葬送の話。(外伝)
(1)女王
イナリア=ディザスターが王位に就き、最初に行なった仕事は前王であるアレード=ディザスターの葬儀を執り行うことだった。
「陰鬱だな」
城内、城下、街の外までも火が消えたように静まり返っている。こんな事は彼女がこの国に連れてこられてから一度もないことだった。彼女がこの国に来た頃から、この国では誰もが楽しげに笑っていた。涙の絶えぬ日などなかった。
「アレード……。お前が死んだせいだ。皆、泣いている」
ただ数日、身体を許した相手を想う。最強の剣士であり、最強の魔導士であり、国民の全てが尊敬していた男のことを。
涙が流れ、少しの思い出で暖かだった顔が、同時に、醜く、激しく歪む。王を、アレードを想うだけで、彼女の脳裏に浮かぶのだ。
アレードを殺した憎い女が。
―――サラマンドラッ!!
「よくも王を殺したな! 裏切った代償は高くつくぞッ!!」
奴が何をもって殺したのか。確証はないが予想はついている。優れた武人でも、優れた政治家でもなく、女の勘が囁くのだ。
同時に、あの女にはもう何も残っていないことも。
太古の神霊。古代の神炎。創世の一柱。
遥か古より高くにあり、今は地に堕ち、多くの精霊に嫌悪される魔導士殺しの大精霊。
王がサラ子と呼び、慕い、傍に侍らせた精霊。この国の始まりの一人。
ぎりぎりぎりと歯が鳴った。ぱきり、と奥歯が砕ける。イナリアの顔は憤怒に染まっている。
見つけ出し、八つ裂きにしても足りない。引きずり出し、殺しつくしても足りない。彼女の憤怒を抑えるには何もかもが足りない。
ガンっと、玉座に拳がぶつけられる。イナリアはアレードが死に、女王に即位してから一度も玉座には座っていない。
ガンッ、ガンッ、と拳が叩きつけられる。彼女の甘えを受け止めてくれる男はもういない。彼女が安らかにいられた男はもういない。
あああ、と嗚咽が零れる。イナリアは玉座に縋りついた。いないのだ。彼女の王は。
ただ一人。彼女が認めた男は。
あああ、と涙が零れる。毎日、毎日、皆が泣いている。
アレード=ディザスターが死んでから、涙が絶えた日は一度もない。
(2)友
王が死亡したと伝えられたとき、国民に走った感情は、驚愕や納得といった感情ではなく、何故、といった困惑の方が大きかった。
僻地にあり、魔王の森に囲まれているために外敵を寄せ付けぬ火竜王国。クーデターを起こすような人物も既に亡く、国家転覆を企んだ大商人も粛清された。
数日前に顔を見せた国王に病魔の這い寄る影はなく、健康そのものだった。
若い王に死亡するような要因は一切なかったのだ。
だから王を殺した精霊の名が公表された瞬間、国民たちの間を駆け抜けた驚愕は如何程のものだったのか。
それを言葉にする方法はない。
王が殺されたその日。
王に岩本と呼ばれた精霊、真の名をガルギ=ベクトリアスは、後に大ジークフリートと呼ばれる要塞の司令室となるべき場所で、壁面を飾る調度品を創っていた。
岩の持つ頑健なイメージを打ち消すような繊細さの感じられる造形物。精霊の中でも高位に位置する彼が、良き友人として、尊敬すべき王として、彼ら精霊の救世主として好意を寄せている男に捧げられる感謝が、誠実な仕事だと知っているからこそ、彼は仕事に手を抜いたことは一度もなかった。
ガルギは彼の友であるアレードが最初に座すであろう司令室の工事をひとりで行なっていた。他の精霊にはやらせるわけにはいかない。最高の仕事を最高の友に見せる誉れこそ、彼が最も望んでいることだったからだ。
ガルギは忘れていない。未だガルギとサラマンドラとアレードしかいなかったころ。彼の最初の仕事である洞窟の拡張工事を、輝くような目で見ていた男のことを。
伝説や神話の英雄像を一体一体創っていく、その技巧も速度も、自らに厳しいガルギが他人に誇れる唯一のものだった。
昼食の時間になるとガルギは職人の溜まり場に赴き、彼ら高位の精霊ですら古くには食すことのできなかった高純度の魔石粒を口に含む。
周りでは休憩のために車座になりながら談笑している精霊が多く、ガルギよりも若い精霊ですらガルギと同じ純度の魔石粒を食べていた。
表情を変えず、しかし、内心では感情を綻ばせながらガルギは彼らを少しだけ眺め、同じく魔石粒を摘んでいる現場監督を務める精霊と、今後の予定を話していく。ジークフリート計画の進捗如何によってはつい先日の約束が果たしにくくなる。休みをくれと情けなさそうな表情で呟いている男の顔を思い出し。ガルギは苦笑と共に気を引き締めた。
精霊たちのために身を粉にしてくれている友人。召喚される精霊たちが束縛されることのない国。かつて、多くの精霊が奴隷のように人間に使役されていたことを思い出しながらガルギは己の友の成果を誇る。
だからか、王城より慌てた顔でやってきた男から、囁くようにして告げられたその報せを耳にしたとき、頭が真っ白になり。次に、憤怒だけが頭を占めた。
――誰が殺したッ!!!!
人間かッ。また俺たちを裏切ったのかッ。その感情に導かれるままに知らせてきた人間を吊り上げ、同時に違う、と脳裏にいくつもの考えが走った。
――違う。人間ごときには殺せねぇ。
先日の暗殺騒ぎ。事情を知る側近たちの肝を一瞬にして凍らせた暗殺者の存在。殺されかけた本人は軽く思っていた重大事件によって王の身辺は高位の精霊ですら害せぬほどに強化された。
毛ほどの傷もつけるな。そガルギも研究所に勤める自らの息子にそう命じている。
ならば、とガルギの腕が緩み、吊り上げられた人間が地面に落ちる。そうして、騎士の目に映る感情が瞬時にガルギに真実を悟らせた。
「精霊、か……」
「はい。サラマンドラです」
ガルギに訃報を知らせた人間は、アレードが奴隷市場より買い取り、暖かな食事と、十分な教育を与えた人間だった。
彼は王によって寒さに震えることなく眠ることのできる住居を与えられた男だ。
だから、彼の精霊を見る目に、憎悪の感情が宿っていてもおかしくはなく、今此処で罵倒の声が出ていないことの方がおかしかった。
「会議を開きます。だから、王城へ来てください……」
「ああ――わかったよ」
裏切ったのは精霊だった。だけれど同時に精霊も裏切られたのだと、人間に理解させたかった。だが、長年人間に傷つけられ、裏切られつづけたガルギには、何を言えばいいのかわからなかった。
だが、そんなことは瑣末事だ。
他者への気遣いを忘却したガルギの脳裏には、友を殺した女精霊を八つ裂きにはどうすればいいのかと、友はどうやって逝ったのかと二つの疑問だけが大きく揺れていた。
――何故、殺した……。
お前は笑っていたはずだ。お前は大事にしていたはずだ。お前は、お前は……。
サラマンドラ。いや、古の大精霊よ。お前に何があった。
――いや、問う必要も。聞く必要も。知る必要もねぇ。
「……サラマンドラは俺が殺す」
同族に本気の殺意を抱くことなどなかった。だが、今は、友の死がただただ悲しく。そうして、友を裏切った女がただただ憎らしかった。
ガルギの言葉に少しだけ顔を綻ばせた伝令の騎士は憎しみに満ち満ちた顔でその言葉を否定する。
「いいえ、サラマンドラは私が殺します」
これは王が死んだ日の出来事。同時にサラマンドラが討伐される日より八年前の会話である。
この日、サラマンドラを殺すと多くの人間と精霊が決意した。
(3)揺り籠の唄
「まったく、ここまで喰い散らかすとは」
魔力の海とも称すべきか。高純度のエーテルに満たされた世界が精霊界と呼ばれる場所の本質だ。
そこでは意思や魂といったもののみが活動し、肉の身体は必要がない。
そしてこの海の中で形を持って活動できるのは強固な魂か意思のみなのだ。
全てが満たされたこの海で生まれ育つ精霊たちは欲望というものが育ちにくい。
また万物の構成や真理に直接作用できる能力を生まれ持つが故に、魔力の篭もった真言などに弱い性質などを同時に持つ。人間と違い、真の名前を知られるだけで魂すら拘束されてしまうのも、力の塊とも称すべき彼らの弱点だ。
火の精霊、水の精霊、雷の精霊、風の精霊……エトセトラエトセトラ、この海から生まれたものは何故か力の性質が特化してしまう。
その性質は物質界の現象や物質などという精霊界と離れがたいものである以上、両者が密接に関係していることに疑いの余地はない。精霊たちもその原理は知らないが、精霊たちの中でも始原に属する存在たちが否定することのない以上、それはきっと疑いようのない真理なのだろう。
そして、そんなエーテルで満たされた精霊界の深奥、最も古き場所に彼女はいた。
「そんなものを腹の内に抱えて。もう情報など何も残ってないというのに。残骸だけを持ってきたとしてもなんら意味はないだろうに」
ずずず、と蠕動するようにして巨大な力の塊がふわふわとエーテルに浮かぶ男の足元を通っていった。言葉は通じていない。彼はただ、語っているだけだ。愚かな女に。狂った精霊に向けた言葉を。
男は水を司る精霊の中で、真下にいる女と同じ立場を担うものだった。神水と呼ばれる物質世界での水の発生を担う属性の精霊。
物質界は既に確立された世界ではあるが、彼がいるのといないのとでは問題が発生した時の対処が違う。既に手をつけるべき場所はないとはいえ、生まれ出でた世界に対する愛着はある。その意味で未だ世界に対する役割を放棄せずに生きているのだが。
「実際のところ。僕らはもう生きていなくてもいい。世界は廻り始めている。だから僕らはここに引きこもり、世界の運営を見ているだけだった。世界が生まれ、育まれ、人間が精霊を縛る術を見つけ……。遥か昔に君が拘束されたのも、世界が生まれてからも愛着を捨てきれずにふらふらと歩き回っていた君の自業自得だろう」
今はサラマンドラ、と名乗っていたね、と男は語った。力の塊は答えない。ずるずると未練がましく動いているそれは、既に狂い、強大な力を制御できていないただのガラクタだ。だから、説得でも、説教でも、なんでもなく、男はただ語りかけていた。
「闇も、光も、岩も、木も、土も、雷も、数えることもできないほどの数多の精霊を、君はここに帰ってきてから喰らった。だからもう、君は君がどんな形をしていたかも思い出せなくなっている。ただの力の塊として、ここで蠢くだけになっている。見ろよ。あんまりにも力が重過ぎて、君は僕のいる場所まで浮上できない。無様だね」
それでも、女はただの一点のみ狂っていなかった。恐らく人界で喰らってきた人間の魂なのだろう。弱弱しく、存在していることが奇跡と呼べるほどの小さな力の塊は、サラマンドラの腹の中で消化されることも周囲の重圧に潰されることもない。
だがそれは存在しているだけだ。同化したわけではないのだから、食べる過程で記憶も、意思も、知識も削ぎ落とされ、ただの力の塊になっている。
「個性を失った魂には、力以上の価値はないと君は知っていたはずだろうに」
ずるり、と男の足元スレスレを力の塊が通り過ぎていった。おっと、と少しだけ焦燥を浮かべて男は身体を浮上させる。男も神霊の一種だ。肥大化した彼女ほどではないが持っている力の大きさゆえに彼女から逃げることができていない。
だが、焦りを顔に浮かべながらも男は意地が悪そうに笑った。
「それとも。同化して君が食べた男の意思を知ることが怖かったかい?」
瞬間、力の塊から発せられた重圧に、男の身体から大量の冷や汗にも似たものが溢れた。意思が残っているのか、と男は疑うが。愚問だった、と考え直す。サラマンドラは未だあの魂を潰すことなく維持している。それは、彼女の意思そのものだ。アレが残っている以上。サラマンドラは、まだ"いる"のだ。
男は気を取り直し、再び言葉を紡ぐ。正確に通じているとは思わないし、自らの危険が増えるだけで意味の無い行為だ。それでも、かつてはくだらない笑い話をした仲でもあるし。サラマンドラが喰い散らかしたためにもう男と女の二人しか古い精霊は残っていない。だから憐憫にも似た複雑な感情を乗せて男は話を続ける。
「昔の君はもっと高みにあったはずなんだが……。世界が生まれて、役目を失った君は、ただふらふらとさ迷い歩いて。そうして、未だ始原の知識に通じていた男に囚われた。そうして、数百年もの間、ただ屈辱と凌辱に日々を過ごし。虜囚だったころに味わった魂の旨みを忘れられず、ただ殺し、彷徨い、迷い続けた。そんな不安定な状態でいるから、ただの力にまで堕ちて。君は本当に……いや、こんな馬鹿馬鹿しい表現。僕は言いたくないねぇ」
馬鹿にしたように男は嗤い。そうして口を閉じる。だが、蠕動する塊を見ながら、小さな魂に目を向けた。
「アレード=ディザスターだったかい? 君は何を求めて、何をしようとしていたんだ……。結局のところ、僕には君が全ての原因とは思えない。ちっぼけすぎたからね。噂で聞く君は今の君より何倍も大きく、強く思えたものだ。それが今ではこんな、最も下級の精霊たちよりも弱くなっている」
小さな魂は何も返さない。返せない。サラマンドラは魂を求めて蠕動するだけだ。男はとてもつまらなさそうに鼻を鳴らすと嘲りではなく、少しの微笑みを浮かべてその二つを見た。そうして、笑みを消し。小さく呟く。
彼の背後には、小さな穴が開いていた。やっと救援が届いたからだ。
「さて、サラマンドラ。数年後に君を殺しに恐ろしい連中がやってくるだろう。この世界に存在する全ての精霊が召喚されている。僕で、最後だからね。――彼らは全力で君を殺すだろう。今はまだここに到達できる兵器は存在していないが僕が力を貸す。僕も、君に多くの友を喰われた。なにより、君は哀れだ。狂人が壊れた人形を抱いているようなものだからね。だから、殺す。とても見れたものじゃない。それを君に告げておく。人界で言う宣戦布告だ」
だから、それまでは、どうか幸せな夢を。
男の姿が消えていく。
これより数年の後に宣言は本当のものとなる。
精霊界に向けて数多の兵器が差し向けられ、大陸史上最大の戦いが幕を開けることになる。
『――アレードさま……わたしは……あなたさまを……おしたいもうしております』
小さな呟きは誰の耳に届くことも無く。かつて浅瀬 信と呼ばれた男の魂が、巨大な力の塊が起こす波に揺れることも無く、抱かれるように揺蕩うだけであった。
巨大で、確固たる意思の無い、サラマンドラと呼ばれた力の塊の周囲を誰が着る事もないメイド服が流れていき、やがて、幻のように溶けていった。
最後のシーンのルート分岐は来週投稿します。