表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

掌と爪の関係

作者: ろく

 何回転んだって良いだとか言われますが。転んで立ち上がって人は大きくなるのだと言われますが。そんで、傷つく勇気を持て、などと言われますが残念ながらそんなもん。


「ありませんから!」

 残念ッ! と勢いよく、中村は教科書とノートの束を机に押し戻した。

 マジでか! と隣で今吉が坊主頭を抱えてしゃがみ込んだ。

 一時間目終了後の休憩時間だ。チャイムが鳴って即行、今吉が中村の所にすっ飛んできた。いわく、英語のノートを貸してくれ。三時間目の英語の課題をしてくるのを忘れたのだと言う。

 隣でしゃがんでいる今吉がゆっくりと立ち上がった。机に置かれた特売で買った大学ノートを、半眼でじっとりと見つめて言う。

「お前……、それ英語のノートじゃねえの?」

「まさしく」

「貸してくれよ」

「あややにうつつを抜かしていた輩の言葉など聞く耳持たん」

「良いじゃん貸してくれよ。今度矢口の写真集貸すからさあ」

「ハロプロに興味は無い」

「キャブ派?」

「アナ派だ」

 アナかあアナも良いなあ、と今吉は日に焼けた顔を緩めた。たれた目がいっそうたれ下がって、糸のようだ。緩まりながらも、右手で中村のノートを催促するのは忘れない。中村はため息をつき、タコで固くなった今吉の手の平に、パシンとノートを叩きつけた。

「サンクスモニカ」

「悪い元ネタが分からん」

 隣の席に座ってノートを写し始める(しかも中村のシャーペンをちゃっかり奪って)今吉の座る椅子を、中村は蹴りあげた。

 今から三ヶ月ほど前、私立白峰学園高等部の入学式。真新しい白い学ランに身を包み、緊張して迎えたあの日を中村は一生忘れられないだろうと思う。

 中村駿介。

 点呼され、返事をし、立ち上がった。多少は予想していたが、やはり講堂の空気がざわめいた。大勢の人間だけが起こせる、あの独特の嫌な空気のざわめきが起こったのは、中村が点呼された時と、宇治山田太郎君が点呼された時だけだった。ちなみに宇治山田君は囲碁部のホープだ。

 それだけならまだ良い。問題はその後、教室で、だ。

 ねえねえ中村君てサッカーやってたの? うんまぁね。  きゃあすっごぉい、ねえねえポジションどこなの? やっぱシュンスケだけに真ん中の真ん中? うんまぁね。

 女の子に囲まれて、やっべえ俺人気者? とか舞い上がれたのも束の間だ。舞い上がって即行、墜落した。

 でもお前んとこの学校、県体の二回戦でおれらに負けたよなあ?   だよなあシュンスケのくせにフリーキック下手くそだったしなあ?

 なあシュンスケ君? と、教室の後ろで溜まっていたサッカー部集団に揶揄された。大会で見た顔だった。ロッカーの上に座っている癖のない真黒い髪をした男は、中村と同じポジションだった。白峰の白いユニフォームの背に10番を背負い、正確な指示を飛ばしていたのを覚えている。確か、相模とかいう名前だ。

 中三の夏の大会。中村の学校は白峰に負けた。5―0。白峰の一軍相手に五点で押さえられた、良くやった、と監督は慰めてくださった。

 ええうっそお中村君て下手なんだあ。えぇ~、面白くないのお。

 シュンスケ君はうちのサッカー部には入らないんですかあ? まあ入っても三軍だろうけどねえ。

 なあシュンスケ君?

 墜落。

 これくらいで落ち込んでんなよ、一生忘れられないって大げさだろ、って言われるかもしれない。

(けどやっぱなあ)

 思春期の心は複雑なのですよう。

 中村は机に突っ伏した。今吉は写すのに夢中で、暇だ。僅かに湿った机は、鉛筆と木の臭いがする。目を閉じると、教室のざわめきが一段と大きく聞こえた。

 ねえ昨日のうたばん見た?

 あややあんまし好きくないし。

 もう英語宿題多すぎ!

 タカコと吉田君つき合ってるんだって!

 昨日飯田リンチくらったってな。

 ああ、あいつ一軍控えに上がったから。

 ああ女の子の声って可愛いなあ。なんて思えたのも僅かな時間だけだった。教室の後ろの辺りから聞こえてきた声に、中村のテンションは一気に下がる。ああサッカー部殿キミ達は何て物騒な話を。

 ……リンチ。

(リンチねえ……)

 自分のいた中学では聞きなれない言葉だ。白峰では、まあそう珍しい事でもないのだろう。後ろに溜まった連中を盗み見ると、頬だの手の甲だの、擦り傷まみれだ。リンチにはあわずとも、練習中のあたりはきついのだろう。

 白峰のサッカー部は、強い。全国レベルだ。運動部寮すらある程の強豪だ。

 俺らは何だ! 王者白峰! 潰すぞ! おう! 

 試合前、控え室から聞こえてきたその掛け声に、圧倒された。

 中学では一軍だった彼らも、高校になって二軍に落ちたらしい。中村は溜息をついた。

 だって、あんな強い奴らでさえ二軍だぜ?

 俺とか絶対三軍じゃん。

 シュンスケなのに。

 馬鹿にされるに決まってんじゃん。

 シュンスケのくせにって。

 そんなんやだもーん。傷つくのやだもーん。恥かくのやだもーん。どうせ現代っ子だもーん。もーん。

(うわあ俺キモイ)

 体を起こして隣を見る。ちょうど今吉がノートを写し終わったところだった。差し出されたノートを受け取る。

「ほいよ、サンキュ。お前相変わらず字汚いなあ」

「お前は相変わらず顔が汚いなあ」

「失敬な。これでもこの前ラブレター貰ったんだぞ」

「うっそマジでか!」

「マジだ。吉田君に渡して、って」

「ダメじゃん!」

 いやいやあれはぬか喜んだなあ、オフサイドなみにぬか喜んだなあ、と今吉は目を伏せて笑う。乾いた笑い、とはコレかと納得した。ちなみに吉田君とは今吉の女房だ。吉田君がピッチャーやれば良いのに、と言われる程には、男前だ。

「まあ頑張れ。どうにもならんほど、不細工ではない」

「お前もな。俺はシュンスケよりお前の顔の方が好きだ」

「え、キモい、バカ? 俺ピュアな体のままでいたい」

「俺もだから。心底、俺もだから」

 中村はあははと白々しく笑いながら、項垂れた今吉の頭をじょりじょりと撫でてやった。

 まあ、自分の顔を褒められてそうそう悪い気はしない。短い黒い髪も、ツリ目なのも、小さい頃から、嫌いじゃない。顔はともかく、何で真ん中選んだんだよ、と昔の自分に言ってやりたくなりはするが。

 項垂れる今吉を見てしかしまあ、と思う。

 何でこいつは面と向かって好きとか言えるのかね? 何でハロプロ好きだとか言ってまわれるのかね?

 何で野球大好きっ子ですって、そんなにアピれちゃうのかね?

(ハズいとか体面とか、考えねえの?)

 中村は、今吉の白ズボ(白いズボンの略。ちなみに白い学ランは略して白ラン)の右ポケットを見た。そこに、薄汚れた硬球が入っているのを知っている。夏服になる前は、白ランの右ポケットに入っていた。授業中だとかに、ポケットに手を突っ込んでもそもそと動かしているのを何度も見た。聞くと、早く硬球に慣れたいんだ、と笑った。目尻に皺をよせて、頬骨の辺りを赤くして笑った。笑ったその顔を、殴ってやりたいと思った事を覚えている。握り締めた拳を開けば、爪の痕がくっきりと四つ、残っていた。

 チャイムが鳴る。今吉が右ポケットから飴玉を取り出して、中村の机に置いた。

「お礼。梅味平気?」

 頷くと、目尻を下げて笑った。

 殴りてえ。そう思った。



  

       


 五時間目の体育は、サッカーだった。とりあえず、中村のクラスのサッカー部連中は、おモテになっていた。

 きゃあ、相模君格好良い~! どうしようどうしよう惚れちゃいそう!

 それに比べて中村君は。

(とか思われてたんだろなあ)

 むーんと唸りながら、教室の鍵を扉に差し込んだ。体育の時の教室の戸締りだとか、準備体操を皆の前に出てやったりだとか、体育委員なんて面倒な仕事ばかりだ。ジャンケンで負けた自分が憎い。

 他の者より先に、大急ぎで教室に戻ってきた中村が扉を開けると、何とも形容し難い空気が漂ってきた。白峰では、体育は四クラス合同で行う。更衣は各教室で行い、一、二組が女子、三、四組が男子、といった具合だ。

 中村は三組、男子の着替えクラスだ。

(何とも言えねえなあ……)

 しょっぱいと言うか酸っぱいと言うか。

 電気をつけ、中に入る。窓を開けてカーテンを閉めた。

 体操着を脱いで、カッターシャツを羽織る。ボタンを留めながら、さっきの時間を中村は思い出した。何というか、サッカーの技術だけでなく、その他いろいろ負けた気がして、何だか苦しかった。

 やはりおモテになりますなあ相模君?

 ああ? 違うだろおれがモテてんじゃなくて、白峰のブランドがモテてんだろ。

(あーあ)

 情けねえの、俺。嫌味すら負けてる。

 カッターシャツのボタンを数個外し肌蹴たまま、ジャージの下を脱ぎ、ズボンを履いた。体中に制汗スプレーを振り掛ける。

 汗ばんだ体が気持ち悪い。座りたくなくて、立ったまま下敷きで扇ぐ。空調のボタンは、教師しか触ってはいけない決まりだ。

 中村は汗を拭いたタオルを首に巻き、ズボンを膝下まで捲り上げて座った。教室には誰もいない。帰ってくる気配もしない。じよじよと蝉の鳴く声が教室に響く。カーテンが風でなびくたび、その声が大きく聞こえた。

(あ゛―、毟りとりてえ)

 蝉の声に混じって、まだ授業中の他のクラスの声が聞こえる。多分、英語のリスニングの授業だ。音楽室からリコーダーの音が聞こえる。高校生にもなってリコーダーってどうなのそれ、うわあ俺美術選択で良かった。中村は一人笑った。

 風になびいたカーテンの向こうから、小さな、柔そうな、薄灰色をした鳥の羽が入りこんできた。

 それはふわふわと舞って、廊下側の、机の上に落ちた。

 一番廊下側の列の、前から三番目。今吉の席だ。

 中央の列の一番後ろにある中村の席から、斜めの位置にある。授業中は人で見えないが、今はよく見えた。

 今吉のカッターシャツはきちんと畳まれ、机の上に置かれていた。ズボンも二つに折りたたまれ、椅子の背に掛けられている。その白ズボのポケットが膨らんでいた。  中村は立ち上がり、今吉の席に近づいた。

 ズボンに手を突っ込み、薄汚れた硬球を手に取る。思いの他に重たくて驚いた。人差指と中指の間に挟みこんでみる。指の付け根がギリギリと痛んだ。何度か手首を使って、上にほおり投げてみる。手の平に戻ってくるたびパシンと軽い音をたて、痕の残る手の平に、重く痛んだ。

 声が聞こえた。複数、こちらに向かってくる。その中に今吉の声は無い。

 中村は、今吉のズボンを畳みなおし、ポケットに硬球を仕舞った。

あっちいマジ暑い! 隣のクラスの男たちだ。入ってくるなり、何でクーラーつけねえの、といった苛立たしげな視線で見られた。

(いやいやそうは言われましても)

 それを皮切りに、どやどやと声が増えた。

前の、後ろの扉からなだれこんでくる。皆体操着をまくりあげて顔の汗を拭きながら、手扇で風を顔に送っていた。

 今吉が、後ろの扉から入ってくるのが見えた。

 中村は、入り込んできた鳥の羽を摘み、教壇の横のゴミ箱に捨てた。青い方が燃えるゴミ、黒い方が燃えないゴミだ。

 ボールは、どっちだろう。

「……あれ?」

 今吉が上擦った大きな声をあげる。

「なあ、俺のボール知らねえ?」

 今吉の坊主頭が忙しなく辺りを見回す。あっれおかしいなあとぶつぶつ呟きながら、しゃがんだり、ズボンをはためかせたりしている。日に焼けた顔の、垂れた目が不安で揺れていた。

「なあ、誰か知らねえ?」

 知らねえよー。

 えー、パクられたんじゃね?

 誰が盗むよあんなもん。

 クラスメイトの、どうでも良さげな、むしろ迷惑気な声が返ってくる。

「なあ中村、お前知らねえ?」

 知らねえよ、とポケットに手を突っ込みながら中村は返した。自分の席にゆっくりと戻る。っかしいなあ、と今吉がぼやいた。

 なあ、お前分かってんの?

 みんなにウザがられてんぞ? ボールとかどうでも良いじゃんって、暑苦しいんだよって思われてんぞ?

「なあおい今吉」

 ゴミ箱を覗き込んでいる今吉の背中に、相模が声をかけた。

「俺、今日掃除当番だから見といてやるよ。そこらへんに落ちてるかもしんねえし」

 頼むよ、アレが良いんだよ、と今吉が情けない声をだした。

 中村は、自分の机の横に引っ掛けられた指定鞄のファスナーを急いで閉めた。席に座って顔を上げると、相模と目が合った。

 掌に爪が刺さる。

(まったく……)

 何やってんだかねえ、と中村は声には出さず、舌だけで呟いた。

 放課後、結局今吉のボールは見つからなかった。

(そりゃそうだっての)

 中村は鞄に手を差し入れる。

 そこに、ボールの堅い感触があった。

 強い風が吹いて、背に水しぶきがかかる。足元に群がっていた鳩がばさばさと羽音をさせて飛び立った。

 中村は、駅前の噴水、その前に設置されたベンチに座っていた。

 高校に入って三ヶ月、日が暮れるまでずっと、ここで座って通りを眺めている。通りを歩く人に暇人だと思われるのが嫌で、メールを打つふりをしたり、頭にまったく入りもしない文庫本を開けたりしている。文庫本も何だか固そうな内容の物を選んだ。

 何しろ、世間の、特に大人の暇人に対する評価は厳しい。学生は部活動に励むべきだ、それが出来ぬならバイトで社会を知るべきだ。君は三年間を無為に過ごすつもりかね? なんつって。

(……そりゃあ、しんどいなあ)

 日が暮れるまでの時間、その時間がやけに長く感じる。それでも、家に帰って母の声を聞くのが嫌で、だからといって学校に残って学校の声を聞くのも嫌で、中村はここでこうしている。その時間が長く、苦しい。けど。

(だって、嫌だろ)

 否定されんのは、嫌だろう。

 中村は両手を握り締めて、息を吐いた。

 要するに、『良い思い出』にしておきたいのだ。サッカーをしていました、10番でした、司令塔でしたトップ下でした、シュンスケでした。そう言っていたいのだ。

 白峰で部に入って、否定されるのが嫌だ。今までの自分は何だったんだ、なんて青春臭い台詞を吐く羽目になるのは嫌だ。

(……って、思うだろフツウ)

 中村は鞄から今吉のボールを取り出した。学校からの帰り道、ここまで鞄がやけに重たかった。

 ボールを手の平に転がす。縫い目が手の平の上でぞりぞりと痛かった。

 むかつくなあ、ほんと。

(今吉も、俺も)

 ボールを玩びながら、通りを眺める。額の汗を拭きながら早足で歩くリーマン。巻きすぎてキノコみたいな頭になってしまっているセレブっぽいミニスカ。アフロとドレッドの間の頭をした奴と、伊達眼鏡の二人づれ。

 ふと、アフロと目が合った。眼鏡の口元が歪められる。

(うわあ何か……)  悪い予感がするんですけど?

 二人がこちらに近づいてくる。逃げないと駄目だ。そう、思いはした。けれどどうしようどうしようと頭が考えるばかりで、体が動かない。どうしようどうしよう。頭が真っ白になるってのは、こういう事か。

「一人? だよね? ちょっとこっち来てくんないかなあ?」

 眼鏡がにこにこと笑いながら中村の顔を覗き込む。香水の臭いがした。多分、ウルトラマリンだ。そう言えば中村のクラスの伊達眼鏡君も同じ香水をつけていた。

 目を逸らすと、アフロがまあまあまあまあと笑いながら、中村の腕を掴んで立ち上がらせた。ビルとビルの間の、いかにもそれらしい所に連れ込まれる。青いポリバケツがいくつかあった。周りは、見て見ぬふりだ。ビルで影になったアスファルトに、砂埃で汚れた、萎びた黄色い花が咲いていた。

「その制服白峰だよね? 頭良いんだ?」

「すごいなー尊敬だ! 頭良くて坊ちゃんだし最高だ!」

「福沢諭吉さんだねえ」

「漱石だなあ」

 持ってんだろ? とアフロが中村の肩に腕を回す。

 嫌な予感ほど良く当たる、と言い出した人は偉大だと思った。

 通りの喧騒を背中に感じる。切ないってこんな気分かなあ。

 アフロが押さえて眼鏡が漁る。これがいつもの手なのだろう。手際が良かった。中村は、しゃがみ込んで中村の鞄を漁る、眼鏡の背中をぼんやりと見下ろした。

(まあ、ほんと漱石しかいないし)

 福沢さんなんかいないしまあ良いか、と目を閉じる。財布も、アディダスのだし。ヴィトンとかのじゃないし。他に盗られて困るもんなんか無いし。

「っつーかさあ、漱石三人てどうなの。白峰なんじゃないのキミ」

 眼鏡が立ち上がって、財布を投げ捨てた。

「まあ良いじゃん。って、あれ。お前野球部なの?」

 アフロが中村の手からボールを奪う。

「白峰って強いの?」

「強い強い。野球部確か、シードだろ。あとテニ部とサッカーと」  ふうん、と眼鏡が楽しげに笑う。

「文武両道ってやつ?」

「うっわむかつく」

 どうする? ぼこっちゃう? 野球部ホープ、潰しちゃう? 

 二人が顔を寄せ、小声で話し合う。

(いやいや俺は違いますから)

 野球とかまともにやった事無いし。野球どころか、何も、まともにやった事無いし。

 アフロの爪が黒く塗られた手に、今吉のボールが収まっている。何だか、公衆の面前でいちゃこらしてる不細工を見た時の気分だ。

「……せよ」

 けどそいつの持ち主は違うから。毎日毎日あややと名づけた投球版に愛ぶつけてるような、イタイ奴だから。手え、ぼろぼろになるまでやっちゃうような、暑苦しい奴だから。爪割れて、それでも笑ってる、そんなだっさい奴だから。

(……ほんと、だっさいなあ)

 どっちがだろうなあ。

 とにかく、多分、俺とかお前らとかが、持ってちゃ駄目なんだろうなってのだから。

 中村はぐっと手を握り締めた。爪が刺さって、じくじくと痛む。

「返せよ」

 アフロと眼鏡が顔を合わせる。

「うわあどうしよう格好良いなあ」

「ボールは友達ってか?」

 二人が腹を抱えて笑う。中村は側にあった青いポリバケツを蹴飛ばした。インサイドキックだ。ガラガラと派手な音をたててバケツが転がる。蹴ってから、安心した。中身が入ってなくて良かった。捨て猫とかがいたら切腹ものだ。

 目を丸くしてバケツを見ている二人に、向き直る。

「うるせえよ眼鏡。ヨン様ヅラでもかぶっとけよ」

「は?」

「お前も」

 と、アフロに指を突きつけた。

「頭部から陰毛生やしてツバサ君気取りかよツバサ君なめんなよ」

 二人が顔を見合わせる。口元は笑っているが、目は伏せられている。さっきのような、馬鹿にした表情ではない。タコ殴り決定ですかね?

(うわあ、やだなあ……)

 中村は突きつけた指を拳の中に一度戻し、それから手の平を上に向けて指を開いた。

「さっさと返せよ」




「……うわあ…………」

 空が高いなああははとか、無理やり笑ってみた。切れた口の端が引き攣れて痛かった。舌で奥歯をつつくと、僅かに動いた。少年漫画で、殴られて奥歯を血と一緒に吐き出すシーンを思い浮かべた。お前やるなあ、お前もな。二人は手を握り合う。

(ありえねえってあれ……)

 ビルの隙間に転がる中村を見て、通りを過ぎる人が笑う。見ないふりをする。相当に恥ずかしい存在になってしまっている。制服姿の女子高生たちに手を振ると、酔っ払いのオヤジでも見たかのような顔をして走り去ってしまった。傷ついた。中村は笑って、息を吐いた。

(……何だこれ)

 俺も、持ってたのかよ。

(まいったなあ……)

 体の横に転がるボールを横目で見る。僅かに血のついたそれを見ると、何だか笑えた。ボールの向こうに、萎びた花が見えた。中途半端な緑色をした葉の上を、小さな羽虫が這っていた。口の中がざらついて、グラウンドの砂の味がした。

 風が吹いて、ボールがころりと転がった。花が揺れる。虫はまだ葉の上にいた。

 笑う中村の右足の先に、ぼたりと白い何かが落ちてきた。見ると、夕日に焼けた空を鳩が飛んでいく。

 畜生めが。

 今吉は羽で俺は糞かよ畜生め。




「ん」

 ぐい、と握った拳を今吉に突きつけた。今吉は戸惑いながらも、短く爪の切られた手を出す。手に置かれたボールを見て、うわあと目を輝かせた。

「見つけてくれたんだ? うああああありがとうなあ」

 喜ぶ今吉を、中村は目を眇めて見た。

「俺、お前のそういうとこ嫌い」

「……へ?」

「おお、戻ってきたんだ? 良かったな今吉」

 朝練後なのだろう、相模の襟足が汗で濡れていた。中村と目が合うと、何もかもを見透かしたように、目を細めた。

「えらくまあ、男前になったなあ?」

「ほっとけよ」

 相模が自分の頬を指先で突いて笑う。腫れた頬が邪魔をして話しにくい。うろたえている今吉をおいて、中村は自分の席に戻った。椅子に座り、ファイルから用紙を取り出した。

 中村駿介。サッカー部入部届けの名前の横に判を押す。

 後ろから覗き込んだ今吉が、おおおと妙な声をあげた。今吉だけでなく、相模も後ろからひょいと中村の手元を覗き込んで、ふうんとおもしろそうに声をあげた。

「良いんだ?」

 中村は首を曲げて後ろを見た。何となく見下ろされているのが嫌で、立ち上がる。

「だって、どうしようもねえもん」

 やりたくないはずなのにさ。

 相模が目を見張る。それからくっと、喉を引きつらせて、へえ? と馬鹿にしたように笑った。

「ああそうだ」

 ボールについた血を不思議そうな顔で眺めている今吉に、相模が言う。こいつ、と親指で中村を示した。

「一発くらい殴っといたら?」

 今吉が驚いた顔で中村を見る。

(余計な事言うなよ……)

 言うだけ言って、相模は自分の席に戻っていった。中村は自分より上背のある今吉を上目遣いに見上げた。今吉はボールと、中村とを見比べている。

「……どういう事だよ」

 笑うと、口の傷が痛んだ。

 今吉の、眉をしかめた、厳しい表情が目の前にある。いつもの笑顔ではない。しきりにかさついた唇を舐めている。

 お前なのか? お前が盗ったのか?

 そう問おうとして、して良いものかと悩んでいる、疑う自分が嫌だ、そんな顔だ。

 そうだ、それで良い。

 もっと、お前の汚い顔が見たい。

 おキレイなお前の顔は見飽きたんだ。

 中村は掌を見た。

 四つ、爪の痕が残っている。

 その痕を、今吉が上から見下ろしている。ボールを持つのとは逆の手、左手を強く握り締めていた。

 今吉の掌の肉を蝕む爪の感触が、こちらまで伝わってくるようだ。

 もうきっと、中村の掌の傷は痛まない。これ以上増える事もない。

 そう思って、小さく笑った。

 視界の端に、白いB5の用紙と、今吉の強く握り締めた、血管の浮いた、赤く日に焼けた左手が見えた。皮が剥けていて、痛そうだ。


 今吉の白い手の平に爪の痕が残るのを想像すると、中村の指先がちりりと熱くなった

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ