの屋上へ続く扉の前まで僕を連れていくと、まずそう言った。
「何って……」
すぐには出てこない。そんな僕に、高城はもう一度言う。
「神崎と何をやらかした」
「……ああ、思い出した、確か一緒に絵を描いて……」
それを聞くと、高城は腕を組み、納得したような落ち込んだような、よく分からないため息を吐いた。
「おいおい、ガチか」
「何を言っている。さっきの教室の様子と何か関係があるのか」
「お前が神崎と一緒になにかやってるってのが目撃されてんだよ」
「……それがどうかしたのか」
別に誰かが見ていたというのならそれでもいいだろう。僕と神崎はただ絵を描いていただけなのだし。
それがなぜ先の嫌な雰囲気につながるのか、僕には分からない。なのに高城は眉間にしわを寄せたままだ。言いにくいことを言うような顔のままだ。
「それだけだったら別にいいんだがよ、問題は相手の女、つまり神崎にあるんだ」
「要点だけを言え。回りくどい」
僕は少しだけ焦って先を促していた。
神崎がどうしたというのだ。あの女の子がなにか悪いことでもしていたとでも言うのだろうか。早く答えを求めないと落ちつかない。
「あーいや、まさかこんなことになるとは思ってなかったんでよ」
高城は頭を掻いてから説明する。
「あいつな、いじめられてるとかそういうんじゃねえんだけどよ、なんつうか浮いてんだよ、四組で。友達がいる様子もねえし、いつも一人で沈んだ感じでよ。見た目も地味だし、特になんかすごい能力があるみたいなのもないし、なんつうか油断してると見えなくなっちまうというか、そんな感じの」
こんなこと、あの時は上杉が知っても無駄っつうかしょうがねえかと思ってたから黙ってたんだけどよ、と高城は付け加えてからため息を吐いた。
「で?」
「で、じゃねえよ。そんな神崎がお前、急に男とくっついたなんて、しかもこれまで何人か女子を振ってるような男といきなりくっついたなんてことになってみろ。神崎にどんなことが降りかかるかは、恋愛初心者のお前でも想像つくだろ」
「そんな……」
嫉妬に狂った過去に僕が袖にした女子が、根も葉もない噂のせいで神崎を攻撃するなどといったことが起こりうるぞ、と高城は言いたいのだ。
だからつい、そう言っていた。そんなことが起こりうるはずはない、いや、起きてほしくない、との思いを無意識に込めて。
「……だいいち、僕はただ神崎さんが絵を描くのに難儀していたから手を貸しただけだ。いかがわしいことなんて何もしていない。根も葉もない噂なんて、すぐ消え……」
「バカかお前。一人二人ならともかく、大勢の人間にとっちゃそれがホントかウソかってのはどうでもいいんだよ。細かい真実よりも、目の前にある、より単純な答えに向かっていくもんだ」
ましてこういうことに敏感な俺ら中高生はな、と高城は付け加えるが、僕はもうその時点で頭の温度がかなり上がってきていて、よく把握できない。
そんな僕に、高城は追い打ちをかけるようにとんでもないものを出してきた。
「それに、これを見ろ。画像まで流れてきてんだ」
「な……!」
携帯で画質は悪いが、高城の出した携帯に映っている二人はまぎれもなく僕と神崎、ということがわかる。机に向かって絵を描いている神崎と、その横に座っている僕。
「なんでこんなもの……誰だ、こんなことをしたのは。撮った奴、噂を広めた奴……誰だ」
怒りを無理に抑えつけて高城に詰め寄ってみるが、こいつは表情を崩さない。
「んなもん、ここまで広まったら分かるか。俺は奈緒から流れてきたけど、奈緒も陸上部女子から同じように画像を受け取ったっていうし、そいつも友達から送られてきたんだとよ。だいたい、元を断ったところでどうすんだよ。いい感じに尾ヒレもついてる頃だぞ」
「く……」
いよいよ八方塞がりな気になってきた。僕は絞り出すように「……どうしたらいい」と、目の前の友人に知恵を請う。すると、
「まあ、お前はとりあえず何もすんな」
答えは一秒もかからずに返ってきた。まるで最初から僕がそう訊いてくるのを、予期していたかのように。
「な! なにもって、それでは……!」
「落ち着け上杉、お前らしくねえな」
高城は間近にある僕の額を指でぐいと押しやった。
「いいか、神崎がなんかされてるところにお前が割って入って、そんでそこからどうするつもりなんだよ。余計誤解されるだけだろうが」
「しかし……!」
苛立ちと焦燥が募る。
この男はなんと言った。僕に何もせず、神崎を放っておけと言っている。
それでは神崎が嫉妬に狂った女子に何をされるか、分かったものではない。一刻も早く助けに入って、傷つけられるのを防ぐべきではないのか。今このとき、何も知らずに登校してきた神崎が彼女らにすでに攻撃されているかも分からないのだ。
「ここは神崎を一度傷つけさせとけ。それはもう仕方ねえ。むしろそうなったとき、上杉が助けに割って入ってこずに、何日経っても上杉がその件で行動を起こさないことが分かれば、逆に周りは『上杉は神崎とは関わりがない』って思うはずだ。一度あいつが傷つくだけで、後はゆっくり事態が収まっていく。神崎にとってもそれが一番楽なんだよ」
恋愛上級者を自称するだけあって、男女のことを離れた視点から見ることのできる高城。確かにこの男の言うことには理がある。
だが――。
「……そんなわけにいくか」
一度だとしても、神崎が確実に傷ついてしまう。
傷つくのは僕でいい。あんな子が僕のせいで傷ついてしまうなんてあってはならない。
彼女が傷つくのを分かっていて何もせずに放っておくなんて、僕にはできない。
高城の前を離れ、階段を一気に駆け下りていく。
「おい待て上杉! お前が行っても余計こじれていくだけだろうが! 待てって言ってんだろ! おい! てめえ! 待てって……!」
高城の声が後ろから、上から、だんだん小さくなって僕の元に届くけれど、僕の足は止まらない。
一秒でも早く、神崎のいる四組のもとへ。
できるなら、まだ何も起こっていないことを願って。